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間の山奇譚  作者: 葦原観月
1/1

物忌み

俗世と一線を引く間の山は、不思議な世界です。

(十五)


「素間万金丹まだら、はなくそに効き目大。ただし疲労の蓄積多し。持続性に関しては今のところ不明、と」

 微睡みに分け入る言葉が、庄助の気を逆撫でた。騙されたと知って、腸が煮えくり返る。瞼を閉じた素間を抱え、焦燥と困惑に喚き散らした己を、阿呆らしく思う。

(素間が死ぬわけないやん)ゆくゆく考えれば、わかりそうなものだ。

 迫りくる絶望と戦い、激しく震えた全身に己を失った。庄助の腕の中で、共に震える素間は、人形のように無力だった。心ノ臓がせり上がって「ぼんっ!」おこうの叫び声を、聞いた気がする。


(悪ふざけにも、ほどがあるぞ)

 重く怠い意識を、庄助は必死に払い除ける。こう度々、万金丹の試作に付き合わされては、身が保たん。心まで弄ぶ、素間万金丹は質が悪い。

(横っ面、張り倒してくれるわっ)

 握った拳に、力がこもり、

「猫には小判と万金丹。効き目続行、気分良し。ただし味に不満あり、あぁいかん。叱られるわ……」


 聞き覚えのある声に、拳が萎えた。

「おい玉助、素間はどうした」

「若旦那は、弥平さんと共に旅立たれました」

 玉助は、筆を置いて息を吐く。

「いつやっ」叫んだ庄助に、「ええっと……三日ほど、前ですやろか」

 ぎこちなく指を折る玉助に、庄助は呆然と目を瞠った。


 何でや――。


 三日も前となれば、既に骸は墓の中。あらん限りの悪態を、吐いてやることも叶わない。

「勝手に逝くなや……」

 いつだって、勝手気儘な素間は、最後まで――。

「馬鹿野郎っ」

床に叩き付けた拳を、玉助の小さな手が、包んだ。

「そない嘆かんと。この日のために、若旦那はわてを、庄助さんの元に置いたんです」

 項垂れた庄助を覗き込み、眦を下げた玉助が、そっと庄助の頬に手拭いを載せた。知らぬ間に溢れた涙が、野間万金丹の文字を黒く染めた。


       *


「いっちまったもんは、しょうがないだろ。いつまでも、めそめそするんじゃない。お前は間の山一の若衆なんだ。しっかりおしっ」


 ぽっかりと空いた胸の穴に座り込み、一切の気力を失った庄助に、母は活を入れた。

 泣いても騒いでも、素間は戻らない。さばさばした、母の物言いに背を押され、庄助は、一番艶やかな振り袖を纏って、間の山に向かった。


「さぁて、皆様お立ち合い」

 賑やかな間の山は、初夏の緑に彩られ、幇間の高らかな声が、青く澄みきった空に昇って行く。すれ違う人々の顔も晴れやかだが、庄助には、全てが色褪せて見えた。


 間と名の付く場所には、様々なもんが立ち寄ります。神さんもそやないもんも、生きたもんも死んだもんも――。


 数日前に聞いたおこうの言葉が、庄助の胸を締め付ける。

 金剛證寺の檀家であり、そもそもが僧であった、野間家の嫡男は御仏の元、極楽とやらへ旅立つのだろうか。

素間のことだ、地獄に落ちても、鬼を丸め込んで上手くやるには違いない。それでも、大好きだった間の山には、時に立ち寄りもするだろう。太兵と共に、どこかで見物を楽しんでいないかと、ついつい庄助の目も動く。

 ささらを鳴らす童の前に、せぎょうの幟を持った、白装束が二人。菅笠を被った大人と子供は、素間と太兵に近い年頃に見える。

 ふらふらと二人連れに近づいた庄助に、大人のほうがゆっくりと振り返り、「庄助さんっ!」背後から叫んだ声に、庄助は振り向いた。すかさず飛んできた玉を、手に受ける。


「えっ、庄助さん?」ささらを鳴らしていた童が叫び、

「庄助さんって、あの?」声を張り上げる竹坊は、めくらだ。

「庄助さんや、庄助さんが帰ってきはった」

 ざわめく芸人に、観客の目が集まる。

「おや。間の山一の、若衆の登場や」

松右衛門の極めつけのひと言に、人だかりができ、取り囲まれた庄助に、誰かが錦の玉を放った。


 咄嗟に動いた体が玉を受け、足が勝手に蹴りあげる。ぎくり、と腰が呻いて息が止まるが、ここでやめては、間の山一の若衆の名が廃る。

(誰や。玉なんぞ投げたんは)笑顔を取り繕って、左右に目を走らせ、松右衛門が袖で目を拭う様に、胸が痛んだ。

(わてを、案じてくれる人がおる)

