夏樹との平和?なデート〜表〜
期末テストが終わり、いよいよ待ちに待った夏休み。
初日。
朝、目を覚ました瞬間。
隣にあるはずの気配が、なかった。
一秒だけ、脳が状況を理解できなくて止まる。
隣のベットに手を伸ばす。空気だけを掴む。
布団の中に残っているはずの体温も、もう薄い。
(……先に起きた、だけか)
そう思おうとして、失敗した。
だって、菜々は「先に起きる」だけなら、物音をほぼ立てないくせに、いつも最後に俺を起こす前提で動く。
起こし方が優しいとかそういう話じゃない。そこに「管理」みたいな規則性がある。毎朝、同じ順番で、同じタイミングで。
それが、ない。
妙に静かな部屋で、俺はゆっくり起き上がった。
カーテン越しの光は白くて、朝なのにどこか現実味が薄い。
こういう時、寝坊したのかと思って時計を見る。まだ早い。
枕元に置いたスマホを手に取る。
画面を点けると、通知が一件だけあった。
『先に出ますね』
それだけ。
理由も、行き先も、余計な言葉もない。
いつも通りっちゃいつも通りの文面なのに、胸の奥がちくりと痛んだ。痛いというより、引っかかる感じ。指先のささくれみたいな違和感。
(……先に出るって、どこに)
聞けば済む。返事を打てば済む。
なのに、指が動かない。
たぶん俺は、今「余計なこと」を知りたくないんだと思う。知ったら、どうすべきか考えなきゃいけなくなる。考えたら、答えが出るかもしれない。出たら、どこかが壊れるかもしれない。
だから、スマホを伏せた。
顔を洗う。
冷たい水が頬を刺して、目が覚める。
鏡の中の自分は、いつもと変わらない。変わらないのが腹立つ。俺だけが落ち着いてないみたいで。
歯を磨きながら、昨夜のことを思い出しそうになってやめた。
夏樹の「約束、覚えてるよね」
結衣の舌打ち
菜々の視線の落ち方
陽菜の「逃げないで」
思い出しても、答えは出ない。
「……今日は、夏樹とのデートだろ」
声に出すと、現実味が増す。
俺はそれが怖くて、もう一度だけ水を飲んだ。
着替えて、髪を整えて、財布とスマホを確認して。
準備が終わると、家を出るまでの時間が余る。
余る時間が嫌だ。考えてしまうから。
玄関に立って、靴を履く。
扉を開ける。
朝の空気が少しだけひんやりして、肺が綺麗になる気がした。
そして、門の前に――夏樹がいた。
(……え)
最初、言葉が出なかった。
待ち合わせ場所を「駅」にする案もあったけど、夏樹の家は近い。だから不自然だって話になって、結局「翔の家を出たところで合流」にした。理屈は合ってる。だけど、目の前にいると、やっぱり驚く。
夏樹は、軽く手を振った。
「おはよ。翔くん」
声はいつも通り。
でも、いつもより少しだけ柔らかい。
「……おはよう」
やっと返す。
夏樹は、俺の顔をじっと見た。
「寝れた?」
「寝れた、と思う」
「思うって何。寝れたか寝れてないかは自分で分かるでしょ」
「……途中で何回か起きた」
「そっか」
それだけで、夏樹はそれ以上追及しない。
追及しないのに、分かってる感じがする。
俺が「落ち着いてない」のを、見抜いてる。
夏樹の今日の服は、いつもの学校の空気じゃない。
勝負服、って言葉が頭に浮かぶのが嫌だった。勝負とか言うから、変に意識する。けど、意識してしまうのも事実で。
派手じゃない。
でも、ちゃんと可愛い。
“誰かの隣に立つための服”って感じがする。
その「誰か」が俺だと思うと、胸が変な音を立てた。
「……似合ってる」
言った瞬間、自分でも驚いた。
こういうの、俺は言えるタイプじゃない。
言える時は、だいたい勢いか、逃げかだ。
夏樹は、少しだけ目を見開いて、それから笑った。
「ありがと。今日の私、ちゃんとしてるでしょ」
「ちゃんとしすぎてる」
「じゃあ、ちゃんとデートしよ」
軽い言い方。
でも、軽くない。
俺たちは歩き出す。
行き先を決めないデート。
それが逆に怖い気もした。予定がないと、変に空白ができる。空白ができると、言葉が落ちる。その言葉が、決定打になるかもしれない。
でも、夏樹は平気そうだった。
歩きながら、空を見たり、道路の端の花を見たりする。
俺は、それを横目で見て、なんとなく呼吸が楽になった。
(……あれ)
会話が続いてないのに、気まずくない。
沈黙が、刺さらない。
夏樹が言った。
「ねえ。こういうの、久しぶりだね」
「こういうの?」
「目的地なく歩くやつ。文化祭準備の買い出しとか、そういうのはあったけど。今日は、何も背負ってない」
(何も背負ってない、か)
背負ってないわけがない。
点数で勝った夏樹。
告白した陽菜。
同居してる菜々。
距離が近い結衣。
全部背中に乗ってる。
