特別編 夏樹IF 選んだ未来
※本編とは異なる“IF”の未来を描いた特別編です。人によっては蛇足。
※この物語には、幸福と、それに伴う結末が含まれます。
この話は、
「もし翔が“夏樹を選んだ”世界線」の物語です。
そこに、救いはあります。
同時に、救われないものも、確かに存在します。
どうか、
“幸せだった時間”そのものを、否定しないで読んでいただけたら嬉しいです。
それでは、
夏樹が選ばれた未来を、お楽しみください。
白い光が、扉の向こうから溢れていた。
重厚な扉の隙間から、無数のフラッシュと、ざわめきと、花の香りが流れ込んでくる。
その向こうに広がっているのは、間違いなく“祝福”の空間だった。
「……すげぇな」
翔は、思わずそう呟いていた。
隣に立つ夏樹が、ドレスの裾をそっと持ち上げながら、くすっと笑う。
「なに、今さら?」
「いや……現実感なくて」
「現実だよ、翔くん」
そう言って、夏樹は翔の方を見る。
白いドレスに包まれたその姿は、
翔が何度も想像してきた“未来”そのものだった。
肩から流れるベール、控えめに光るティアラ、
いつもより少し大人びた微笑み。
——この人と、結婚するんだ。
胸の奥がじんわりと熱くなって、
思わず、翔は視線を逸らした。
「……緊張してる?」
夏樹が、そっと聞く。
「してないって言ったら嘘になります」
「私も」
夏樹はそう言って、翔の手を、そっと握った。
その温度が、妙にリアルで、
夢じゃないと、改めて教えられる。
扉が、ゆっくりと開く。
一斉に降り注ぐ拍手と歓声。
光に包まれたバージンロードの向こうには、
見慣れた顔が、たくさん並んでいた。
結衣は、ぎこちない黒のワンピース姿で、
腕を組みながら、どこか誇らしげに笑っている。
響は、すでに目元が赤く、
「泣いてねぇからな!」と誰にともなく言っている。
柊は、少し離れた位置で、
静かに、でも確かに拍手していた。
——そして、一席だけ。
ぽっかりと、空いている席。
翔は、その席を見ないように、
そっと、夏樹の方へ視線を戻した。
「……歩こう」
夏樹が、小さく言う。
翔は、頷く。
一歩、踏み出す。
そのたびに、拍手が大きくなる。
祝福の音に包まれながら、二人は、ゆっくりと進んでいく。
(ここまで来たんだな)
高校の教室で、隣の席に座っていた日から。
部活帰りに、コンビニでだらだら話していた夜から。
数えきれない“どうでもいい日常”の積み重ねが、
今、この一瞬に、全部繋がっている。
翔は、ちらりと夏樹を見る。
夏樹は、前を見ているのに、
ほんの少しだけ、目が潤んでいた。
「……泣くなよ」
「翔くんこそ」
「俺は泣かない」
「じゃあ、私も泣かない」
そんな、小さなやり取りが、
この場所では、ひどく尊かった。
二人が並んで立ったその瞬間、
祝福の空気が、完全に“形”を持った気がした。
——ここが、選んだ未来の、頂点だった。
◆
式は、笑いと祝福に包まれながら、滞りなく進んでいく。
司会の声が、会場に静かに響く。
「それではここで、ご友人代表として、響さんより乾杯のご発声をお願いいたします」
ざわめきの中、
マイクを渡された響が、目をぱちぱちさせて立ち上がる。
「……え、俺?あ、あー……」
一瞬、言葉に詰まり、後頭部を掻く。
「こーいうの得意だったはずなんだけどなぁ……」
その時点で、すでに会場に小さな笑いが広がる。
「えー……と」
翔と夏樹を見る。
「夏樹ちゃん、翔」
一瞬、言葉を選ぶようにしてから、照れくさそうに続けた。
「正直、最初は“なんでこの二人が?”って思ってた」
会場がざわつく。
「でもな、高校の頃からずっと見てて……気付いたら、当たり前みたいに隣にいて。気付いたら、当たり前みたいに支え合ってて……なんかもう、見てるこっちが“はいはい”ってなるくらいだった」
笑いが起こる。
「だから今日は、ほんとに……」
一拍置いて、響は少しだけ真面目な顔になった。
「……心から、おめでとう。翔、夏樹ちゃん、幸せになれよ」
一瞬だけ、声が震えたのを、本人は誤魔化すように大きく息を吸う。
「よし!とりあえず夏樹ちゃん!翔!結婚おめでとーー!!かんぱーーーーい!!!」
その声に合わせて、
一斉にグラスが掲げられる。
「かんぱーい!」
会場が一気に明るくなり、
翔と夏樹は顔を見合わせ、笑いながらグラスを合わせた。
