最高の夏休み 3
フードコートを出た瞬間、空気が少し軽くなった気がした。
油の匂いと人いきれの熱が背中に残っているのに、通路を歩く足取りだけは妙に弾む。
「映画、映画ー!」
先頭を走る結衣が、まるで遠足の小学生みたいに腕を振り上げる。
「走るなって言っただろ!」
翔が言いながら追いかけるが、もう遅い。
響がケラケラ笑って、柊が半歩遅れて淡々とついていく。
「結衣、迷子になんなよ」
「私が迷子になるわけないでしょ!」
「その自信どっから来るんだよ……」
翔のぼやきに、菜々が隣で小さく笑った。
「翔さんは迷子常習犯ですもんね」
「お前まで言うのかよ……」
「否定できないのが、翔くんのすごいところ」
夏樹がさらっと刺してくる。
その言い方が柔らかいから、刺されても痛くない。むしろ、笑ってしまう。
(……こういうの、いいな)
誰か一人といるのもいい。
でも、こうやって全員でわちゃわちゃして、どうでもいいことで笑って、時間を溶かしていくのは――夏休みって感じがする。
◆
映画館のフロアに着くと、思った以上に人がいた。
チケット売り場の前に列ができていて、ポップコーンの甘い匂いが漂っている。
「うわ、混んでる」
翔が言うと、響が肩をすくめた。
「夏休みなめんなよ。モール=戦場だ」
「戦場の比喩が物騒すぎ」
柊が淡々とツッコミを入れる。
結衣は一番前に立って、上映スケジュールを見上げた。
「で、何見る?」
「ホラーはやめてください」
菜々が即答する。
「わかる。ホラーはやめよ」
夏樹も同調した。
「え、なんで?面白いじゃん」
結衣が不満そうに言うと、菜々がまっすぐ返す。
「夜にトイレ行けなくなります」
「それ、菜々ちゃんが可愛すぎる理由になってるんだけど」
響が笑うと、菜々は少しだけ頬を赤くして視線を逸らした。
「……普通に困るので」
「じゃあアクションでよくない?」
翔が言う。
「爆発多い系」
「アクション……これ、面白そう」
夏樹が指差したのは、王道の派手なやつだった。
菜々も、こくりと頷く。
「それなら、安心して見られそうです」
「決まり!」
結衣が即断し、響が親指を立てる。
「じゃあチケット、俺買ってくるわ」
「お、珍しく仕事する」
結衣が言うと、響は胸を張った。
「俺だってやる時はやるんだよ。あと、さっき負けたから点数稼ぎ」
「点数制じゃねぇよ」
翔が突っ込む。
チケット購入は響と柊が担当、飲み物とポップコーンは結衣が「私が選ぶ」と謎の主導権を握り、菜々と夏樹は「席どうする?」と小声で相談している。
「真ん中の方が見やすいよね」
「はい。でも……端の方が落ち着きます」
「菜々ちゃん、意外と慎重派だ」
「……はい。人の後ろが苦手で」
「わかる。じゃあ中寄りの端にしよ。いい感じの」
二人の会話は柔らかくて、聞いているだけで不思議と落ち着く。
翔はその横で、何となく、自分が「中心」から少し外れている気がしていた。
(俺は、どこに立ってんだろ)
それを考え始めると、途端に息苦しくなる。
だから翔は、わざと結衣の方を見た。
結衣はポップコーンの味で真剣に揉めていた。
「絶対キャラメル!」
「いや塩!」
「両方いけよ」
「うるさい!決めるのは私!」
「なんでだよ!」
響の叫びが、映画館フロアに響く。
周りの視線が一瞬集まって、結衣が「はっ」として口を塞ぐ。
「……静かにしろよ」
「お前が言うな!」
小声の喧嘩が始まって、柊が無言で二つ買う手続きをしていた。
(……平和だな)
翔は思う。
平和すぎて、逆に怖いくらいだ。
◆
上映が始まる直前。
暗いシアターに入ると、空気が一段冷たく感じた。
席は――
左から菜々、翔、夏樹、柊、響、結衣。
「なんとなく」でこうなった配置だったけど、翔の胸はちょっとだけ落ち着かなかった。
「翔くん、ポップコーン取る?」
夏樹が小声で聞く。
「うん、ありがと」
指先が触れないように受け取る。
