陽菜との平和な一日
最高の夏休みから、三日。
あの大型モールで、笑って、走って、爆発映画を見て、最後に“歪み”の影が落ちた日から、時間はちゃんと流れていた。
——なのに、胸の奥だけは、置いていかれたままだった。
◆
朝。
菜々は早起きして、いつものようにキッチンに立っていた。けれど今日は、エプロンの紐を結ぶ手がいつもより早い。
「翔さん、私、今日は朝から出ますね」
「あら珍しい、どこ行くんだ?」
リビングのソファで髪を乾かしながら、翔が顔を上げる。
「結衣さんと、遊びに行ってきます。…待ち合わせ、ちょっと早いので」
「お、いいじゃん。楽しんでこいよ」
「はい。……楽しんできます!」
菜々は小さく笑って、靴を履く前に一度だけ振り返る。
「お昼、ちゃんと食べてくださいね」
「分かってるって」
「分かってない顔です」
「うるせぇ」
笑い合って、玄関のドアが閉まる。
家の中が、少しだけ広くなった気がした。
翔の母も仕事に出ていて、昼までは翔ひとり。
静かなリビングの空気に、時計の針の音がやけに目立つ。
(……今日は、平和に終わる日だ)
そう思いたい。そういう日があっていい。
考え込む前に、スマホが震えた。
『今、駅ついた。店、入ってるね』
短い文面。陽菜らしい。
翔は「了解です」とだけ返して、玄関の鍵を確かめて家を出た。
◆
ランチの店は、駅前の喧騒から一本入ったところにあった。
ガラス越しの光は柔らかく、店内は涼しくて、音が丸くなる。
「……ここ、落ち着くね」
先に席に座っていた陽菜が、メニューを閉じながら言った。
制服じゃない陽菜は、やけに“大人っぽい”というより、落ち着いた空気が増して見える。黒髪はきちんとまとめられていて、目が合うとすぐ逸らすのに、逃げる感じはない。
「陽菜がこういう店選ぶの、意外」
「騒がしいの、嫌いじゃないけど……今日は静かにしたかった」
「……俺、うるさかったですか?」
「違う。うるさいのは、いつものメンバー」
さらっと言って、陽菜は水を一口飲む。
「……翔は、巻き込まれてるだけ」
「その言い方だと、俺が被害者みたいですね」
「被害者でしょ。主に結衣に」
「否定できないです……」
注文が届くまで、他愛ない話をした。
最近の部活、課題、暑さ、コンビニのアイスの話。
陽菜は必要以上に突っ込まないし、翔も無理に明るくしなくていい。
◆
料理が運ばれてくる。
翔はハンバーグ。
陽菜はパスタ。
皿が置かれた瞬間、翔の視線が、陽菜の皿に止まった。
「……うわ、パスタもありでしたね」
「そう?」
陽菜がフォークを持ち上げるが、すぐに止めて、少し考えるように翔を見る。
「……食べる?」
翔は一瞬、間を置いてから答えた。
「いや、いい……って言おうとしたけど」
「どっちだし」
「……ちょっとだけ」
陽菜はフォークでパスタを少し巻いて、差し出してくる。
「あーん」
(おいおい、うそだろ)
翔は一瞬だけ周りを見てから、観念して口を開けた。
トマトソースの酸味と、熱が広がる。
「……うまい」
「でしょ」
陽菜は満足そうに、自分のパスタに戻る。
翔が水を飲んでいると、今度は陽菜の方がハンバーグに視線を落とした。
「……そっちも」
「え」
「陽菜も、ハンバーグ」
翔は一瞬だけ驚いた顔をしてから、小さく頷いた。
「……じゃあ」
翔はフォークで一口切り分けて、そっと差し出す。
「あーん」
(なにやってんだ俺)
陽菜はほんの少しだけためらってから、口を開けた。
「……おいしい」
それだけ言って、視線を逸らす。
翔はなぜか、胸の奥が妙にざわついた。
陽菜は一拍置いて、視線を外に投げた。
「……菜々ちゃん、今日いないんでしょ」
唐突に、核心みたいな言葉。
「え、ああ。結衣と遊びに行ってる」
「ふうん」
陽菜はそれだけ言って、パスタを一口食べた。
「……で、夏休み、どう過ごすの」
話題を変えたふりをして、ちゃんと刺してくる。
翔は苦笑して、正直に答える。
「適度に勉強しつつ、部活も参加しつつ、遊べるだけ遊びたいですね」
「ふふ、翔らしいね」
陽菜の笑いは小さい。
でも、その小ささがちゃんと“肯定”になっている。
「陽菜さんは?受験生ですよね」
「私は……勉強が基本。でも、息抜きもいる」
「その息抜きが今日ですか?」
「そう」
