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最高の夏休み 3

フードコートを出た瞬間、空気が少し軽くなった気がした。


油の匂いと人いきれの熱が背中に残っているのに、通路を歩く足取りだけは妙に弾む。


「映画、映画ー!」


先頭を走る結衣が、まるで遠足の小学生みたいに腕を振り上げる。


「走るなって言っただろ!」


翔が言いながら追いかけるが、もう遅い。

響がケラケラ笑って、柊が半歩遅れて淡々とついていく。


「結衣、迷子になんなよ」


「私が迷子になるわけないでしょ!」


「その自信どっから来るんだよ……」


翔のぼやきに、菜々が隣で小さく笑った。


「翔さんは迷子常習犯ですもんね」


「お前まで言うのかよ……」


「否定できないのが、翔くんのすごいところ」


夏樹がさらっと刺してくる。

その言い方が柔らかいから、刺されても痛くない。むしろ、笑ってしまう。


(……こういうの、いいな)


誰か一人といるのもいい。

でも、こうやって全員でわちゃわちゃして、どうでもいいことで笑って、時間を溶かしていくのは――夏休みって感じがする。



映画館のフロアに着くと、思った以上に人がいた。

チケット売り場の前に列ができていて、ポップコーンの甘い匂いが漂っている。


「うわ、混んでる」


翔が言うと、響が肩をすくめた。


「夏休みなめんなよ。モール=戦場だ」


「戦場の比喩が物騒すぎ」


柊が淡々とツッコミを入れる。

結衣は一番前に立って、上映スケジュールを見上げた。


「で、何見る?」


「ホラーはやめてください」


菜々が即答する。


「わかる。ホラーはやめよ」


夏樹も同調した。


「え、なんで?面白いじゃん」


結衣が不満そうに言うと、菜々がまっすぐ返す。


「夜にトイレ行けなくなります」


「それ、菜々ちゃんが可愛すぎる理由になってるんだけど」


響が笑うと、菜々は少しだけ頬を赤くして視線を逸らした。


「……普通に困るので」


「じゃあアクションでよくない?」


翔が言う。


「爆発多い系」


「アクション……これ、面白そう」


夏樹が指差したのは、王道の派手なやつだった。

菜々も、こくりと頷く。


「それなら、安心して見られそうです」


「決まり!」


結衣が即断し、響が親指を立てる。


「じゃあチケット、俺買ってくるわ」


「お、珍しく仕事する」


結衣が言うと、響は胸を張った。


「俺だってやる時はやるんだよ。あと、さっき負けたから点数稼ぎ」


「点数制じゃねぇよ」


翔が突っ込む。

チケット購入は響と柊が担当、飲み物とポップコーンは結衣が「私が選ぶ」と謎の主導権を握り、菜々と夏樹は「席どうする?」と小声で相談している。


「真ん中の方が見やすいよね」


「はい。でも……端の方が落ち着きます」


「菜々ちゃん、意外と慎重派だ」


「……はい。人の後ろが苦手で」


「わかる。じゃあ中寄りの端にしよ。いい感じの」


二人の会話は柔らかくて、聞いているだけで不思議と落ち着く。

翔はその横で、何となく、自分が「中心」から少し外れている気がしていた。


(俺は、どこに立ってんだろ)


それを考え始めると、途端に息苦しくなる。

だから翔は、わざと結衣の方を見た。

結衣はポップコーンの味で真剣に揉めていた。


「絶対キャラメル!」


「いや塩!」


「両方いけよ」


「うるさい!決めるのは私!」


「なんでだよ!」


響の叫びが、映画館フロアに響く。

周りの視線が一瞬集まって、結衣が「はっ」として口を塞ぐ。


「……静かにしろよ」


「お前が言うな!」


小声の喧嘩が始まって、柊が無言で二つ買う手続きをしていた。


(……平和だな)


翔は思う。

平和すぎて、逆に怖いくらいだ。



上映が始まる直前。

暗いシアターに入ると、空気が一段冷たく感じた。


席は――

左から菜々、翔、夏樹、柊、響、結衣。


「なんとなく」でこうなった配置だったけど、翔の胸はちょっとだけ落ち着かなかった。


「翔くん、ポップコーン取る?」


夏樹が小声で聞く。


「うん、ありがと」


指先が触れないように受け取る。

その気遣いが、自分でも分かるくらい露骨で、余計に落ち着かない。


反対側。

菜々は静かに映画を待っている。膝の上で手を組んで、視線はスクリーンへ。

でも、翔が横にいることを意識していないわけがない。

ほんの少しだけ、肩の力が抜けていない。


暗転。

予告が終わり、本編が始まる。


爆音、追跡、銃撃。

ド派手な展開に、響が最初だけ「おお……」と声を漏らして、結衣に肘を入れられて黙った。


菜々は驚く場面で小さく肩を揺らす。

夏樹は、驚くのではなく、面白いところでふっと笑う。

柊は、最後まで微動だにしない。たまにポップコーンを一粒だけ口に入れる。


翔は――集中しようとして、集中できない。

左右の存在感が、どうしても意識に入ってくる。

菜々の控えめな呼吸、夏樹の気配、ふとスクリーンに反射する横顔。


(……何やってんだ、俺)