その気遣いが、自分でも分かるくらい露骨で、余計に落ち着かない。
反対側。
菜々は静かに映画を待っている。膝の上で手を組んで、視線はスクリーンへ。
でも、翔が横にいることを意識していないわけがない。
ほんの少しだけ、肩の力が抜けていない。
暗転。
予告が終わり、本編が始まる。
爆音、追跡、銃撃。
ド派手な展開に、響が最初だけ「おお……」と声を漏らして、結衣に肘を入れられて黙った。
菜々は驚く場面で小さく肩を揺らす。
夏樹は、驚くのではなく、面白いところでふっと笑う。
柊は、最後まで微動だにしない。たまにポップコーンを一粒だけ口に入れる。
翔は――集中しようとして、集中できない。
左右の存在感が、どうしても意識に入ってくる。
菜々の控えめな呼吸、夏樹の気配、ふとスクリーンに反射する横顔。
(……何やってんだ、俺)
映画の中の主人公は迷わない。
迷わず走って、迷わず撃って、迷わず守る。
俺は――たった隣に座ってるだけで迷っている。
その時、アクションの大音量に紛れて、菜々が小さく呟いた。
「……すごいですね」
翔が反射的に菜々を見る。
「怖いか?」
「怖い、というより……圧が強いです」
菜々らしい表現で、翔は少し笑いそうになった。
「圧ってなんだよ」
「爆発の圧です」
「……なるほどね」
小声で笑うと、菜々も少しだけ笑った。
その瞬間――
「……今、笑った?」
夏樹の声が、同じくらい小さく入ってきた。
翔は視線を戻す。
「うん、菜々が……爆発の圧って」
夏樹はふっと笑う。
「菜々ちゃん、言い方が可愛いよね」
「……だな」
言葉に出した瞬間、翔は胸の奥が少し温かくなった。
こうやって、全員で同じ空気を共有してるのが――嬉しい。
(こういうの、守りたい)
奪い合いじゃなくて。
壊し合いじゃなくて。
ただ、同じ時間を続けたい。
そう思うのに、
その「続けたい」が何かを選ばせる形に変わっていく予感が、どこかにずっと残っている。
◆
映画が終わると、外の明るさに目が痛かった。
通路に出た瞬間、響が伸びをして声を上げる。
「くっっっそ面白かった!爆発最高!」
「お前だけ感想雑すぎ」
結衣が呆れた。
「でもまあ、楽しかった」
「だろ?夏休みの映画ってこういうのだよな」
翔は笑いながら、みんなの顔を見る。
菜々は「思ったより怖くなかったです」と安心した顔をして、夏樹は「映像綺麗だったね」と穏やかに言う。
柊は「……音がでかい」とだけ。
「次、ショッピングだな!」
結衣が即決する。
「え、まだ行くの?」
響が驚く。
「当たり前でしょ。モール来て映画だけで終わるわけないじゃん」
「じゃあ何買うんだよ」
「見てから決める」
無敵の答え。
翔は苦笑して、みんなについて行く。
◆
ショッピングエリアは、さらに人が多かった。
服屋、雑貨、アクセサリー、夏のセールの赤い文字。
「うわ、ここ地獄だ」
響が本音を漏らす。
「黙れ、ここは天国だ」
結衣が即座に否定する。
「男が入ったら負けるだけで、女には勝ち確の場所」
「勝ち確ってなんだよ」
翔が突っ込む。
結衣は服屋に突撃し、響が「待てって!」と追いかける。
柊は後ろで「……帰りたい」と小声で言いながらも、ちゃんとついていく。
翔は――その中で、ふと足が止まった。
雑貨屋の前。
ガラスケースに並ぶ小さなキーホルダー。
二つで一組になるタイプ。
昨日、夏樹と買ったものと似ている。
(……やめろ、思い出すな)
思い出したくないわけじゃない。
思い出すと、胸が揺れてしまう。
「翔さん?」
菜々の声。
気づけば、菜々が隣に立っていた。
「どうしました?」
「……いや、なんでもない」
菜々はケースを覗き込んで、首を傾げる。
「可愛いですね」
「……こういうの、好き?」
「好き、というか……」
菜々は少しだけ言葉を探す。
「“二つで一つ”って、分かりやすくて」
翔は息を飲みそうになった。
(それ、今言う?)