陽菜は水を飲んで、真っ直ぐ翔を見る。
「……今日くらい、何も起きない日が欲しかった」
翔は返事が遅れた。
何も起きない日。
その言葉が、今の自分にとって“願い”になってることが、ばれてしまったみたいで。
「……わかります」
それだけ言うと、陽菜は小さく頷いた。
◆
店を出ると、夏の光が容赦なく降ってきた。
さっきまで冷房に守られていた肌に、じわっと汗が浮く。
「暑っ……」
「夏だから」
陽菜が淡々と返す。
「……このあと、どこ行きます?」
「美術館」
即答。
翔は一瞬立ち止まった。
「美術館?陽菜さんが?」
「私が言い出したら変?」
「変じゃないけど、意外」
「……静かなところがいい。あと、冷房」
「結局それ一番ですね」
「大事」
陽菜は、ほんの少しだけ口元を上げて歩き出す。
その背中に追いつきながら、翔は思う。
(陽菜といると、呼吸が整う)
菜々といる安心とは違う。
結衣たちといる楽しさとも違う。
夏樹といる時の、妙な温度とも違う。
“整う”感じ。
駅から少し歩く。途中、コンビニで冷たい飲み物を買った。
陽菜は無糖のアイスコーヒー。翔はスポーツドリンク。
「甘いやつじゃないんですね」
「眠くなる」
「受験生怖……」
「怖いのは、落ちる方」
淡々と言って、陽菜は一口飲む。
その横顔は冗談じゃない。
「……翔、さっき店で変な顔してた」
「え」
「“何も起きない日が欲しい”って言った時」
翔は言葉を探した。
「……別に、変な意味じゃ」
「分かってる」
陽菜は歩く速度を変えないまま言う。
「でも、翔は嘘が下手」
「……否定出来ないですね」
「事実」
その短いやり取りが、妙に心地いい。
詮索されないのに、見抜かれている感じ。
だから、隠すのも疲れる。
◆
美術館に着くと、入口のガラスが光を反射していた。
看板は派手じゃないのに、そこに“空気が違う”場所があるのが分かる。
チケットを買って、静かな通路を進む。
扉をくぐった瞬間、外の熱が遠ざかった。
冷えた空気が肌にまとわりついて、背筋がすっと伸びる。
「……ここ、好き」
陽菜はそれだけ言って、展示室へ足を向ける。
床に落ちる足音が、やけに鮮明に響く。
最初の部屋は静物画だった。
果物、瓶、布の皺。動かないものなのに、色だけが生きている。
陽菜は一枚の前で止まった。
「……これ、見て」
指差したのは、光の当たり方が妙にやさしい絵だった。
翔が近づくと、確かに同じ“白”なのに、白が何種類もある。反射、影、湿度みたいなものまで描かれている気がした。
「すごいですね……白って、こんなに違うんだ」
「うん。『白』って言うと簡単だけど、本当はぜんぜん簡単じゃない」
陽菜は作品を見たまま言った。
その横顔は、いつもより少しだけ柔らかい。
次の展示室では、現代アートが増えていく。
意味が分からないもの。意味が分からないのに目が離せないもの。
翔が首を傾げていると、陽菜がふっと息を吐いた。
「分からなくていいよ」
「え」
「分からないって思えるのも、ちゃんと見てる証拠」
「……そうなんですか?」
「うん。分かったふりする方が、よっぽど雑」
きっぱり言い切るのが陽菜らしくて、翔は小さく笑った。
その笑いが、展示室の静けさにすっと溶ける。
歩きながら、陽菜はときどき翔の方を見る。
作品を見ているようで、作品だけを見ていない目。
翔が「なんか顔についてる?」と冗談めかして聞くと、陽菜は首を横に振った。
「……翔の顔、今日は落ち着いてる」
「そりゃ、静かですしね」
「違う。静かな場所に来たから落ち着いてるんじゃなくて、落ち着こうとしてないのに落ち着いてる」
翔は言葉に詰まった。
陽菜は淡々と続ける。
「たぶん、今は“平和”を信じたいんだと思う」
胸の奥を、指先で軽く押されたみたいだった。
否定したいのに否定できない。
翔は作品に視線を戻すふりをして、息を吐いた。
「……信じたいですね」
陽菜は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「うん。信じていい」
それから、一拍。
「……ただ、目は逸らさないで」
その一言が、絵の色よりも濃く残った。
展示室の端、ガラス越しに見える外の空はまだ明るい。
なのに、翔の胸のどこかだけが、ひやりと冷えた気がした。
