【光徒歴程:喪失頁】アストマ
私はこの章をあえて喪失頁とすることにした。本から切り離し、常に私の手元に置くために。神層を語るを禁ず、されど彼女の言葉は、一言一句違わず記さなければならないと思った。彼女が、確実に、この世界にいた証として。
「完全な闇って、どんなのか知ってるかい。」
私は首を振りました。彼はそんな私に、そうだろうね、と言いました。
「夜とかそういうんじゃなくてね、たとえば、ほら、目を瞑ってごらん。瞼を透過して、明るいのが分かるだろ。」
確かに、と、私は目を閉じました。肉に遮られ、赤みを帯びた明るい柔らかな光が、目の前いっぱいに広がります。
「暗いところで目を閉じてもね、見えたんだ、昔はね。それはもう万華鏡のような感じで、動くんだよ。黒地に銀河の小さな光が、赤に、黄金に、白金に、きらきら、きらきら輝きながらね、解像度の低い、モザイクの宇宙みたいなんだ。」
「今は、もう見えないのですか。」
私が聞くと、彼はうーんと唸りました。
「さあ、もう資格がないのかも知れない。よく分からないや。さて、本題に戻ろうか。完全な闇の話にさ。」
彼の言う資格とは何なのか、私には分かりませんでした。けれども私は彼の見る不思議な世界が気になって、続きを待ちました。
「何度も同じ場所に行くけれども、二度と行けなくなってしまった所がいくつかある。その一つが、完全に真っ暗の場所だ。何も見えないし、温度もなく、音もない。匂いもしない。歩いているのかも分からない。本来身体にあるはずのありとあらゆる感覚が、本当に何も無いんだ。でもね、在りもしない極彩色の花が、在りもしない地面に生えて、在りもしない風に揺られているのが分かるんだ。在りもしない音を聞きながら、僕は在りもしない川に向かって歩いた。花が疎らになっていく。地面が石がちになって、緩やかな水の音が大きくなる。ふと横が明るくなって、黒い世界が灰色に、粉が吹いたように白く変わっていった。僕はそっちに行ったほうがいいと思って、急いで白い方に向かったんだ。そうして目を開けた。」
「その光があっても、その世界の詳細を見ることは出来なかったのですか。」
私がそう聞くと、彼は黒い翼を毛繕いしながら気怠そうに答えます。
「うん、砂みたいに粉々になって、どんどん消えていったから。黒いまま、散り散りになって吹き飛んで行った。」
そうして彼は一瞬宙を見上げ、再び話し始めました
「次に見た場所は、また真っ黒だった。そこで僕は何をしていたのか、生きていたのか死んでいたのか分からない。とにかく何もなくて、でも僕の意識がはっきりしたのと同時に、丸い頭に棒が刺さったような形の光がパッと突然現れて、僕の前に立ったんだ。そうして照らされた空間は、何だかよく分からない場所で、自分の家の前みたいに知り尽くしたような、全く知らないようなぼやけた場所なんだ。僕は目の前に立ち尽くす光を見続けた。どれだけそいつと向き合っていたかは分からない。全く奥行きのない光だった。でも、急に僕とそいつの間に魚眼レンズが現れたみたいに、一瞬で歪み、滲んで、眩しくて僕は目を開いたんだ。」
私は瞬きもせずに聞き入っておりました。そんな私の瞳を見て、彼はまた宙を見上げます。
「もう少し、話してあげようか。今度は夜の世界の話。僕は家の前の庭で空を見上げていたんだ。」
上をご覧、と、彼は顔を上げたまま私に言いました。私は隣に並び、彼が見つめている空間を見上げました。
「その世界では、僕の目の前の空は、ちょうど望遠鏡を通して見た宇宙のように拡大されていて、星々が流動していくんだ。ああ、ほら、オリオンが逃げていくよ。蠍がそれを追いかけて行く。そんな光景を眺めているうちに、僕はいつの間にか地面を離れて、星の川の中にいたんだ。中に入ってしまうとね、もう星は席に座るのをやめて、もう散々に走り回るんだ。光がどんどん通り過ぎて行って、流れて、流れて……、その渦の中にいつまでいたんだろう。いつの間にか、僕はもう、そこにはいなかった。」
「星とは、何ですか。ここにはないものですか。」
私は何もない天上を見上げたまま彼に問いました。彼はくすくすと笑い、
「星はね、どこにでもあるよ。けれども今は、明るすぎて見えないのさ。」
と、答えました。そうして彼は下を向き、気怠そうにゆっくりと翼を伸ばします。
「あの扉だってそう。明るいところには、どこにでもあるんだから。気付かないだけ。」
彼は徐に黒いカーテンを引きながら弧を描きました。彼がぐるっと腕を回し、円が閉じる頃には、辺りはすっかり真っ暗になっていました。
「どうだい、見えるかい。」
私は彼に寄り添い、真っ暗で何も見えない空間に不安を覚えました。