——その直後。
司会が、再びマイクを取る。
「続きまして、同じくご友人代表として、柊さんより一言いただきます」
一瞬、空気が変わる。
柊が、ゆっくりと立ち上がり、マイクを受け取る。
響とは違い、
派手な動きもなく、淡々とした所作。
「……こういう場で喋るのは、正直、得意じゃない」
柊らしい、率直すぎる一言に、会場がくすっと笑う。
「だから、長くは話さない」
そう言ってから、翔を見る。
「翔」
名前を呼ばれた瞬間、
翔の背筋が、自然と伸びた。
「高校の頃、お前はよく“俺は普通だ”って言ってた。でもな、普通なやつは、あんなに周りを巻き込まない。普通なやつは、あんなに人の人生を変えない」
会場が、静かになる。
柊は、次に夏樹を見る。
「夏樹、お前は……」
一瞬、言葉を探すように視線を落としてから、続ける。
「……誰よりも、人のことを考えてるくせに、自分のことを後回しにするやつだった。だから今日、この場所に立ってるのを見て……ようやく、“報われた”って思えた」
静かな声なのに、
ひとつひとつの言葉が、深く刺さる。
「二人は、たぶん、完璧な夫婦じゃない。喧嘩もするし、ぶつかることもある、でも」
柊は、少しだけ口角を上げた。
「……一緒に“間違える”ことができる二人なら、それでいい…俺は、そう思う」
一拍置いて。
「結婚、おめでとう」
柊は、深く一礼した。
その瞬間、
会場に、先ほどとは違う種類の拍手が広がった。
響が、小さく「……かっけぇな」と呟いているのが聞こえた。
翔は、言葉が出なかった。
胸の奥が、いっぱいで、
ただ、深く頷くことしかできなかった。
夏樹は、そっと、翔の手を握った。
◆
——一年前。
街の灯りが、ガラス越しに揺れていた。
夜景が一望できる高層レストラン。 静かなピアノの音が流れ、グラスが触れ合う微かな音すら、心地よく響く。
窓際の席。 翔と夏樹は向かい合って座っていた。
「……こういう店、久しぶりだね」
夏樹が、ワイングラスを持ちながら笑う。
「記念日ですから。さすがにファミレスってわけにもね」
「翔くん、成長したなぁ。昔は“腹いっぱいになればそれでいい”とか言ってた人が」
「いや、それは今でも本音ではありますけど」
そう言って、二人で笑う。
高校を卒業してすぐに付き合い始めて、もう四年。 社会人になってからも、忙しさの中で会う時間を作って、 ぶつかることもあったけれど、それ以上に、当たり前のように隣にいた。
「……高校の時さ」
夏樹がふと、窓の外に視線を投げながら言った。
「今こうして、私と付き合ってる未来があるって、想像できた?」
「正直、無理でしたね」
翔は即答した。
「卒業したら、疎遠になるんだろうなって思ってました」
「ひど」
「でも、今は……」
翔は一度、言葉を切って、夏樹を見る。
「今は、こうなって良かったって、心から思ってるよ」
その言葉に、夏樹は一瞬だけ目を伏せてから、柔らかく微笑んだ。
「……私も」
しばらく、静かな時間が流れる。 ナイフとフォークの音。 遠くの笑い声。 夜景に反射する、夏樹の横顔。
翔は、ゆっくりと、席を立った。
「……え?」
夏樹が顔を上げると、翔は、彼女の前で膝をついた。
その動作ひとつで、
“ただの記念日ディナー”じゃないことが、夏樹にも伝わる。
「夏樹」
翔は、少しだけ声を震わせながら、小さな箱を取り出した。
「俺と……結婚してくれないか」
箱が開かれ、中で指輪が静かに光る。
「……っ」
夏樹は、一瞬、言葉を失った。
目を見開き、口を開けたまま固まる。 そして次の瞬間、ぽろっと、涙が落ちた。
「……っ、は……はい……」
声にならないほど、小さく、でも確かにそう言った。
翔は安堵と喜びが一気に込み上げてきて、思わず笑ってしまう。
「……良かった」
指輪を、震える指で夏樹の薬指にはめる。
夏樹は、その指を見つめて、何度も瞬きをした。
「……ほんとに……現実なんだ……」
「現実だよ」
翔がそう言うと、夏樹は顔を上げて、涙で濡れたまま笑った。
「……翔くん」
「はい」
「絶対、幸せになろうね」
「……なります」
二人は、そっと額を寄せ合った。
その時だった。
ふと、“視線”を感じた気がして、翔は一瞬だけ、顔を上げた。
——けれど、それが誰かを確認する前に、
