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平和な一日

朝。


いつも通り菜々はキッチンに立っていた。


包丁がまな板に当たる、規則正しい音。

フライパンに油を引く音。

換気扇の低い唸り。

全部、いつも通り。


カーテン越しの光は柔らかくて、時間はまだ早い。

時計を見ると、翔が起きるまでには少し余裕があった。


「……よし」


小さく息を吐いて、菜々はエプロンを整える。

今日は、卵焼きと味噌汁。

冷蔵庫に残っていた野菜を刻んで、簡単なおかずも一品。


特別なことはしない。

頑張りすぎもしない。


“いつも通り”を、丁寧になぞる。


背後から、足音。


「おはよう、菜々ちゃん」


翔の母が、眠そうな顔でキッチンに入ってくる。


「おはようございます」


菜々は振り返って、いつものように微笑んだ。


「今日も早いわね」


「はい。夏休みですけど、朝はちゃんとしようかなって」


「偉いわぁ」


軽い世間話。

天気のこと、仕事のこと、スーパーの特売の話。

翔の話は出ない。

昨日のことも、今日の予定も。


菜々は、それでいいと思っていた。


◆


翔の母はコーヒーを一口飲んで、時計を見てから言う。


「じゃあ、そろそろ行くね」


「いってらっしゃいませ」


「翔のこと、お願いね」


その言葉に、菜々は一瞬だけ間を置いた。


「……はい」


玄関のドアが閉まる音がして、家の中は静かになる。

菜々は一人、キッチンに立ったまま、深呼吸をした。


流し台に映った自分の顔を、ほんの一瞬だけ見てしまう。

すぐに目を逸らした。


(……よし)


振り返る理由はない。

引きずる気もない。

昨日は、昨日。

今日は、今日。

菜々は菜々だ。


◆


翔の部屋の前で、ノックをする。


「翔さん、起きてますか?」


返事はない。

いつも通り。

想定内。


菜々は静かにドアを開ける。


ベッドの下、布団の中。

床に敷いた寝具で、翔は仰向けに寝ていた。

髪は少し乱れていて、無防備な顔。


「……起きてください」


肩を軽く揺らす。


「……ん」


寝ぼけた声。


「朝ですよ」


「……あと五分」


「お母様は仕事に向かいましたよ」


「……え」


目をこすりながら、翔がゆっくり起き上がる。


「……あれ、菜々?」


「はい」


「おはよ」


「おはようございます」


それだけ。

変わらないやり取り。

昨日の影は、ここにはない。


「朝ごはん、できてます」


「まじで?助かる」


伸びをしながら、翔が立ち上がる。

その仕草を見て、菜々の胸が少しだけ温かくなる。


(……いつも通り)


◆


キッチンに並んだ食卓。

卵焼き。

味噌汁。

白ごはん。


翔は箸を手に取って言った。


「うまそう」


「いつも通りですよ」


「それが一番なんだよ」


無意識の一言。

菜々は、ほんの少しだけ笑った。


「「いただきます」」


二人で、朝ごはんを食べる。

翔は卵焼きを口に入れて、うん、と頷いた。


「安定」


「それは褒め言葉ですか?」


「最大級に」


他愛のない会話。

テレビの音。

箸が器に当たる音。


昨日のデートの話は、出ない。

夏樹の名前も、出ない。


菜々は、それを選んだ。


(私は、私のやり方で)


◆


食器を洗い終えたあと、翔が言った。


「今日さ、特に予定ないよな」


「そうですね」


「家でダラダラするか〜」


伸びをしながら言う、その声は気楽だ。

菜々は、間を置かずに返した。


「そういう日もあっていいと思います。夏休みですし!」


「だよな!」


軽い笑顔。

その瞬間、菜々の胸の奥で、何かが静かに定まった。


(……私は、ここにいる)


◆


リビング。

床に座って、クッションを背に、二人でテレビを見る。


映画は、たまたま選んだアクション映画。

内容は正直どうでもいい。


翔は途中でポテトチップスを開けて、菜々にも差し出した。


「食べる?」


「いただきます」


袋に手を入れるタイミングが重なって、指先が触れる。


「……あ」


「……すみません」


「い、いや」


それだけで、少し気まずくなって、でもすぐに戻る。


「ここ、爆発多すぎじゃね」


「派手ですね」


「絶対耳キーンなるやつ」


「映画だから大丈夫です」


そんな会話。


笑って、突っ込んで、また笑って。

この時間を守りたい、と菜々は思った。

奪うためじゃなく、残るために。


ゲームもした。

コントローラーを分け合って、操作ミスで責め合って。


「そこ右!」


「今行こうとしてました!」


「遅い!」


「翔さんが邪魔したんじゃないですか!」


◆


気づけば、外は夕方になっていた。

カーテンの隙間から、オレンジ色の光。


「……もうこんな時間か」


翔が呟く。


「早いですね」


「やば。今日ほんとに何もしてねぇ」


「いいじゃないですか。今日はそういう日です」


翔は少し考えてから、頷いた。


「……そうだな」


その言葉に、菜々は胸の奥で静かに息を吐いた。


◆


「晩ごはん、どうする?」


「二人で作りませんか?」


「お、いいな」


キッチンに並ぶ。

エプロンを着ける翔に、菜々は一瞬だけ目を留めた。


(文化祭、思い出すな……)


「文化祭、思い出しますね」


菜々が言うと、翔が笑った。


「分かる。俺も今同じこと考えてた」


「慌ただしかったですけど」


「でも楽しかったな」


包丁を持つ手。

フライパンを振る動き。

二人の距離は近いけれど、自然だ。


途中で、玄関の音。


「ただいま〜」


「おかえりなさい」


翔の母が帰ってくる。


三人で食卓を囲む。


「今日どうだった?」


「ダラダラしてた」


「最高じゃない」


笑い声。

テレビの話。

仕事の愚痴。

どうでもいい話。

“家族”の空気。


菜々は、その輪の中に、静かに座っていた。


◆


夜。


風呂を済ませて、電気を落とす。

翔はいつも通り、ベッドの下に布団を敷く。


「おやすみ」


「おやすみなさい」


部屋は暗い。

少しして、翔の寝息が聞こえてくる。

規則正しい、安心する音。


菜々は、ベッドの上から、そっと下を覗いた。


眠っている翔の横顔。

無防備で、子どもみたいで。


(……やっぱり)


胸の奥が、きゅっと締まる。


「私も、大好きです」


声は、出さない。


「……負けたくない」


誰にも聞かせない。

翔にも、夏樹にも。

これは、菜々の中だけの言葉。


奪わない。

壊さない。

でも、諦めない。


菜々はゆっくり目を閉じる。


今日という一日は、何も起きなかった。

でもそれが、何よりの証だった。


翔の隣にいる時間。

同じ家で過ごす夜。

それは、簡単には崩れない。


夏休みは、まだ始まったばかりだ。

そして、菜々はもう、覚悟を決めていた。


——静かに、でも確実に。


この場所から、動かないと。

選ばれるまで。

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