 激しく痛む腰を引き攣った笑顔に隠し、庄助は、玉芸に専念する。本来、玉芸は女衆の芸だ。若衆の花形芸は、枕返しだ。

 自在に枕を弄ぶは、華ある若衆の特権であり、玉を弄ぶは女衆と決まっている。芸は色事に通じているのだ。


 されど、腰をやられては、枕返しどころではない。春庵先生の飴薬は、ただの飴。やはり、良薬は口に苦くてはならんかと、一つ息を吐き、何とか肩に載せた玉を腕に這わせ、手の平に受けて、にっこりと笑んで膝を折る。

「よっ、庄助さん日本一!」

調子のいい松右衛門のかけ声に、大歓声が沸き起こり、庄助は胸を撫で下ろした。

 とはいえ、ここで終いに出来ぬが、間の山一の若衆だ。期待に満ちた、観衆の気配に押され気味の庄助に、痛めた腰が、ぶちぶちと文句を言い始める。

(どないしよ)焦った庄助は、ぱんっ――。と、軽い破裂音に目を向けた。

煌びやかに舞い上がった玉が、観客の目を奪い、庄助の脇に、狐面を被った童が降り立った。

「わてに任せて下さい」

囁いた童は玉助だ。

 錦の玉をじゃれるように玩び、軽業を交えた玉助の興行に、間の山は大盛り上がり。玉を投げるだけの庄助に、腰が文句を引っ込め、やんややんやの拍手に、撒銭の雨が降る。

(むむ。恐るべし猫童……)玉助を肩に乗せ、庄助は深く腰を折った。

 

   (十六)


「勝手をしてもうたら困ります。わては、若旦那から庄助さんを預かってますんや」

 小童に、預けられるいわれはない。

「間の山は、まだらなんやろ? わては見たんや、素間と太兵が――」

 口を尖らせた庄助の汗を、玉助は野間万金丹の手拭いで拭った。

「見間違いです。三日前に旅立った若旦那が、間の山に戻るはずないですやん」

 ぴしゃり、と言われて、庄助は肩を落とした。

「とにかく。大人しゅう、しとってもらわんと困るんです。わてに、大立ち廻りはできまへん。村長には、話がついとります。興行は、わてが気張りますよってご安心を。庄助さんは、腰を労って下さい。野間万金丹の秘薬は、まだありますよってに」

 野間万金丹の文字が重々しい包みには、素間の親爺様がくれた、旅の友が数粒。赤くない丸薬に、副作用はなさそうだ。


「わてに、狙われる理由は無い」

 吐き捨てた庄助に、玉助が竹筒を押しつける。なかなか気の利く童ではある。

「二度も、危ない目に遭うてますんや。二度あることは三度ある、三度目の正直、いいますやん。小屋に火ぃつけはったんは、脅しでっせ。相手は、庄助さんが小屋におらんと承知の上。今度、狙われたら命はありまへん。そやから敢えて、間の山ですんや。一番安全ですよって」

 猫は、全て承知だ。


「玉助、お前はお玉か」疲れ切った頭で、単純な問いを投げかける。

 阿呆、言わんと。猫が物言いますかいな――。

 庄助の期待に反して、

「へぇ、わてはお玉でおます」

 童は平然と返した。どうやら、まだらに染まったらしい。

「死んだはずの庄助さんが、間の山に現れれば、騒ぎとなります。そやから逆に、派手な興行を打って、皆の度肝を抜いたろうと……」

「母ちゃんが、言うたか」「はい」猫は、正直だ。


「とにかく。よそもんには、関わらんことです。今は、間の山を守ることが一番やと、若旦那は言われました。それができるんは、庄助さんやと」

 お前は伊勢の若松様なんだよ――。素間の期待には、応えねばならん。

「そやけど、太兵の一件はどないするんや。拝田の神隠しは、まだ決着が着いとらん。わてが何とかせないかんやろ」と、腹に力を入れた庄助は、(わて、男やなぁ)と、一人悦に入って、