翔の意識は、目の前の夏樹の笑顔に引き戻されていた。
「……どうしたの?」
「いや、なんでも」
翔はそう言って、夏樹の手を握り直した。
——その“視線”の意味を、まだ誰も知らなかった。
◆
乾杯が終わり、会場はすっかり和やかな空気に包まれていた。
グラスがテーブルに戻され、あちこちから拍手と笑い声が湧き上がる中、
照明が少し落とされ、司会の声が響く。
「それでは、新郎新婦によるケーキ入刀です!」
その言葉と同時に、会場の奥から現れたのは――
あまりにも巨大な、三段重ねのウェディングケーキだった。
白を基調としたクリームに、赤い苺と金色の装飾。 まるで“幸せ”という概念を、そのまま形にしたようなケーキ。
「……でっっか」
思わず翔が呟く。
「食べきれるわけないでしょ、これ」
夏樹が苦笑する。
「全部食うなよ夏樹ー!!」
すかさず柊の声が飛んだ。
「ちょっと、聞いた?翔くん。今の」
夏樹が腕を組んで睨む。
「あとでシバいていい?」
「今日はやめときましょう、今日は」
翔が必死に止めると、会場がどっと笑いに包まれる。
「幸せそうで何よりだぜ、お二人さん!」
結衣がグラスを持ちながら叫ぶ。
「夏樹、全部食べんなよー!」
「そうだぞ〜!」
響が続けて、ニヤニヤしながら言う。
「全部食ったらうちの嫁さんみたいになるぞ〜!」
「はぁ!?」
結衣が即座に振り向いた。
「なんで今私にヘイト向けた!?」
「いや、流れ的に……」
「流れ無視すんなバカ!!」
結衣の拳が響の肩に炸裂して、また笑いが起こる。
「……ねえ翔くん」
夏樹が、包丁を手にしながら小さく囁く。
「私たち、こんな騒がしい家庭になる気がするんだけど」
「……今さらだな」
「だよね」
二人で目を合わせて、笑った。
司会が声をかける。
「それでは、新郎新婦、ご一緒に……」
翔と夏樹は、並んで包丁を握った。 重なる手。 ほんの少しだけ、夏樹の指が震えている。
「緊張してる?」
「……ちょっとだけ」
「大丈夫だよ。俺がついてますから」
その一言に、夏樹の指の震えが、すっと止まった。
「……ありがとう」
「せーの……」
二人で、ゆっくりと包丁を入れる。
ふわりと切り分けられるケーキ。 白いクリームが、柔らかく割れる。
その瞬間、会場から拍手と歓声が一斉に湧き上がった。
「おおおおお!!」
「おめでとーーー!!」
フラッシュが瞬き、笑顔が弾ける。
翔は、横で笑う夏樹を見た。
——ああ、この人となら、
どんな未来でもやっていける。
そう、本気で思えた。
「……翔くん」
「ん?」
「今日さ……一生忘れない日にしよ」
「もうなってるよ」
その言葉に、夏樹は照れくさそうに笑った。
「……じゃあ、これからも一生、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
二人は、ゆっくりと頭を下げた。
拍手の中で。 笑い声の中で。 “何も壊れていない未来”の真ん中で。
そして、司会の声が続く。
「それでは、新婦はお色直しのため、一度退場となります!」
夏樹が一歩、後ろを振り返る。
翔と、目が合う。
ほんの一瞬だけ、
“何か言いたそうな顔”をしてから、夏樹は笑った。
「……すぐ戻るね」
「はい、待ってます」
それが――
翔が夏樹にかけた、最後の約束になるとも知らずに。
◆
——結婚式の二ヶ月前。
その日は、二人とも仕事が休みだった。
カーテンの隙間から差し込む光はやわらかく、昼前の部屋はまだ少し眠たげな空気を残している。
ソファの上で、夏樹は翔に寄りかかるようにして、テレビをぼんやり眺めていた。
内容なんて、ほとんど頭に入っていない。
流れているのは、どうでもいいバラエティ番組。
でも、それでよかった。
「……ねえ翔くん」
夏樹が、何気ない声で言った。
「ん?」
「私、今めっちゃ幸せ」
翔は、少しだけ驚いて、でもすぐに小さく笑った。
「なんだそれ。急だな」
「急じゃないよ。前から思ってた」
そう言って、夏樹は翔の腕に自分の指を絡める。
「こうして、何もない日に一緒にいられるのがさ……
すごく、ありがたいなって」
翔は、返事の代わりに、そっと夏樹の髪を撫でた。
「……俺もだよ」
しばらく、沈黙が流れる。
でも、気まずさなんてひとつもなくて、
むしろ、その“何も話さない時間”が心地よかった。
夏樹は、少しだけ姿勢を変えて、翔の方を見上げる。