でも夏樹が「背負ってない」って言ったのは、たぶん別の意味だ。
「今日だけは、逃げなくていい」って意味。
俺はそれに甘えたくなった。
近くの小さなカフェの前で、夏樹が足を止める。
「ここ、入ってみない?」
ガラス越しに見える店内は、静かで、落ち着いてる。
学生が騒ぐ場所じゃない。
大人の場所って感じがする。
「……俺、浮かない?」
「浮かないようにしてあげる」
「どうやって」
「私が堂々としてれば、翔くんも堂々として見える」
理屈が強い。陽菜みたいだ。
でも夏樹の理屈は、圧じゃなくて支えだ。
店に入る。
冷房が少しだけ効いていて、夏の外気との落差で肌が粟立つ。
店員の「いらっしゃいませ」が静かで、逆に緊張した。
席に座る。
二人席。向かい合わせ。
逃げ場がない形なのに、不思議と落ち着く。
メニューを見て、夏樹が言う。
「翔くん、甘いのいける?」
「普通に」
「じゃあさ。今日は甘いの食べよ。テスト終わったご褒美で」
ご褒美。
その言葉に、少しだけ救われる。
俺はずっと、誰かの気持ちに対して「ご褒美」なんて言葉を使うのが怖かった。対価みたいで。でも夏樹が言うと、それはただの休日の合図になる。
俺たちはアイスコーヒーと、甘いものを頼んだ。
運ばれてくるまでの時間が、静かに伸びる。
夏樹がテーブルの上で指を組む。
爪は綺麗に整えられていて、細い指が、いつもより少し緊張しているように見えた。
「……ねえ」
夏樹が言う。
「翔くん、昨日の夜、誰かと話した?」
誰か。
菜々か、結衣か、陽菜か。
もしくは、誰でもいいから。
「……話してない」
「そっか」
夏樹はそれ以上聞かない。
聞かないけど、目が言ってる。
“じゃあ、今ここで話してもいいよ”って。
でも俺は、口を開くのが怖かった。
言葉にした瞬間、形になる。形になった瞬間、戻れない。
料理が来る。
甘い匂いがして、脳が少しだけ緩む。
夏樹が笑う。
「おいしい」
その顔を見て、俺も笑ってしまう。
“ちゃんと笑えてる”って自分で分かるくらい、自然に。
「翔くんさ」
「ん」
「笑うと、ちょっと安心する」
「……何が?」
「翔くんが、翔くんのままってこと」
その言葉が、胸に落ちる。
俺はずっと、誰かに“変わった”って思われるのが怖かった。
変わったって言われたら、理由を説明しなきゃいけない。
説明したら、誰かが傷つくかもしれない。
でも夏樹は“変わった”じゃなくて“そのまま”って言った。
優しい逃げ道。
なのに、甘えすぎたらダメな気もする。
カフェを出る。
太陽が少し高くなっていて、影が短い。
「次どうする?」
夏樹が聞く。
予定がないのに、予定を作らされてない。
この問い方が、夏樹の強さだ。
俺は少し考えてから言う。
「本屋、寄っていい?」
「いいよ。私も見たい」
本屋に入る。
紙の匂いがする。
静かな空気がカフェよりも「普通」で、少し安心した。
夏樹は恋愛小説の棚の前で止まって、背表紙を眺める。
俺はスポーツ雑誌を手に取って、でも内容は頭に入らない。
隣で夏樹がページをめくる音だけが、妙に大きく聞こえる。
「翔くん」
「ん?」
「これ、面白そう」
差し出された本のタイトルを見て、俺は思わず苦笑した。
“選べない男”みたいな内容のラブコメ。
偶然なのに、刺さる。
「今の俺に見せるの、性格悪くない?」
「偶然だよ。たぶん」
夏樹は笑う。
でも、その目は少しだけ鋭い。
冗談に見せて、ちゃんと核心に触れる。夏樹はそういう子だ。
俺は別の棚から、ペアの小物が置いてあるコーナーを見つける。
キーホルダー。ブレスレット。小さなアクセ。
いかにも“お揃い”ができそうな場所。
(……買うのか)
脳が勝手に逃げる。
買ったら意味が増える。意味が増えたら責任が増える。
でも夏樹は、そこに自然に入っていった。
迷いなく。
“欲しいから見る”って顔で。
「これ、かわいい」
小さなキーホルダーを指先で持ち上げる。
二つで一組になるタイプ。
「……お揃い、みたいな?」
俺が聞くと、夏樹は首を傾げる。
「嫌?」
嫌じゃない。
嫌じゃないから困る。
「嫌じゃない」
夏樹は、少しだけ息を吐いて笑った。
「じゃあ買お」
さらっと言う。
重くしない。
でも、逃がさない。
会計を済ませる。
紙袋を手に持つ夏樹の横顔が、妙に嬉しそうで、俺の胸が締まった。
(……これ、俺はどういう顔して持てばいい)
“恋人っぽい顔”はできない。
“友達っぽい顔”も、嘘になる。
だから俺は、ただ普通の顔をした。
普通の顔をして、普通に歩く。
それが今の俺の精一杯。
◆
昼を過ぎて、街が少し騒がしくなる。
家族連れ。カップル。学生。
夏休みの空気があちこちに漂っている。
