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平和な一日

朝。


いつも通り菜々はキッチンに立っていた。


包丁がまな板に当たる、規則正しい音。

フライパンに油を引く音。

換気扇の低い唸り。

全部、いつも通り。


カーテン越しの光は柔らかくて、時間はまだ早い。

時計を見ると、翔が起きるまでには少し余裕があった。


「……よし」


小さく息を吐いて、菜々はエプロンを整える。

今日は、卵焼きと味噌汁。

冷蔵庫に残っていた野菜を刻んで、簡単なおかずも一品。


特別なことはしない。

頑張りすぎもしない。


“いつも通り”を、丁寧になぞる。


背後から、足音。


「おはよう、菜々ちゃん」


翔の母が、眠そうな顔でキッチンに入ってくる。


「おはようございます」


菜々は振り返って、いつものように微笑んだ。


「今日も早いわね」


「はい。夏休みですけど、朝はちゃんとしようかなって」


「偉いわぁ」


軽い世間話。

天気のこと、仕事のこと、スーパーの特売の話。

翔の話は出ない。

昨日のことも、今日の予定も。


菜々は、それでいいと思っていた。



翔の母はコーヒーを一口飲んで、時計を見てから言う。


「じゃあ、そろそろ行くね」


「いってらっしゃいませ」


「翔のこと、お願いね」


その言葉に、菜々は一瞬だけ間を置いた。


「……はい」


玄関のドアが閉まる音がして、家の中は静かになる。

菜々は一人、キッチンに立ったまま、深呼吸をした。


流し台に映った自分の顔を、ほんの一瞬だけ見てしまう。

すぐに目を逸らした。


(……よし)


振り返る理由はない。

引きずる気もない。

昨日は、昨日。

今日は、今日。

菜々は菜々だ。



翔の部屋の前で、ノックをする。


「翔さん、起きてますか?」


返事はない。

いつも通り。

想定内。


菜々は静かにドアを開ける。


ベッドの下、布団の中。

床に敷いた寝具で、翔は仰向けに寝ていた。

髪は少し乱れていて、無防備な顔。


「……起きてください」


肩を軽く揺らす。


「……ん」


寝ぼけた声。


「朝ですよ」


「……あと五分」


「お母様は仕事に向かいましたよ」


「……え」


目をこすりながら、翔がゆっくり起き上がる。


「……あれ、菜々?」


「はい」


「おはよ」


「おはようございます」


それだけ。

変わらないやり取り。

昨日の影は、ここにはない。


「朝ごはん、できてます」


「まじで?助かる」


伸びをしながら、翔が立ち上がる。

その仕草を見て、菜々の胸が少しだけ温かくなる。


(……いつも通り)



キッチンに並んだ食卓。

卵焼き。

味噌汁。

白ごはん。


翔は箸を手に取って言った。


「うまそう」


「いつも通りですよ」


「それが一番なんだよ」


無意識の一言。

菜々は、ほんの少しだけ笑った。


「「いただきます」」


二人で、朝ごはんを食べる。

翔は卵焼きを口に入れて、うん、と頷いた。


「安定」


「それは褒め言葉ですか?」


「最大級に」


他愛のない会話。

テレビの音。

箸が器に当たる音。


昨日のデートの話は、出ない。

夏樹の名前も、出ない。


菜々は、それを選んだ。


(私は、私のやり方で)



食器を洗い終えたあと、翔が言った。


「今日さ、特に予定ないよな」


「そうですね」


「家でダラダラするか〜」


伸びをしながら言う、その声は気楽だ。

菜々は、間を置かずに返した。


「そういう日もあっていいと思います。夏休みですし!」


「だよな!」


軽い笑顔。

その瞬間、菜々の胸の奥で、何かが静かに定まった。


(……私は、ここにいる)



リビング。

床に座って、クッションを背に、二人でテレビを見る。


映画は、たまたま選んだアクション映画。

内容は正直どうでもいい。


翔は途中でポテトチップスを開けて、菜々にも差し出した。


「食べる?」


「いただきます」


袋に手を入れるタイミングが重なって、指先が触れる。


「……あ」


「……すみません」


「い、いや」


それだけで、少し気まずくなって、でもすぐに戻る。


「ここ、爆発多すぎじゃね」


「派手ですね」


「絶対耳キーンなるやつ」


「映画だから大丈夫です」


そんな会話。


笑って、突っ込んで、また笑って。

この時間を守りたい、と菜々は思った。

奪うためじゃなく、残るために。


ゲームもした。

コントローラーを分け合って、操作ミスで責め合って。


「そこ右!」


「今行こうとしてました!」


「遅い!」


「翔さんが邪魔したんじゃないですか!」



気づけば、外は夕方になっていた。

カーテンの隙間から、オレンジ色の光。


「……もうこんな時間か」


翔が呟く。


「早いですね」


「やば。今日ほんとに何もしてねぇ」


「いいじゃないですか。今日はそういう日です」


翔は少し考えてから、頷いた。


「……そうだな」


その言葉に、菜々は胸の奥で静かに息を吐いた。



「晩ごはん、どうする?」


「二人で作りませんか?」


「お、いいな」


キッチンに並ぶ。

エプロンを着ける翔に、菜々は一瞬だけ目を留めた。


(文化祭、思い出すな……)


「文化祭、思い出しますね」


菜々が言うと、翔が笑った。


「分かる。俺も今同じこと考えてた」


「慌ただしかったですけど」


「でも楽しかったな」


包丁を持つ手。

フライパンを振る動き。

二人の距離は近いけれど、自然だ。


途中で、玄関の音。


「ただいま〜」


「おかえりなさい」


翔の母が帰ってくる。


三人で食卓を囲む。


「今日どうだった?」


「ダラダラしてた」


「最高じゃない」


笑い声。

テレビの話。

仕事の愚痴。

どうでもいい話。

“家族”の空気。


菜々は、その輪の中に、静かに座っていた。



夜。


風呂を済ませて、電気を落とす。

翔はいつも通り、ベッドの下に布団を敷く。


「おやすみ」


「おやすみなさい」


部屋は暗い。

少しして、翔の寝息が聞こえてくる。

規則正しい、安心する音。


菜々は、ベッドの上から、そっと下を覗いた。


眠っている翔の横顔。

無防備で、子どもみたいで。


(……やっぱり)


胸の奥が、きゅっと締まる。


「私も、大好きです」


声は、出さない。


「……負けたくない」


誰にも聞かせない。

翔にも、夏樹にも。

これは、菜々の中だけの言葉。


奪わない。

壊さない。

でも、諦めない。


菜々はゆっくり目を閉じる。


今日という一日は、何も起きなかった。

でもそれが、何よりの証だった。


翔の隣にいる時間。

同じ家で過ごす夜。

それは、簡単には崩れない。


夏休みは、まだ始まったばかりだ。

そして、菜々はもう、覚悟を決めていた。


——静かに、でも確実に。


この場所から、動かないと。

選ばれるまで。

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