「ねえ」
「ん?」
「……絶対、幸せになろうね」
翔は、一瞬だけ言葉を探してから、静かに答えた。
「なるよ」
その声は、迷いがなかった。
夏樹は、少しだけ照れたように視線を逸らし、
それから、ぽつりと続けた。
「……三人で」
翔は、その言葉に、目を見開いた。
「……え?」
夏樹は、少しだけ不安そうに、でも確かに笑っていた。
「その……ほら……」
言葉を探して、指先をもじもじさせる。
「……赤ちゃん、できた」
一瞬、世界の音が消えた気がした。
「……え、マジで?」
翔は思わず立ち上がる。
「ちょ、ちょっと待て、それって……」
「うん」
夏樹は、こくりと頷いた。
「……えへへ」
その瞬間、翔の中で、喜びと不安と実感が一気に溢れた。
「……やば……」
そう言って、翔は、ぎゅっと夏樹を抱きしめた。
「……ありがとう」
「え、なんで私がお礼されてんの」
「なんとなく……」
夏樹は、少し笑ってから、そっと翔の背中に腕を回した。
机の上には、二人のスマホが並んで置かれている。
そこには、高校一年の時のデートで買った、お揃いのキーホルダー。
少し色褪せて、傷もついているけれど、
それが、やけに“長く一緒にいた証”みたいに見えた。
「……あの時さ」
夏樹が言う。
「キーホルダー選んでる時、
まさかここまで来るとは思ってなかったよね」
「正直、あの時は“かわいいな”くらいしか考えてなかった」
「ひど」
「でも、今は……」
翔は、キーホルダーを見つめながら言った。
「これ、ただの飾りじゃなくなったなって思う」
夏樹は、少し驚いた顔をしてから、嬉しそうに笑った。
「……うん」
二人は、そのまましばらく何も話さず、
ただ同じ空間に、同じ未来を置いたまま、時間を過ごしていた。
——この時、二人はまだ知らなかった。
この幸せが、どれほど脆く、
そして、どれほど尊いものだったかを。
◆
お色直しのため、夏樹は控え室へと向かう。
「夏樹さん、こちらです」
スタッフに案内され、席に着く。
扉が閉まると、外の喧騒は一気に遠ざかった。
「……ありがとう」
「いえいえ。夏樹さん……幸せですか?」
「うん、とっても」
夏樹はそう言って、携帯を取り出し、式の写真を眺めながら、自然と頬が緩む。
「おめでとうございます、夏樹さん……」
そして、続いた声は、ひどく懐かしかった。
「……ごめんなさい」
その瞬間。
夏樹の腹部に、燃えるような痛みが走った。
「……え?」
視線を落とすと、白いドレスに、赤が滲んでいく。
背後に立つのは、スタッフではなかった。
「……どうして……菜々……ちゃ……」
血を吐きながら、そう呟く。
「……ごめんなさい……」
包丁が引き抜かれ、床に転がる。
包丁が引き抜かれる音が、やけに大きく響いた。
それだけで、世界が壊れた音だと分かった。
菜々はそのまま、何も言わず、裏口から会場の外へと消えていった。
「……幸せだったのにな……これからだったのに……ごめんね、翔くん……」
視界が暗くなる中で、夏樹の脳裏には、翔の顔と、まだ見ぬ子どものことが浮かんでいた。
机の上に置かれた携帯。
お揃いのキーホルダーに、赤い雫が、ぽたりと落ちる。
——選んだ未来は、そこで、終わった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
この特別編は、
「夏樹と翔が結ばれたら、世界は本当に救われるのか?」
という問いに対する、ひとつの答えとして書きました。
夏樹は、確かに幸せでした。
翔と、仲間と、そして生まれてくる命と。
それでも――
世界は、彼女に“幸せであること”を許さなかった。
それは誰かが悪いわけでもなく、
誰かを選んだ“結果”が生んだ歪みでもあります。
この物語が伝えたかったのは、
「誰を選んでも、誰かの未来は壊れてしまう」という現実です。
だからこそ、本編の翔が迷い、悩み、立ち止まっている姿には
ちゃんと“意味”がある。
夏樹は、確かに幸せでした。
そして、その幸せは“嘘”ではありません。
ただ――
それでも壊れてしまっただけ。
もしこの物語が、
誰かの心に、少しでも何かを残せたなら、
それはきっと、夏樹が“生きた証”になります。
本編では、また違う未来が待っています。
そちらも、どうか見届けてください。




