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そして舞台は地区大会へ

放課後のグラウンドは、久しぶりに本格的な「部活の音」がしていた。


スパイクが地面を噛む音、ストップウォッチの電子音、誰かの息が上がる声。


文化祭の熱気が完全に抜けきらないまま、陸上部は次の段階へ進もうとしていた。


「はい、集合!」


三年の部長、氏原海斗が手を叩く。

いつもより少しだけ表情が引き締まっているのを、俺は見逃さなかった。


「今日は地区大会のエントリーについて話す」


その一言で、空気が変わった。


「お、来たな」


「やっとか」


山岸が無駄に声を上げ、

小和が肘で軽く黙らせる。


副部長の桜陽菜は、すでに資料を手にしていた。

表情はいつも通り淡々としているが、視線は鋭い。


「日程は再来週の土曜。会場は南地区陸上競技場」


氏原が続ける。


「エントリーできる種目は、100m、200m、400m、それとリレー。

ただし人数制限がある。全員が全部出るってわけにはいかない」


それを聞いて、ざわっと空気が揺れた。


「えー、じゃあ誰が何出んの?」


「タイム順でしょ?」


「リレー出たいんだけど!」


いつものワチャワチャ。

一見すると、前までと何も変わっていない。


――でも、俺は分かっていた。


今日は“決まる日”だ。


「じゃあ、個人種目から行く」


氏原はそう言って、陽菜の方を見る。


陽菜が一枚の紙を掲げた。


「現時点のベストタイムと、練習内容を加味して決める」


淡々と、容赦がない。


「まず――100m」


一瞬、全員の視線が集まった。

短距離の花形。

一番目立って、一番シビアで、一番言い訳が効かない。


「木下翔。100mで行く」


その名前が呼ばれた瞬間、

空気が一拍、止まった。


「おー」

「妥当じゃね?」

「エース枠だな」


そんな声が聞こえる。

誰も異論はない。

俺自身も、驚いてはいなかった。

むしろ、来るべきものが来た、という感覚だった。


「了解です」


そう答えた声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。


――なのに。


視界の端で、結衣が一瞬だけ俺を見た。

何かを確認するような、短い視線。

すぐに前を向いたけれど、

その一瞬が、やけに胸に残った。


菜々は、何も変わらない表情で立っていた。

でも、呼吸がほんの一拍、遅れたのを俺は見てしまった。


「次、200m――」


氏原の声が続く。

名前が呼ばれ、種目が決まり、エントリーが進んでいく。

現実的で、合理的で、正しい判断。

なのに、

胸の奥に小さな引っかかりが残ったままだった。



マネージャー席。

夏樹は、タイム表をじっと見つめていた。

数字だけを見れば、答えは明確だった。

翔の100mは伸びている。

結衣は安定している。

菜々は波がある。


「……」


ペンを持つ手が、ほんの少し止まる。


(これが一番、通る)


そう分かっている。

だからこそ、胸がざわつく。


「夏樹」


陽菜が小さく声をかける。


「このエントリーで問題ない?」


「……はい。今の状態なら、これが一番です」


嘘は言っていない。

感情を切り離した、正しい答え。


でも――


それが“誰も傷つかない答え”かどうかは、別だった。



エントリーの最終調整に入る。


「リレーは四人+補欠一人だ」


氏原が言う。


「個人種目との兼ね合いもある。全員は無理だ」


その言葉に、空気が少しだけ重くなる。

結衣は黙っていた。

菜々も、何も言わない。

山岸が、悪気なく口を開く。


「まあ、翔が100m出るなら安心だな!」


その瞬間。


「……それ、どういう意味?」


結衣の声が、低く響いた。

山岸が一瞬固まる。


「い、いや、別に深い意味じゃ……」


「今は個人感情の話じゃない」


陽菜が即座に切る。


「続けるよ」


空気は、元に戻った。

でも、完全には戻らなかった。


誰も怒っていない。

誰も責めていない。

それが逆に、息苦しかった。



練習に戻る。


100mのスタート位置に立つ。

スターティングブロックを調整し、地面に手をつく。


「よーい」


息を吸う。


(100mって、短いくせに)


パンッ、という合図。


走り出す。

一歩目、二歩目、加速。

風を切る感覚。


(ごまかしが、きかない)


ほんの数秒。

それだけで、全部が決まる距離。

ゴールを抜け、減速する。


結衣は別のレーンで黙々と走っていた。

フォームは安定していて、ブレがない。


菜々は、少し離れた場所で自分の動きを確認している。

慎重で、丁寧で、でもどこか遠い。


誰も、俺を責めていない。

誰も、俺を祝福していない。

それが、今の答えだった。



帰り際。

掲示板に、エントリー表が貼り出される。


地区大会

男子100m:木下翔

名前を見て、胸が少しだけ重くなる。


走る場所は決まった。

走る距離も決まった。


でも――


(俺は、誰のために走るんだ)


答えは、まだ出ない。

夕焼けのグラウンドで、

それぞれが、それぞれの思いを抱えたまま帰路についた。


地区大会は、もう逃げない。

次に走るとき


俺たちはきっと――


何かを突きつけられる。

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