「庄助さんっ!」鬱陶しい声に、気が抜けた。すかさず身を返した猫には、恐れ入る。


「いやぁ、ようご無事で」丸々した松右衛門に抱きつかれて、腰が悲鳴を上げる。

「肩の荷が降りましたわ」と、破顔する松右衛門は、檀家廻りから戻ったばかり。いきなり三方会合に呼び出され、肝を潰したと言う。

「めんぼできてもうて。寝不足でんのや」

 あかんべぇをして見せる、松右衛門の目は赤く潤み、ぷくり、とできた腫れ物に、松右衛門の涙の訳を知る。(わて。関係ないやん)


「何ぞ、あったんですか?」と、問う庄助に、

「何ぞも何も。大杉のご隠居が、庄助さんの葬儀をする、いうてますんや」松右衛門は、とんでもない言を吐く。


 庄助の姿が、間の山にない事実に不安を感じた大杉の主は、目付衆に銭を握らせて、拝田の火事と、庄助の死を耳にした。すぐさま拝田村に出向いた主は、門番に押しとどめられ、山田三方の預かりとなった。

「隠居とは言え、御師家でっせ。穢所に私情で踏み込むなぞ前代未聞。幸福家に不幸が来ますがな」

 排他的な芸人は、村の事情を外へは漏らさん。ましてや、火事ともなれば、お咎めを恐れて口を噤む。目付衆は牛谷の者であり、拝田の火事の真偽のほどは確かではない。そこで。

「儂に、お鉢が回った次第で」

 伊勢の噂を取り仕切る、松右衛門ならばと、三方会合は、藁にも縋ったわけだ。


「若旦那がおられれば。難なく済む話ですが」

 項垂れて、手拭いで目を拭った松右衛門に、庄助の胸に、再び冷たい風が吹いた。

「松右衛門さん、素間の――」咽まで上がった言葉は、撓垂れる。

 おそらくは盛大であったろう、葬儀の模様でも聞けば、未だ受け入れられん、素間の死も認めざるを得なくなる。だが、檀家廻りから戻ったばかりの松右衛門は、素間の葬儀には、参列していないはずだ。

「そない言うても、儂も他国から戻ったばかり。噂を集めるいうたかて、すぐにとはいきまへん。親様とて、他家の事情に、いつまでも付き合うてはおれませんがな。大家の参宮案内は、儂の仕事です。大杉のご隠居も、心労で寝込んでしもて。幸福大夫様が、儂に依頼してきたんが、適当な繕い話ですわ」

 伊勢の噂の大元締め、松右衛門を頼んでの話だろうが、合点のいかん話だ。

 上下関係の厳しい御師の世界で、格下の幸福家が、格上の春木家のお伊勢さんを頼むとは、不躾だ。

 たかが贔屓の芸人に、そこまでするかと、眉を寄せ、いやそれよりもと、庄助は腰を上げた。お年寄りに、心労は禁物だ。素間を失ったばかりの庄助は、知らぬ間に、大事な人を失うのはもうたくさん。まずは無事を、知らせにゃならん。


「使いは出しましたよって、ご心配なく。お熊さんと、祝杯でも上げはりますやろ、話はこれから。まぁ、聞きなはれ」

 手で制した松右衛門に、庄助は頷いた。世話を掛けた手前、聞かぬわけにもいかん。

「うちとこの親様が、大層機嫌を損ねましてなぁ。そら当然です。三方会合の指示やからやむなく従っただけで、うちとこには他家の話。儂は春木家の看板ですんや、それを拝借しといて、挙げ句にでっち上げ話を作れやなんて。随分やありまへんか?」

 春木大夫の怒りはもっともだが、幸福家の当主は、先代に良く似た穏やかな人物。人柄を思えば、やけに性急な行動には、合点がいかん。

「うちとこの親様は、よう出来たお方です。例え身内の前でも、決して、人様を罵るようなお人やありまへん。儂は、童の頃からよう知っとります」


 七つの歳に、他国の神社から、春木家に奉公に上げられた松右衛門の生い立ちは、伊勢の者なら、誰もが知っている。

「その親様が。えらい剣幕で、幸福家を罵ったんですわ。幸福大夫は、神隠しの張本人やとか、よりにもよって、かぐや姫がはなくその子ぉを生むやなんて、と」

 再び耳にした、はなくそっ子発言に、庄助の口があんぐりと開いた。

「ほんまなんですか」めんぼの赤い目が、庄助を覗き込んだ。


     (十七)