「いいえ、何も見えません。あなたには、何が見えているのですか。」
「さあ、想像してごらん。きみにあの扉をくぐる資格があるかどうか。」
彼は私を軽く突き放し、飛び立とうと翼を広げたようでした。唐突に空間に一人取り残された私は、彼が羽撃いた時の風に押され、羊水のような暗闇の中でしばらくの間揺蕩っておりました。
「あの光の扉は、鍵穴の様でもあった。」
不意に彼の声が聞こえ、私は身を捩りました。彼の姿はどこにも見当たらず、それでも声だけは、私を包む様に聞こえてきます。
「二度目に会った時、丸い頭の光の柱は少し膨れ上がっていて、僕より少し大きくなって滲んでいた。三度目に会った時、黒い天井に、僕の視界いっぱいに、奥行きのない光の頭だけが、大きく、大きく口を開けていたんだ。」
私の体が意思に反して、高速で動き出しました。私は翼を動かすこともなく、目を開いて空間を眺めました。真っ黒で何の変化もない背景は止まっています。しかし流動する空気の感触は紛れもなく飛行していることを証明していました。
「きみにも見えるかな、僕と同じ世界が。」
晴れ渡る、とは、目を開けるのと同じ様な現象だと思いました。
黒地の世界に、ミルクをこぼしたかのような川。数多の光を反射して、所々橙や黄、緑、青に輝くその川を斜め下方向に見ながら、私はたくさんの小さな光とすれ違いました。近くの光は素早く、遠くの光はゆっくりと通り過ぎて行きます。
私は宙返りをしました。三百六十度、どこを見ても光の粒と黒い空、淡く輝く極彩色の雲だけ。たったそれだけのことが、どうしようもなく神秘的で、人の夢とは必ずしも当人の経験から生まれるものではないと思いました。幾億年もの間私たちが見てきた光景の、その美しいところばかりを切り取ってできたような……。
私は光の粒をかき集め、双子の人形を拵えると、男の子の方にはバース、女の子にはアンと名付けました。私は彼がくれたこの素晴らしい世界を、誰かと共有したいと思ったのです。バースには私が考え得るすべての美しい音と文字を教え、アンには光の粒を自由に操るための記号と、最大限の幸福を紡ぐ魔法を教えました。私達は燐光に輝く言語を交え、極彩色の雲の海を泳ぎ、光の粒子で空想を形作って過ごしました。
私は球状の箱庭を作り、二人をその中で遊ばせました。私は姿の違う人形を幾つか拵え、箱庭に入れました。人形は光の粒を食べ、子を為し、どんどん増えていきました。
「やあ、これは素敵な晩餐だね。」
彼の声が何処からか聞こえ、人形が幾つか消えました。
「これから、もっと豪華になりますよ。」
私は彼にそう告げると、箱庭に少しの光と風の花弁と雨音、砂塵を入れました。それを栄養にして増えた人形を、彼が三叉の足で掴み食べるのです。そうして幾星霜、ようやく私達の楽園が完成しました。
けれども幸福はすぐに消え去りました。誰かが箱庭の蓋を破ったのです。穴からは燦々と光が入り込み、多くの眼が、眼が、私達を見ました。
突然、私の視界が歪み、煮えたぎる水面のように泡立っていきました。途端に色々な感情が押し寄せ、私は心臓が破裂しそうになりました。たくさんの泡がぼこぼこと弾けて一つになっていくような、怖く、気持ちが悪く、憎らしい感覚に襲われます。何か大切なものが奪われていくような気がして、私の心は粉々に砕け散ってしまいました。
遠浅の世界に新興の下卑た音が響き、私達の言語は穢され、歪みました。私の筋書きに無いものが現れ、生まれ、連綿と紡いできた歴史と遺伝子が崩れ去り、ああ、哀れ、私が愛した楽園は、誰からも忘れ去られ……。
「世界は変わるよ。流動する粒子と同じ。細胞が新しくなるのと同じ。それが成長だ。」
彼の声はそう言って世界に溶けてゆきました。取り残された私は、もうどうしようもなく、この死んだ世界を見続けることは出来ないと思いました。
思えば、綿密に紡いだ糸を引き裂かれるような。
思えば、心を込めて刻んだ歌を冒涜されるような。
思えば、私はただ彼の夢を自分の心にしたかったのだと。
私は私の正しさのために、何かを許容することが叶わなかった。私の愛した楽園はもう何処にもない。過去にも、現在にも、未来にも、決して到達することはない。道を外れた。私はもう、トゥルーメイアに帰れない。
それは、確かに存在した。彼が可能性を示した。
が、道を閉ざした
神秘をゆく月の舟、眩暈、残響は夢か
私の大いなる光、鍵穴であり鍵の
真実は私は記憶に定かではない証拠を歌い
哀れ世界の
それは人工の希望が一度に、かろうじて、
どこかにどこにも、あれがあってないようなもの
幽霊 幽霊と
当惑の惨状たるや
消失はさぞ歓喜の最中に
文章はここで途切れている……。