菜々は気づかず、続ける。
「一つだと意味が薄いけど、二つ並ぶと意味が生まれる。……そういうの、分かりやすいです」
真面目な声。
でも、それが逆に刺さる。
翔が何か言おうとした、その時。
「翔くん」
夏樹の声が、背後から入った。
振り向くと、夏樹が立っていた。
手には、結衣に押し付けられたらしい服のハンガーが二本。
表情はいつも通りなのに、目だけが少しだけ揺れている気がした。
「これ、どう思う?」
「え、なにそれ」
「結衣が“男目線の意見必要”って」
「俺、男代表になった覚えない」
「でも、翔くんは……ちゃんと見るでしょ」
その言い方が、少しだけずるい。
菜々が一歩引く。
引いたのは、譲ったからじゃない。
距離感を守るためだ。
その判断ができる菜々が、逆に怖い。
翔はハンガーを見る。
「……こっちの方がいいんじゃない?」
無難に答える。
夏樹が笑う。
「だよね。私もそう思った」
二人の会話は、短いのに空気が濃い。
菜々は黙ってそれを見て、すぐに視線を逸らした。
(……こういうの、良くない)
翔は分かっている。
でも、どうすればいいかは分からない。
◆
その後も、みんなはあちこちの店に入っては出て、笑って、くだらないことで揉めて、また笑った。
響は「これ似合うだろ!」とサングラスをかけて、結衣に「似合わない」と即死判定されていた。
柊は「……お前ら元気だな」と呆れながらも、なぜか一番荷物を持っていた。
菜々は雑貨屋で小さなヘアピンを見つけて、手に取っては戻して、悩んでいる。
夏樹はその様子を横目で見て、さりげなく店員に「それ、在庫もう一個ありますか?」と聞いていた。
翔はその“さりげなさ”に、胸が少し痛んだ。
夏樹は、そういう優しさを持っている。
持っているのに、押し付けない。
(追い詰めない)
いつだったか、柊が言ってた言葉が頭に浮かぶ。
「……ずるいな」
翔が小さく漏らすと、隣にいた柊が「何が」とだけ返した。
「……なんでもない」
柊はそれ以上聞かない。
ただ、少しだけ翔の横顔を見て、すぐ前に視線を戻した。
◆
気づけば、外は夕方だった。
モールのガラス越しに、オレンジ色の光が落ちている。
昼の熱が少し引いて、空気がやわらかい。
「そろそろ帰る?」
夏樹が言う。
その声は軽いのに、どこかだけ固い。
結衣が頷く。
「まあ、今日はだいぶ遊んだしね」
響は「腹減った」と言い、結衣に「さっき食っただろ」と叩かれる。
菜々は袋を抱えて「楽しかったです」と小さく言って、翔はその言葉に救われた気がした。
出口付近。
人の流れが、帰宅モードに変わっている。
「じゃ、駅行くか」
翔が言った、その時――
夏樹が、ふっと足を止めた。
そして、スマホを一瞬だけ見た。
画面を伏せる。
指先が、ほんの少しだけ強く握られている。
「……あ、ごめん」
夏樹が言う。
みんなが振り向く。
「私、先帰るね」
一瞬、空気が止まった。
「え、なんで?」
結衣が眉をひそめる。
「一緒に帰ろうぜ」
響も言う。
夏樹は、いつもの笑顔を作る。
「ちょっと、家の用事」
それ以上は言わない。
言わないのに、言えない感じがする。
菜々が、ほんのわずかに表情を変えた。
「……夏樹さん?」
「大丈夫だよ」
夏樹は優しく言う。
優しいのに、どこか線を引く声だ。
そして、翔を見る。
「翔くんも、ありがとね」
その言葉の間に、ほんの一拍だけ“飲み込む間”があった。
翔はそれを見逃せなかった。
「……うん。今日は、ありがと」
夏樹は、笑った。
「じゃ」
それだけ言って、夏樹は背を向ける。
結衣が「えー」と不満そうに声を漏らし、響が「まあ仕方ねぇか」と言う。
でも、誰も追いかけない。追いかける理由が見つからない。
柊だけが、夏樹の背中をじっと見ていた。
その視線が妙に鋭くて、翔は胸の奥がざわついた。
◆
少し離れた場所。
モールの裏手――人通りが減る通路。
夕焼けとネオンの境目。
夏樹は一人で歩く。
足音が、やけに静かに響く。
「……夏樹」
低い男の声がした。
夏樹の肩が、一瞬だけ跳ねる。
止まる。
振り向く。
フードを深く被った男が、壁にもたれていた。
顔は影になって見えない。
けれど、声だけははっきりと耳に残る。
“慣れた声”――そう感じてしまうほどに。
「……こんなところで呼び止めないでください」
夏樹の声は、さっきまでの明るさが消えていた。
低く、冷えている。
男が一歩近づく。
「時間、もらえたか」
「少しだけです」
男は、笑っていないのに笑っているみたいな声で言った。
「……あの男のこと、話す気は?」
夏樹の指先が、ぎゅっと握られる。
「……あなたには、関係ない」
「そうか?」
その言い方が、やけに含みを持っている。
夏樹は、モールの出口の方向――翔たちがいるはずの方を、ほんの一瞬だけ振り返った。
夕焼けの中、みんなの笑い声がまだ残っている気がした。
それを振り払うみたいに、夏樹は静かに言う。
「……もう、巻き込ませない」
男が、少しだけ首を傾げた。
「守るつもりか」
「……守ります」
言い切った声は震えていない。
震えていないからこそ、怖い。
男は何も言わず、歩き出す。
夏樹も並んで、ネオンの影へと入っていく。
夕焼けが届かない場所。
光と闇の境目を越えていく背中。
最高の夏休みは、まだ終わらない。
でも――静かに“歪み”は始まっていた。