(目を逸らすな……か)
誰のことを言ってるわけでもない。
でも、翔は分かってしまう。
自分が今、何から目を逸らしたいのか。
◆
美術館を出る頃、空は夕方の色に傾いていた。
昼の熱が少し引いて、風がやわらかい。
「……帰る」
陽菜が言った。
「早いですね」
「受験生。勉強ある」
「現実だなぁ」
「現実」
陽菜はそう言って、少しだけ視線を逸らす。
「……今日は、平和でした」
翔が言うと、陽菜は頷いた。
「うん。平和だった」
一拍置いて、陽菜は続ける。
「……でも、平和って、油断するとすぐ割れる」
「怖い言い方しないでくださいよ」
「怖がらせたいんじゃない」
陽菜は真っ直ぐ翔を見る。
「翔は、顔に出ないタイプほど危ない。……無理して笑うの、上手いから」
翔は息を飲んだ。
「……俺、そんなに分かりやすいですか?」
「分かりやすくない。だから危ない」
陽菜はそう言い切って、スマホを見る。
「じゃ、ここで」
「送りますよ?」
「いらない。駅近い」
陽菜は立ち止まって、少しだけ迷うみたいに口を開いた。
「……今日、誘ってよかった?」
「……よかったです。普通に新発見が多くて楽しかったです」
その答えを聞いて、陽菜の肩の力がほんの少しだけ抜けた気がした。
「なら、いい」
それだけ言って、陽菜は歩き出す。
背中はまっすぐで、迷いがない。
翔は、その背中を見送りながら、胸の奥が少しだけ温かいのに、同時に少しだけ怖かった。
(“平和だった”って言える日、貴重なんだな)
◆
家に帰ると、玄関を開けた瞬間、匂いで分かった。
味噌と、炒め物の香り。
キッチンの音。鍋が当たる音、換気扇の低い唸り。
「ただいま」
「おかえりなさい」
菜々の声。
そして、少し遅れて。
「おかえり翔」
母の声。
台所に顔を出すと、菜々がエプロン姿で野菜を切っていて、母がフライパンを振っていた。
“いつも通り”の光景。なのに今日は、それがやけにありがたく感じた。
「陽菜ちゃんと?」
母が何気なく聞いてくる。
「うん。ランチ行って、そのあと美術館」
「へぇ、珍しい」
「陽菜さんが行きたいって」
菜々が包丁を置かずに、さらっと言う。
「陽菜さん、美術館好きなんですね」
その声は落ち着いている。
落ち着いているからこそ、翔は変に意識してしまう。
「……菜々は、結衣とどうだった?」
「楽しかったです」
即答。
それから一拍、菜々は笑う。
「結衣さん、ずっと元気でした」
「それは想像つく」
母が笑って、菜々も小さく笑う。
その笑いが、家の中の空気を丸くする。
夕飯は、いつも通りの味だった。
いつも通りで、ちゃんと美味しい。
翔が箸を動かすたびに、菜々が横で小さく「よかった」と息を吐くのが分かる。
母はそれを見て見ぬふりをして、テレビのニュースに文句を言っている。
(……平和だ)
本当に、何も起きない。
◆
夜。
風呂を済ませて部屋に戻る。
布団を敷いて、電気を落とす。
真っ暗になると、昼の光も、夕方の風も、全部遠ざかる。
残るのは、呼吸の音と、胸の奥のざわつきだけだ。
菜々は先に寝ている。
静かな寝息。規則正しい音。
翔は天井を見つめたまま、陽菜の言葉を思い出す。
——目は逸らさないで。
——顔に出ないタイプほど危ない。
(俺、何から目を逸らしてる)
答えは分かってる。
分かってるのに、名前にしてしまうと崩れそうで、言葉にできない。
最高の夏休みのあの日。
夏樹が「先帰るね」と言った時の、あの笑顔。
“飲み込む間”。
そして、妙に冷えた背中。
(……何も知らないふりは、もう無理だ)
でも、知ったところで、どうするんだ。
誰を守る。何を守る。どう選ぶ。
“守りたい”って思った瞬間に、選ばなきゃいけなくなる。
それが怖い。
暗闇の中で、翔は小さく息を吐いた。
(今日みたいな日が、ずっと続けばいいのに)
願うだけなら簡単だ。
でも、陽菜の言う通り、平和は簡単じゃない。
白が何種類もあるみたいに、
平和にも、いろんな“薄さ”がある。
翔は目を閉じる。
眠りに落ちる直前、胸の奥が、ひやりと冷えた。
——割れる音が、まだ鳴っていないだけ。
そんな予感だけが、静かに残っていた。
そして、夏休みは続く。
何も起きない顔をして。
確実に、何かを運びながら。