映画の中の主人公は迷わない。

迷わず走って、迷わず撃って、迷わず守る。

俺は――たった隣に座ってるだけで迷っている。


その時、アクションの大音量に紛れて、菜々が小さく呟いた。


「……すごいですね」


翔が反射的に菜々を見る。


「怖いか?」


「怖い、というより……圧が強いです」


菜々らしい表現で、翔は少し笑いそうになった。


「圧ってなんだよ」


「爆発の圧です」


「……なるほどね」


小声で笑うと、菜々も少しだけ笑った。


その瞬間――


「……今、笑った?」


夏樹の声が、同じくらい小さく入ってきた。

翔は視線を戻す。


「うん、菜々が……爆発の圧って」


夏樹はふっと笑う。


「菜々ちゃん、言い方が可愛いよね」


「……だな」


言葉に出した瞬間、翔は胸の奥が少し温かくなった。

こうやって、全員で同じ空気を共有してるのが――嬉しい。


(こういうの、守りたい)


奪い合いじゃなくて。

壊し合いじゃなくて。

ただ、同じ時間を続けたい。


そう思うのに、

その「続けたい」が何かを選ばせる形に変わっていく予感が、どこかにずっと残っている。



映画が終わると、外の明るさに目が痛かった。

通路に出た瞬間、響が伸びをして声を上げる。


「くっっっそ面白かった!爆発最高!」


「お前だけ感想雑すぎ」


結衣が呆れた。


「でもまあ、楽しかった」


「だろ?夏休みの映画ってこういうのだよな」


翔は笑いながら、みんなの顔を見る。

菜々は「思ったより怖くなかったです」と安心した顔をして、夏樹は「映像綺麗だったね」と穏やかに言う。

柊は「……音がでかい」とだけ。


「次、ショッピングだな!」


結衣が即決する。


「え、まだ行くの?」


響が驚く。


「当たり前でしょ。モール来て映画だけで終わるわけないじゃん」


「じゃあ何買うんだよ」


「見てから決める」


無敵の答え。

翔は苦笑して、みんなについて行く。



ショッピングエリアは、さらに人が多かった。

服屋、雑貨、アクセサリー、夏のセールの赤い文字。


「うわ、ここ地獄だ」


響が本音を漏らす。


「黙れ、ここは天国だ」


結衣が即座に否定する。


「男が入ったら負けるだけで、女には勝ち確の場所」


「勝ち確ってなんだよ」


翔が突っ込む。

結衣は服屋に突撃し、響が「待てって!」と追いかける。

柊は後ろで「……帰りたい」と小声で言いながらも、ちゃんとついていく。


翔は――その中で、ふと足が止まった。

雑貨屋の前。

ガラスケースに並ぶ小さなキーホルダー。

二つで一組になるタイプ。

昨日、夏樹と買ったものと似ている。


(……やめろ、思い出すな)


思い出したくないわけじゃない。

思い出すと、胸が揺れてしまう。


「翔さん?」


菜々の声。

気づけば、菜々が隣に立っていた。


「どうしました?」


「……いや、なんでもない」


菜々はケースを覗き込んで、首を傾げる。


「可愛いですね」


「……こういうの、好き?」


「好き、というか……」


菜々は少しだけ言葉を探す。


「“二つで一つ”って、分かりやすくて」


翔は息を飲みそうになった。


(それ、今言う?)


菜々は気づかず、続ける。


「一つだと意味が薄いけど、二つ並ぶと意味が生まれる。……そういうの、分かりやすいです」


真面目な声。

でも、それが逆に刺さる。

翔が何か言おうとした、その時。


「翔くん」


夏樹の声が、背後から入った。

振り向くと、夏樹が立っていた。

手には、結衣に押し付けられたらしい服のハンガーが二本。


表情はいつも通りなのに、目だけが少しだけ揺れている気がした。


「これ、どう思う?」


「え、なにそれ」


「結衣が“男目線の意見必要”って」


「俺、男代表になった覚えない」


「でも、翔くんは……ちゃんと見るでしょ」


その言い方が、少しだけずるい。

菜々が一歩引く。

引いたのは、譲ったからじゃない。

距離感を守るためだ。

その判断ができる菜々が、逆に怖い。


翔はハンガーを見る。


「……こっちの方がいいんじゃない?」


無難に答える。

夏樹が笑う。


「だよね。私もそう思った」


二人の会話は、短いのに空気が濃い。

菜々は黙ってそれを見て、すぐに視線を逸らした。


(……こういうの、良くない)


