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陽菜との平和な一日

最高の夏休みから、三日。


あの大型モールで、笑って、走って、爆発映画を見て、最後に“歪み”の影が落ちた日から、時間はちゃんと流れていた。


——なのに、胸の奥だけは、置いていかれたままだった。



朝。


菜々は早起きして、いつものようにキッチンに立っていた。けれど今日は、エプロンの紐を結ぶ手がいつもより早い。


「翔さん、私、今日は朝から出ますね」


「あら珍しい、どこ行くんだ?」


リビングのソファで髪を乾かしながら、翔が顔を上げる。


「結衣さんと、遊びに行ってきます。…待ち合わせ、ちょっと早いので」


「お、いいじゃん。楽しんでこいよ」


「はい。……楽しんできます!」


菜々は小さく笑って、靴を履く前に一度だけ振り返る。


「お昼、ちゃんと食べてくださいね」


「分かってるって」


「分かってない顔です」


「うるせぇ」


笑い合って、玄関のドアが閉まる。

家の中が、少しだけ広くなった気がした。

翔の母も仕事に出ていて、昼までは翔ひとり。


静かなリビングの空気に、時計の針の音がやけに目立つ。


(……今日は、平和に終わる日だ)


そう思いたい。そういう日があっていい。

考え込む前に、スマホが震えた。


『今、駅ついた。店、入ってるね』


短い文面。陽菜らしい。

翔は「了解です」とだけ返して、玄関の鍵を確かめて家を出た。



ランチの店は、駅前の喧騒から一本入ったところにあった。

ガラス越しの光は柔らかく、店内は涼しくて、音が丸くなる。


「……ここ、落ち着くね」


先に席に座っていた陽菜が、メニューを閉じながら言った。


制服じゃない陽菜は、やけに“大人っぽい”というより、落ち着いた空気が増して見える。黒髪はきちんとまとめられていて、目が合うとすぐ逸らすのに、逃げる感じはない。


「陽菜がこういう店選ぶの、意外」


「騒がしいの、嫌いじゃないけど……今日は静かにしたかった」


「……俺、うるさかったですか?」


「違う。うるさいのは、いつものメンバー」


さらっと言って、陽菜は水を一口飲む。


「……翔は、巻き込まれてるだけ」


「その言い方だと、俺が被害者みたいですね」


「被害者でしょ。主に結衣に」


「否定できないです……」


注文が届くまで、他愛ない話をした。

最近の部活、課題、暑さ、コンビニのアイスの話。

陽菜は必要以上に突っ込まないし、翔も無理に明るくしなくていい。



料理が運ばれてくる。

翔はハンバーグ。

陽菜はパスタ。


皿が置かれた瞬間、翔の視線が、陽菜の皿に止まった。


「……うわ、パスタもありでしたね」


「そう?」


陽菜がフォークを持ち上げるが、すぐに止めて、少し考えるように翔を見る。


「……食べる?」


翔は一瞬、間を置いてから答えた。


「いや、いい……って言おうとしたけど」


「どっちだし」


「……ちょっとだけ」


陽菜はフォークでパスタを少し巻いて、差し出してくる。


「あーん」


(おいおい、うそだろ)


翔は一瞬だけ周りを見てから、観念して口を開けた。

トマトソースの酸味と、熱が広がる。


「……うまい」


「でしょ」


陽菜は満足そうに、自分のパスタに戻る。

翔が水を飲んでいると、今度は陽菜の方がハンバーグに視線を落とした。


「……そっちも」


「え」


「陽菜も、ハンバーグ」


翔は一瞬だけ驚いた顔をしてから、小さく頷いた。


「……じゃあ」


翔はフォークで一口切り分けて、そっと差し出す。


「あーん」


(なにやってんだ俺)