「何の話ですやろ?」と、取り繕った庄助に、松右衛門は、はなくその正体を明かした。

 幸福家の四男、幸四郎は、大層な美童で、女将が溺愛して連れ歩いた。その愛らしさに、客引き童として、芝居小屋の舞台にも上がった経験がある。どこへ行っても褒めそやされ、自身の美しさに確証を持った幸四郎は、役者になると家を出た。

「ところが、芸のほうはからっきし。ほんではなくそ。客から花(祝儀)もとれん役者を、古市の芝居小屋では、はなくそいいますんや。儂、こう見えて芝居通なんです」


 芝居小屋の親郷、楠部の長とも懇意と言う松右衛門、侮るなかれ。芝居小屋に度々、顔を出していた素間もまた、はなくその意味を知っていたはずだ。にわかに興味が湧いて出る。

「伊勢広しといえど、かぐや姫の名にふさわしい女人は只一人」

ほぅ、と息を吐いた松右衛門は母の信奉者だ。確かに。男を手玉に取るあたりは、かぐや姫だが、母はなよ竹というより、竹槍のごとし。

 若き日の母に恋をした春木大夫は、母と手を携えて竹藪に消えた、幸四郎に激しい嫉妬を覚えた。日記に綴った憎悪の念を、封印した春木大夫は、間の山を避けるようになった。


「親様の話によれば、二人を間の山の竹藪で見たんが十四、五年前。庄助さんの歳と合いますやん。間の山若衆に執着する、大杉のご隠居にふと、親様は幸四郎を思い出し、日記を捲って疑問を持ったんですわ。以前、お杉お玉の掛け小屋で、騒ぎがあったですやろ。弥一郎さんが――」お美代を庇った一件か。

「あんときに啖呵を切ったお杉、うちの親様は、内々に拝田の長に問い合わせたそうです」

 お客相手に啖呵を切るような、不躾者は村にはおらん。何かの間違いではないか――。

 けんもほろろの返答に、食い下がるもできず、松右衛門にお鉢が回った。

「庄助さんでしたな。あの日は、神楽奉納に出たお杉の代役を、庄助さんがしたと」

 母の躾直しは、おしゃべりな杉家の女どもにするべきだ。


「そら、お杉お玉は対ですよって。相方がおらんでは、興行が打てまへん。女形の興行も修行の一つですよって」

 返した庄助に、松右衛門がにやり、と笑う。

「幸四郎さんも、女形として芝居小屋にあったようです」

 寸の間止まった息を吐き出し、庄助は、松右衛門の赤いめんぼを見据えた。

「何やえらい気ぃの入れようですが。わての父親は、旅役者やと聞いとります。間の山に父無し子は珍しありまへん。わては、母の小娘時代の話は知りまへんが、幸四郎さんと付き合いがあったとは、考えられまへん。間の山と御師は――」

「持ちつ持たれつ。あくまでも、伊勢を盛り上げる仕事上の付き合い。親しくなってはいかん。特に女を抱くことなかれ。儂がその意味を知ったのは、元服が済んで、ぼんに連れられ古市で、男になった日ぃでした」

 松右衛門は稀に見る、真面目な中間だったらしい。


「御師は、触穢を嫌います。わてら間の山の芸人は穢所に住み、伊勢の穢れ一切を負うもんです。思えばこうして、額突き合わせとるんもまずい。火ぃの不始末を起こしたばかりです、わては身を慎むよう言われとりますんや。問題を起こせば、謹慎を命じられます」

 庄助は触穢を逆手にとった。はなくその正体がわかれば、松右衛門に用はない。

「そないなこと、儂かて承知です、庄助さんにも、事情はありましょうが、儂は――」

 今さら父親など、どうでもいい。だが素間の言った、はなくそっ子の意味が、庄助の父親を示すものなら……。

 伊勢の花形、御師の子息と、間の山の杉家の娘の間に生まれたお前こそが、大神様の思し召し。立派な若松様におなり――。

 素間らしい意地悪な示唆だ。

内心で舌打ちし、「おおきに」と、庄助は口元を緩めた。素間の遺言は受け取った。だが、幸福家に迷惑は掛けられん。


「ともすれば、母とそのお方とは、付き合いがあったかもしれまへん。けどしょせん、母は間の山の女です、そのお方が、わての父親とは限りまへん。要らぬ気苦労を与えた大杉のご隠居には、申し訳なく思います。わてはこの恩義、きっちり芸で返させてもらいます」