翔は分かっている。

でも、どうすればいいかは分からない。



その後も、みんなはあちこちの店に入っては出て、笑って、くだらないことで揉めて、また笑った。


響は「これ似合うだろ!」とサングラスをかけて、結衣に「似合わない」と即死判定されていた。

柊は「……お前ら元気だな」と呆れながらも、なぜか一番荷物を持っていた。


菜々は雑貨屋で小さなヘアピンを見つけて、手に取っては戻して、悩んでいる。

夏樹はその様子を横目で見て、さりげなく店員に「それ、在庫もう一個ありますか?」と聞いていた。


翔はその“さりげなさ”に、胸が少し痛んだ。

夏樹は、そういう優しさを持っている。

持っているのに、押し付けない。


(追い詰めない)


いつだったか、柊が言ってた言葉が頭に浮かぶ。


「……ずるいな」


翔が小さく漏らすと、隣にいた柊が「何が」とだけ返した。


「……なんでもない」


柊はそれ以上聞かない。

ただ、少しだけ翔の横顔を見て、すぐ前に視線を戻した。



気づけば、外は夕方だった。

モールのガラス越しに、オレンジ色の光が落ちている。

昼の熱が少し引いて、空気がやわらかい。


「そろそろ帰る?」


夏樹が言う。

その声は軽いのに、どこかだけ固い。


結衣が頷く。


「まあ、今日はだいぶ遊んだしね」


響は「腹減った」と言い、結衣に「さっき食っただろ」と叩かれる。

菜々は袋を抱えて「楽しかったです」と小さく言って、翔はその言葉に救われた気がした。


出口付近。

人の流れが、帰宅モードに変わっている。


「じゃ、駅行くか」


翔が言った、その時――

夏樹が、ふっと足を止めた。

そして、スマホを一瞬だけ見た。


画面を伏せる。

指先が、ほんの少しだけ強く握られている。


「……あ、ごめん」


夏樹が言う。

みんなが振り向く。


「私、先帰るね」


一瞬、空気が止まった。


「え、なんで?」


結衣が眉をひそめる。


「一緒に帰ろうぜ」


響も言う。

夏樹は、いつもの笑顔を作る。


「ちょっと、家の用事」


それ以上は言わない。

言わないのに、言えない感じがする。

菜々が、ほんのわずかに表情を変えた。


「……夏樹さん?」


「大丈夫だよ」


夏樹は優しく言う。

優しいのに、どこか線を引く声だ。

そして、翔を見る。


「翔くんも、ありがとね」


その言葉の間に、ほんの一拍だけ“飲み込む間”があった。

翔はそれを見逃せなかった。


「……うん。今日は、ありがと」


夏樹は、笑った。


「じゃ」


それだけ言って、夏樹は背を向ける。

結衣が「えー」と不満そうに声を漏らし、響が「まあ仕方ねぇか」と言う。

でも、誰も追いかけない。追いかける理由が見つからない。


柊だけが、夏樹の背中をじっと見ていた。

その視線が妙に鋭くて、翔は胸の奥がざわついた。



少し離れた場所。

モールの裏手――人通りが減る通路。


夕焼けとネオンの境目。

夏樹は一人で歩く。

足音が、やけに静かに響く。


「……夏樹」


低い男の声がした。


夏樹の肩が、一瞬だけ跳ねる。

止まる。

振り向く。


フードを深く被った男が、壁にもたれていた。

顔は影になって見えない。

けれど、声だけははっきりと耳に残る。


“慣れた声”――そう感じてしまうほどに。


「……こんなところで呼び止めないでください」


夏樹の声は、さっきまでの明るさが消えていた。

低く、冷えている。

男が一歩近づく。


「時間、もらえたか」


「少しだけです」


男は、笑っていないのに笑っているみたいな声で言った。


「……あの男のこと、話す気は?」


夏樹の指先が、ぎゅっと握られる。


「……あなたには、関係ない」


「そうか?」


その言い方が、やけに含みを持っている。


夏樹は、モールの出口の方向――翔たちがいるはずの方を、ほんの一瞬だけ振り返った。

夕焼けの中、みんなの笑い声がまだ残っている気がした。

それを振り払うみたいに、夏樹は静かに言う。


「……もう、巻き込ませない」


男が、少しだけ首を傾げた。


「守るつもりか」


「……守ります」


言い切った声は震えていない。

震えていないからこそ、怖い。

男は何も言わず、歩き出す。

夏樹も並んで、ネオンの影へと入っていく。


夕焼けが届かない場所。

光と闇の境目を越えていく背中。

最高の夏休みは、まだ終わらない。


でも――静かに“歪み”は始まっていた。

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