陽菜はほんの少しだけためらってから、口を開けた。


「……おいしい」


それだけ言って、視線を逸らす。

翔はなぜか、胸の奥が妙にざわついた。


陽菜は一拍置いて、視線を外に投げた。


「……菜々ちゃん、今日いないんでしょ」


唐突に、核心みたいな言葉。


「え、ああ。結衣と遊びに行ってる」


「ふうん」


陽菜はそれだけ言って、パスタを一口食べた。


「……で、夏休み、どう過ごすの」


話題を変えたふりをして、ちゃんと刺してくる。

翔は苦笑して、正直に答える。


「適度に勉強しつつ、部活も参加しつつ、遊べるだけ遊びたいですね」


「ふふ、翔らしいね」


陽菜の笑いは小さい。

でも、その小ささがちゃんと“肯定”になっている。


「陽菜さんは?受験生ですよね」


「私は……勉強が基本。でも、息抜きもいる」


「その息抜きが今日ですか?」


「そう」


陽菜は水を飲んで、真っ直ぐ翔を見る。


「……今日くらい、何も起きない日が欲しかった」


翔は返事が遅れた。

何も起きない日。


その言葉が、今の自分にとって“願い”になってることが、ばれてしまったみたいで。


「……わかります」


それだけ言うと、陽菜は小さく頷いた。



店を出ると、夏の光が容赦なく降ってきた。

さっきまで冷房に守られていた肌に、じわっと汗が浮く。


「暑っ……」


「夏だから」


陽菜が淡々と返す。


「……このあと、どこ行きます?」


「美術館」


即答。


翔は一瞬立ち止まった。


「美術館?陽菜さんが?」


「私が言い出したら変?」


「変じゃないけど、意外」


「……静かなところがいい。あと、冷房」


「結局それ一番ですね」


「大事」


陽菜は、ほんの少しだけ口元を上げて歩き出す。

その背中に追いつきながら、翔は思う。


(陽菜といると、呼吸が整う)


菜々といる安心とは違う。

結衣たちといる楽しさとも違う。

夏樹といる時の、妙な温度とも違う。


“整う”感じ。


駅から少し歩く。途中、コンビニで冷たい飲み物を買った。

陽菜は無糖のアイスコーヒー。翔はスポーツドリンク。


「甘いやつじゃないんですね」


「眠くなる」


「受験生怖……」


「怖いのは、落ちる方」


淡々と言って、陽菜は一口飲む。

その横顔は冗談じゃない。


「……翔、さっき店で変な顔してた」


「え」


「“何も起きない日が欲しい”って言った時」


翔は言葉を探した。


「……別に、変な意味じゃ」


「分かってる」


陽菜は歩く速度を変えないまま言う。


「でも、翔は嘘が下手」


「……否定出来ないですね」


「事実」


その短いやり取りが、妙に心地いい。

詮索されないのに、見抜かれている感じ。

だから、隠すのも疲れる。



美術館に着くと、入口のガラスが光を反射していた。

看板は派手じゃないのに、そこに“空気が違う”場所があるのが分かる。


チケットを買って、静かな通路を進む。

扉をくぐった瞬間、外の熱が遠ざかった。

冷えた空気が肌にまとわりついて、背筋がすっと伸びる。


「……ここ、好き」


陽菜はそれだけ言って、展示室へ足を向ける。

床に落ちる足音が、やけに鮮明に響く。


最初の部屋は静物画だった。

果物、瓶、布の皺。動かないものなのに、色だけが生きている。


陽菜は一枚の前で止まった。


「……これ、見て」


指差したのは、光の当たり方が妙にやさしい絵だった。

翔が近づくと、確かに同じ“白”なのに、白が何種類もある。反射、影、湿度みたいなものまで描かれている気がした。


「すごいですね……白って、こんなに違うんだ」


「うん。『白』って言うと簡単だけど、本当はぜんぜん簡単じゃない」


陽菜は作品を見たまま言った。

その横顔は、いつもより少しだけ柔らかい。

次の展示室では、現代アートが増えていく。

意味が分からないもの。意味が分からないのに目が離せないもの。


翔が首を傾げていると、陽菜がふっと息を吐いた。


「分からなくていいよ」


「え」


「分からないって思えるのも、ちゃんと見てる証拠」


「……そうなんですか?」


「うん。分かったふりする方が、よっぽど雑」


きっぱり言い切るのが陽菜らしくて、翔は小さく笑った。

その笑いが、展示室の静けさにすっと溶ける。


歩きながら、陽菜はときどき翔の方を見る。

作品を見ているようで、作品だけを見ていない目。


翔が「なんか顔についてる?」と冗談めかして聞くと、陽菜は首を横に振った。


「……翔の顔、今日は落ち着いてる」


「そりゃ、静かですしね」


「違う。静かな場所に来たから落ち着いてるんじゃなくて、落ち着こうとしてないのに落ち着いてる」


翔は言葉に詰まった。

陽菜は淡々と続ける。


「たぶん、今は“平和”を信じたいんだと思う」


胸の奥を、指先で軽く押されたみたいだった。

否定したいのに否定できない。

翔は作品に視線を戻すふりをして、息を吐いた。


「……信じたいですね」


陽菜は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「うん。信じていい」


それから、一拍。


「……ただ、目は逸らさないで」


その一言が、絵の色よりも濃く残った。

展示室の端、ガラス越しに見える外の空はまだ明るい。

なのに、翔の胸のどこかだけが、ひやりと冷えた気がした。


(目を逸らすな……か)


