特別編 菜々IF 選んだ未来
※本編とは異なるIFの世界線になります。本編には一切影響しません。人によっては蛇足かもです。
この話は、
翔が「正しい選択」をした未来ではありません。
また、誰かが救われた未来でもありません。
ただ――
向き合わなかった結果、静かに完成してしまった未来の物語です。
本編では描かれなかった
「選ばなかった代償」
「気づいていながら踏み込まなかった闇」
そして、
一人を選んだことで世界がどう歪むのかを描いています。
救いは、ありません。
けれど、意味はあります。
それでも読みたい方だけ、
この“選んでしまった未来”を覗いてみてください。
朝、目を覚ました瞬間、翔は自分がどこにいるのかを一秒だけ考えた。
見慣れた天井。
低い。
少し黄ばんだ白。
六畳半のアパート。
二人で住むには、ぎりぎりの広さ。
「……」
隣から、静かな寝息が聞こえる。
規則正しく、乱れない。
翔は、ゆっくりと体を起こした。
ベッドの軋む音を最小限に抑える癖が、もう染みついている。
五年前。
高校を卒業してすぐの頃は、こんなことまで気にしていなかったはずなのに。
「おはようございます」
小さな声。
振り向くと、菜々がもう起きていた。
布団の中で上体を起こし、こちらを見ている。
「……おはよう」
翔は答える。
「今日は、午後からでしたよね」
「そうだな」
確認。
いつも通り。
「コーヒー、もう少し濃くしますか?」
「……いや、いつものでいい」
「分かりました」
それだけで、菜々は布団を出た。
迷いはない。
翔は、天井を見上げたまま、少しだけ目を閉じる。
(……いつからだろうな)
こうして“選択肢を提示されているのに、選んでいない”生活に慣れたのは。
◆
五年前。
翔が実家を出ると言い出したとき、理由は本当に曖昧だった。
「一人暮らし、そろそろした方がいいかなって」
親も、深くは突っ込まなかった。
菜々だけが、少し考える時間を取った。
「……それなら」
間。
「一緒に住みませんか」
静かな声だった。
提案。
でも、拒否を前提としていない言い方。
翔は、その場で答えられなかった。
「考える」
それが精一杯だった。
その夜、翔は一人で考えた。
一緒に暮らす未来。
一人で暮らす未来。
前者は、具体的だった。
後者は、曖昧だった。
家賃。
家具。
生活リズム。
一人で暮らす想像は、いつも途中で止まった。
朝起きて、誰もいない部屋。
夜帰って、電気をつける音。
寂しい、というより――
“続かなかった”。
菜々と暮らす未来は、違った。
朝食の匂い。
洗濯物の位置。
帰宅時に灯る部屋。
不思議と、最後まで想像できた。
「……」
それが“答え”だった。
◆
同棲は、拍子抜けするほどスムーズだった。
引っ越し当日、菜々は段取りをすべて把握していた。
「冷蔵庫は、ここですね」
「洗濯機は、夜でも回せる音量のものにしました」
「ゴミの日は、朝出します」
翔は、頷くだけだった。
拒否する理由も、修正する必要もなかった。
生活は、最初から“完成形”に近かった。
◆
一年目。
菜々は、翔の生活リズムを正確に把握した。
帰宅時間のブレ。
疲労度。
食欲の有無。
「今日は、少し静かですね」
「……そうか?」
「はい」
それだけで、夕飯の量が調整される。
翔は、それをありがたいと思った。
世話を焼かれている、とは感じなかった。
“必要なことが、必要なだけ行われている”。
そういう感覚。
◆
二年目。
翔は、違和感を覚え始めた。
自分の予定を、口に出す前に把握されていること。
「今日は、寄り道しませんよね」
「……なんで分かる?」
「昨日、言ってました」
言っていない。
そう思ったが、口には出さなかった。
(俺が忘れてるだけか)
そう納得した。
◆
三年目。
翔は、考えるのをやめた。
違和感に名前をつけることも、理由を探すことも。
忙しさ。
生活。
安定。
それらは、すべて“考えなくていい理由”になった。
◆
そして更に2年が経ち現在。
キッチンから、コーヒーの香りが漂ってくる。
翔は身支度をしながら、菜々の背中を見る。
エプロン。
まとめた髪。
無駄のない動き。
「……なあ、菜々」
「はい」
「俺さ」
言いかけて、止まる。
何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。
「……なんでもない」
「そうですか」
菜々は振り向かない。
「でも、言いたくなったら言ってください」
優しい声。
でも、その言葉に“逃げ道”はなかった。
◆
夜。
二人は並んでベッドに入る。
部屋の電気を消すタイミングも、もう決まっている。
「おやすみなさい翔さん」
「……おやすみ」
暗闇。
菜々は、少しだけ距離を詰めた。
触れない。
でも、離れない。
「翔さん」