俺たちは適当に歩いて、適当に寄り道して、適当に笑った。
その“適当”が、ちゃんと幸せだった。
夕方が近づく。
夏樹が言う。
「ねえ。夜ご飯、行こ」
「……どこいく?」
「ちょっとおしゃれなとこ。今日くらい、そういうのしてみたい」
そう言われると断れない。
断りたいわけじゃない。
むしろ、今日の俺は、断る理由を探すのが疲れた。
◆
店に入る。
照明が柔らかくて、音楽が静かで、カフェよりもさらに“大人”だ。
俺は一瞬だけ身構える。
夏樹は堂々としていた。
「ほら、大丈夫」
小声で言われて、また胸が熱くなる。
夏樹は、俺の不安を見つけるのがうまい。
見つけた上で、責めない。
料理を頼んで、待つ。
テーブルの上の水滴がゆっくり落ちていくのを眺める。
夏樹がナプキンを膝に置いて、言った。
「ねえ。今日さ」
「ん」
「私、めちゃくちゃ楽しんでる」
「……俺も」
それは嘘じゃない。
でも本音はもう少し複雑だ。
楽しいのに、怖い。
嬉しいのに、苦しい。
夏樹が好きじゃないわけじゃない。
むしろ、好きだと思う。
ただその“好き”が、誰かを傷つける形で出てくるのが怖い。
夏樹は、俺の顔を見て、少しだけ目を細めた。
「翔くんってさ」
「うん」
「優しいよね」
その言葉が一番怖い。
優しいって言われると、正しさを求められる気がする。
優しいって言われると、誰かを選べって言われてる気がする。
「優しいって、逃げでもあるよ」
口から出てしまった。
言ってから後悔した。
こんなこと言ったら、夏樹を傷つけるかもしれない。
でも夏樹は、驚かなかった。
「うん。知ってる」
「……知ってるのかよ」
「知ってるよ。だから今日、来た」
料理が運ばれてくる。
湯気が立って、香りが広がって、会話が一旦切れる。
それが助かった。
食べながら、夏樹が笑う。
俺も笑う。
その繰り返しで、少しずつ胸の緊張がほどけていく。
◆
食べ終わって、店を出る。
外の空気は昼より少し冷たくて、肌が現実に戻る。
帰り道。
分かれ道の前で、自然と足が止まった。
夕方の空は、もう昼の色じゃない。
オレンジと青が混ざって、どっちつかずで、やけに落ち着かない。
夏樹が、先に口を開いた。
「……ねえ、翔くん」
「ん?」
夏樹は一度、視線を外した。
地面を見て、指先を軽く握って、ゆっくり息を吸う。
さっきまでの軽さがない。
でも、重すぎるわけでもない。
「今日さ。デートだったけど――」
そこで一瞬、言葉を切る。
俺は何も言えなかった。
続きを待つしかない。
夏樹は顔を上げて、まっすぐ俺を見た。
逃がさない目。
でも、追い詰める目でもない。
「私はね」
一拍。
「翔くんが、大好きだよ」
その言葉は、静かだった。
叫ぶでもなく、勢いでもなく、
ただ“そこにある感情”を置くみたいに。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
「冗談じゃないし、勢いでもない」
夏樹は続ける。
「勝負に勝ったから言ってるわけでもないし、今日楽しかったから言ってるだけでもない」
一つずつ、逃げ道を塞ぐみたいに、でも責めない。
「たぶん、ずっと前から」
俺は、何も言えない。
喉が詰まる。
言葉を選ぼうとすると、全部が重くなる。
夏樹は、そんな俺を見て、ほんの少しだけ笑った。
「……今、答えなくていい」
その言葉に、救われてしまう自分がいる。
「でもね」
夏樹は一歩、近づいた。
「私が本気だってことだけは、覚えてて」
そう言って、軽く腕を伸ばす。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ。
軽いハグ。
抱きしめるほど強くない。
でも、確かに“離さない”距離。
夏樹の体温が、はっきり伝わる。
「……じゃあね」
離れて、夏樹はいつもの笑顔を作る。
「帰って、ちゃんと休んで」
「……うん」
夏樹は背を向けて歩き出す。
数歩進んだところで、ふと立ち止まる。
振り返らずに、小さく言った。
「……やっぱり、皆居たんだね」
その声には、確信があった。
何に気づいたのか。
誰を感じたのか。
分からない。
分からないけど、嫌な予感だけが、確かに胸に残る。
夏樹はそれ以上何も言わず、歩いていった。
街灯の下を通る背中は、さっきより少しだけ大人に見えた。
俺は、その場から動けなかった。
夏休みは、始まったばかりだ。
でももう分かっている。
ここから先は、
誰かの「好き」をなかったことにできる日常じゃない。
俺はまだ、答えを持っていない。
それでも――
夏樹の「大好きだよ」という言葉だけは、
間違いなく本物だった。
その重さを、俺はもう、知らなかったふりができない。