誰のことを言ってるわけでもない。

でも、翔は分かってしまう。

自分が今、何から目を逸らしたいのか。



美術館を出る頃、空は夕方の色に傾いていた。

昼の熱が少し引いて、風がやわらかい。


「……帰る」


陽菜が言った。


「早いですね」


「受験生。勉強ある」


「現実だなぁ」


「現実」


陽菜はそう言って、少しだけ視線を逸らす。


「……今日は、平和でした」


翔が言うと、陽菜は頷いた。


「うん。平和だった」


一拍置いて、陽菜は続ける。


「……でも、平和って、油断するとすぐ割れる」


「怖い言い方しないでくださいよ」


「怖がらせたいんじゃない」


陽菜は真っ直ぐ翔を見る。


「翔は、顔に出ないタイプほど危ない。……無理して笑うの、上手いから」


翔は息を飲んだ。


「……俺、そんなに分かりやすいですか?」


「分かりやすくない。だから危ない」


陽菜はそう言い切って、スマホを見る。


「じゃ、ここで」


「送りますよ?」


「いらない。駅近い」


陽菜は立ち止まって、少しだけ迷うみたいに口を開いた。


「……今日、誘ってよかった?」


「……よかったです。普通に新発見が多くて楽しかったです」


その答えを聞いて、陽菜の肩の力がほんの少しだけ抜けた気がした。


「なら、いい」


それだけ言って、陽菜は歩き出す。

背中はまっすぐで、迷いがない。


翔は、その背中を見送りながら、胸の奥が少しだけ温かいのに、同時に少しだけ怖かった。


(“平和だった”って言える日、貴重なんだな)



家に帰ると、玄関を開けた瞬間、匂いで分かった。

味噌と、炒め物の香り。

キッチンの音。鍋が当たる音、換気扇の低い唸り。


「ただいま」


「おかえりなさい」


菜々の声。

そして、少し遅れて。


「おかえり翔」


母の声。

台所に顔を出すと、菜々がエプロン姿で野菜を切っていて、母がフライパンを振っていた。


“いつも通り”の光景。なのに今日は、それがやけにありがたく感じた。


「陽菜ちゃんと?」


母が何気なく聞いてくる。


「うん。ランチ行って、そのあと美術館」


「へぇ、珍しい」


「陽菜さんが行きたいって」


菜々が包丁を置かずに、さらっと言う。


「陽菜さん、美術館好きなんですね」


その声は落ち着いている。

落ち着いているからこそ、翔は変に意識してしまう。


「……菜々は、結衣とどうだった?」


「楽しかったです」


即答。

それから一拍、菜々は笑う。


「結衣さん、ずっと元気でした」


「それは想像つく」


母が笑って、菜々も小さく笑う。

その笑いが、家の中の空気を丸くする。


夕飯は、いつも通りの味だった。

いつも通りで、ちゃんと美味しい。

翔が箸を動かすたびに、菜々が横で小さく「よかった」と息を吐くのが分かる。

母はそれを見て見ぬふりをして、テレビのニュースに文句を言っている。


(……平和だ)


本当に、何も起きない。



夜。


風呂を済ませて部屋に戻る。

布団を敷いて、電気を落とす。


真っ暗になると、昼の光も、夕方の風も、全部遠ざかる。

残るのは、呼吸の音と、胸の奥のざわつきだけだ。


菜々は先に寝ている。

静かな寝息。規則正しい音。

翔は天井を見つめたまま、陽菜の言葉を思い出す。


——目は逸らさないで。


——顔に出ないタイプほど危ない。


(俺、何から目を逸らしてる)


答えは分かってる。

分かってるのに、名前にしてしまうと崩れそうで、言葉にできない。


最高の夏休みのあの日。

夏樹が「先帰るね」と言った時の、あの笑顔。


“飲み込む間”。


そして、妙に冷えた背中。


(……何も知らないふりは、もう無理だ)


でも、知ったところで、どうするんだ。

誰を守る。何を守る。どう選ぶ。

“守りたい”って思った瞬間に、選ばなきゃいけなくなる。


それが怖い。


暗闇の中で、翔は小さく息を吐いた。


(今日みたいな日が、ずっと続けばいいのに)


願うだけなら簡単だ。

でも、陽菜の言う通り、平和は簡単じゃない。

白が何種類もあるみたいに、

平和にも、いろんな“薄さ”がある。


翔は目を閉じる。

眠りに落ちる直前、胸の奥が、ひやりと冷えた。


——割れる音が、まだ鳴っていないだけ。


そんな予感だけが、静かに残っていた。

そして、夏休みは続く。


何も起きない顔をして。

確実に、何かを運びながら。


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