「ん?」
「私、今日もちゃんと一緒ですね」
確認。
安堵。
「……ああ」
「良かった」
その言葉が、なぜか胸に残った。
◆
翔は、眠りに落ちる直前、ふと思う。
もし――
あの時。
菜々の“闇”に、正面から向き合っていたら。
「依存」とか。
「不安」とか。
「独占欲」とか。
名前をつけて、理解しようとしていたら。
きっと、この未来はなかった。
もっとぶつかって。
もっと壊れて。
もっと、違う形になっていた。
でも、翔はそれをしなかった。
「大丈夫だろう」
「今は安定してる」
「幸せだ」
そう言い聞かせて、
“選ばなかった”。
◆
菜々は、翔が眠ったのを確認してから、静かに目を開ける。
呼吸。
脈。
体温。
全部、いつも通り。
「……」
菜々は、翔の腕にそっと指を絡める。
強くはない。
でも、外れない。
「翔さん」
小さな声。
「私は、ここにいます」
返事はない。
「ずっと、選んでくれましたね」
五年間。
一度も、離れなかった。
それが答えだった。
「……大丈夫です」
菜々は、微笑む。
「このままで、いいんです」
闇は消えていない。
形を変え、生活に溶け込んだだけ。
そして翔は――
それを“問題にしない”選択を、ずっと続けている。
◆
朝は来る。
コーヒーは淹れられ、
部屋は整い、
二人は今日も一緒に暮らす。
これは、壊れた未来じゃない。
壊さなかった結果の未来だ。
翔は、菜々の闇を救えなかった。
でも、拒まなかった。
だからこの世界線は、静かに完成している。
――選んでしまった未来として。
◆
翔は、ふとした瞬間に思い出す。
高校時代の友人たちのことを。
結衣。
夏樹。
響。
柊。
名前を思い浮かべることはあっても、
連絡を取ろうと思ったことは、もう何年もなかった。
「……最近、あいつらどうしてるんだろうな」
独り言みたいに呟いた言葉に、
キッチンから菜々の声が返る。
「さあ」
淡々と。
「もう、会う理由はないと思いますけど」
その言い方に、棘はなかった。
事実を述べているだけの、平坦な声。
「……まあ、そうか」
翔は、それ以上考えなかった。
◆
翔が出勤した後、
菜々はいつものように部屋を整える。
洗濯物。
シンク。
テーブル。
すべてが、無駄なく配置されている。
棚の一番奥。
救急箱の裏。
そこに、小さな金属製の箱がある。
鍵は、かかっていない。
中には――
スマホが、四台。
どれも電源は入らない。
通知も、鳴らない。
菜々はそれを一つずつ、丁寧に撫でる。
「……」
結衣。
夏樹。
響。
柊。
彼らは、翔の人生にとって“不要”だった。
邪魔だった。
揺らぎだった。
奪う可能性だった。
だから――
消した。
事故じゃない。
衝動でもない。
計画的で、冷静で、合理的な選択。
菜々は、誰も憎んでいなかった。
ただ、必要なことをしただけだ。
「……これで」
菜々は箱を閉じる。
「翔さんは、選ばなくていい」
悩まなくていい。
比べなくていい。
失う可能性を、もう考えなくていい。
「私が、全部終わらせましたから」
◆
夜。
翔が帰宅する。
「ただいま」
「おかえりなさい」
いつも通りのやり取り。
食事。
会話。
笑顔。
違和感はない。
不安もない。
それが、この世界線の完成形。
◆
眠る前、
菜々は翔の隣に横になり、そっと抱き寄せる。
逃げない。
縛らない。
でも、離さない。
「翔さん」
小さな声。
「もう、誰も来ません」
翔は、眠ったまま。
「だから、安心してください」
菜々は、目を閉じる。
この世界には、もう二人しかいない。
それでいい。
それが正解だった。
闇は、解消されなかった。
ただ――排除という形で完成した。
◆
翌朝。
朝は来る。
コーヒーは淹れられ、
部屋は整い、
二人は今日も一緒に暮らす。
これは、破滅の物語じゃない。
愛を守るために、世界を削ぎ落とした物語だ。
――菜々が、すべてを選び終えた未来として。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
この特別編は、
「もしも菜々を選んだら幸せだったのか?」
という問いに対する、作者なりの一つの答えです。
この未来は、破滅ではありません。
日常は続き、生活は安定し、二人は一緒にいます。
それでも――
誰かの闇に向き合わなかった結果、
世界が少しずつ削られていった未来です。
翔は悪くありません。
菜々も、感情的に壊れたわけではありません。
ただ、
守るために排除する選択が、正解として機能してしまった世界
それが、このIFです。
本編では、
この未来に行かないための物語を描いています。
この特別編が、
翔の選択を見守る一つの視点になれば幸いです。
――そしてもし、
「これは間違っている」と感じたなら。
それこそが、本編の答えです。




