僕を分かって
猫と男の話。
「ミャー」
「おっ」
玄関を開けると、猫がこちらを睨みつけていた。
出社前にスーツを汚すわけにはいかない。しかし可愛い。
幸い、いつも乗っている電車の発車までには時間がある。
しゃがみこんで目を合わせてみる。じっとこっちを見ているので、少し手を前に出してみる。
猫は恐る恐る手を出す。
次の瞬間、目にもとまらぬ早さで手のひらから手首あたりまで引っ掻かれた。
「うわぁ」
血が滲む。しかし家に戻って治療する時間もないので、とりあえずハンカチを当てておく。
昨日洗って乾いたものだから清潔ではあるだろう。
よくもやってくれた、そう思いながら猫の方を見ると、かなり敵意むき出しで威嚇してきた。
何か怒らせるようなことをしてしまったのか。
少しショックをうけてアパートの外階段を下った。
「それ、どうしたんです?」
後輩が痛そうな顔をして俺の手を指さした。
出社したらちゃんと処置しよう。そう思っていたのにすっかり忘れていた。
「あぁ、これ。なんか、子猫ちゃんにやられて。」
「へ、へぇ。そうですか。」
そういうと、後輩は引き攣った顔でその場を去っていった。
何か間違ったことを言っただろうか。
お昼時、コーヒーでも飲もうかと給湯室へ向かうと、そこでは女子会が開かれていた。
黙って離れようとすると、自分の名前が聞こえた気がした。盗み聞きはよくないが、さすがに気になる。
「〇〇さんって、チャラいんでしょ」
「優良物件なのに、彼女もいないっぽいし。」
「さっき引っ掻き傷の理由聞いたら"子猫ちゃん"って言ってましたよ。あれ、本当にこねこなんですかねぇ。この前も隣の部署の子泣かされたって」
あまりに事実無根な話が飛び交っていて驚いた。
明らかに動物のひっかき傷を見て、どうしてそうなる。
こういう噂が立ったのは一度や二度じゃない。
この会社でも、学生時代でも。なぜか自分の変な噂がよく流れる。
何が悪いのか分からないまま、ため息をついた。
夜も更けて帰宅すると、玄関の前には朝の猫がいた。
俺はまたしゃがんで猫を見つめる。
「恋愛なんて、何の意味があるんだよ。なぁ?」
そう言った後になって、ヒールの音に気付いた。勢いよく振り返る。
そこにいたのはお隣さんだった。
お隣さんは猫と俺と俺の手首を見て言った。
「猫ちゃんと仲良くなりたいなら、目は合わせない方がいいですよ」
恥ずかしがった俺をスルーして、独り言のように言って部屋に入っていった。
俺は思わず驚いて、なぜか胸は高鳴っていた。