私が映画を撮るまで
私が映画を作ろうと思ったのは、なんてことない。人として当然の欲求を満たそうと思ったからだ。
それは、残酷に過ぎ去るその瞬間を永遠にしたいというありふれた願いだ。人は時間を遡ることはできないけれど、時間を映し出して何度も思い返すことができる。
とはいえ、その方法はいくつもある。写真を撮ったり、絵にしたり、歌にしたり。特別好きなわけではないのに、なぜ映画にしたのかは自分でも分からない。でもどこかで、映画は真実を映すという確信があったのだ。
何の知識もないまま、とりあえず検索をかける。
『映画 自主制作 作り方』
そこまで行き着いてようやく気がついたのは、自分が何を撮りたくて映画を作りたいのかが不明ということだ。一番大切なことを抜かしていた。
きっかけは、同級生の死だった。死が如何にあっけなくて、喪失感が強いのか突きつけられた。仲が良かったわけではないのに、それでもぽっかりと穴が空いた気分だった。
彼女と仲の良かった人たちは何を思ったのだろう。棺に集まって、彼女の友人たちは泣きじゃくっていた。
私は何か、例えば現実に憤りを感じて冷静になれなかった。
帰って一人の部屋で、ただ天井を見つめていた。
その中で、今日泣きじゃくっていた彼女の友人たちの悲しみや、私の憤りが過去になっていくことに、何とも言えないやるせなさがあった。きっと誰もこのことを忘れないけれど、それでも記憶は薄まり、もしかすると美化されてしまうかもしれない。それが私には許せなかった。
過去に戻ってあの日の映像を撮ることはできない。それに、そういうことじゃない。私はあの日感じたものを全て映し出したいのだ。
そのためには、一体どうすればいいのだろう。
机に突っ伏しながら、『映画ノート』と表紙に書いた、真っ白なページを見つめる。ペンでぐるぐると書いていても、何をどうすればいいのか分からない。
しばらくそうして、ノートが真っ黒になりそうだと思った時、私はハッとした。
そうだ。あの日の感情を映したいのなら、あの日のみんなの感情を知らなければいけない。
私は私の憤りしか知らないのだ。あの日、みんなが何を思い涙を流したのか、俯いたのか、眉をひそめたのか。私は知った気になって何も知らなかった。
取材をしよう。もしかしたら誰かを傷つけるかもしれない。それでも、私はあの日を映したい。
私は5つ入りのノートの2つ目を出した。表紙には
『取材ノート』。
そう書いて、私は家を出た。
結局あまり情報を使えませんでしたが、こちらのページを参考にしました。
短編といいつつ続き物みたいな終わらせ方をしてしまったのでまたお世話になるかもしれないです。
https://halumi.net/movies/how-to-make-movies/