 真偽はともかく。庄助を孫と信じて慈しんでくれた、大杉の主には、真心を持って返さねばならん。

「それが一番ですやろな。儂もこの話は、他言しまへん。けど、ご隠居の行動は色々取り沙汰されますやろ。庄助さんが、何も知らんでは気の毒や思いましてな。儂は、庄助さんの味方ですよって」

松右衛門は、ふっくらと丸い手で、庄助の肩を掴んだ。


「幸四郎さんは、神隠しに遭いました。今は伊勢にはいてはりまへん」

 ひた、と庄助を見据えた松右衛門が、大きく頷いた。

「伊勢の放蕩息子には、ようある話で。神さんは放蕩息子が好きなようです。神隠しの放蕩息子は、しらん間にどこぞの御師邸の奥に戻されますんや。いずれ、庄助さんも再会されますやろけど、神隠しですよって、記憶は曖昧です」

 不始末を犯した放蕩息子は、ほとぼりが冷めるまで伊勢を離れ、頃合いを見計らって、然るべき御師邸に婿入り。何食わぬ顔で参宮者をもてなすわけだ。伊勢の御師に、そつはない。


 頷いた庄助に、松右衛門が重そうな腰を上げた。

「御師と間の山は、持ちつ持たれつ。貸し借りがあっては、あきまへん」

 ぐっ、と身を屈めた松右衛門から、大粒の汗が滴り落ちて、庄助の額を濡らした。

「そやから一つ、儂も大事な秘密を打ち明けます。春木家の当主は、今もかぐや姫に恋しとります。間の山に神さんの子ぉが宿る――」

 声を潜めた松右衛門の、めんぼが盛り上がった。

「かぐや姫は、神さんの子ぉですんや。間の山に、再び現れたかぐや姫に、ぼんは日々悶々と過ごしておられます」そんな秘密は、知りたくもない。


 あれは幸四郎の種なんかやない。かぐや姫は、再び間の山に現れたのだ。月の姫は永遠や。なぁそうやろう、松よ――。


 お堅い人物ほど、思い込みは激しい。母は、罪深いかぐや姫だ。

「一度、かぐや姫になったって下さい。ぼんは節操がありますよって、無体な真似はしまへん。今一度、初恋を蘇らせたいだけですわ。間の山一の若衆には、他愛ない話ですやろ」

 はなくそっ子の秘密を守る代わりに、春木大夫のお伽噺に付き合ってくれと。お伊勢さんは駆け引き上手。庄助は頷いた。松右衛門を、敵には回したくない。迷惑をかけたのも事実だ。

「ほならまた」背を向けた松右衛門を見送って、庄助もまた腰を上げた。


    (十八)


「何だい、早くも店じまいかい?」

 袖を引かれて凍り付いた庄助は、振り向いた刹那、虚しさに肩を落とす。手妻師のゆいは、口真似が上手い。

 常は感心しながら付き合ってやる庄助だが、(死んだ者の真似なんて、不謹慎やぞっ)と、邪険に袖を振った。ぽかん、と口を開けたゆいに、

「すまん。ちぃと怪我しとんのや」返して、さっさと脇をすり抜ける。

「あたしに内緒で、いい人ができたんじゃあないだろうね」

素間そっくりの、笑いを含んだ物言いに胸が詰まった。

「やめてくれ!」思わず口を突いた言葉に、我ながら目を瞠り、じわり、と涙が溢れ出る。

「ごめんよ、お大事に」済まなそうに呟いたゆいから顔を背け、俯いたまま庄助は何度も頷いた。


 八つ当たりや――。

口を噛んで、ゆいに背を向ける。


 急ぎ足で通り抜ける間の山の喧噪が、やけに白々しく感じられる。

(卑怯やぞ)

憎まれ口を叩きながら、散々に庄助を振り回し、突然放り出すとはあんまりだ。当たり前にあった日常の中に、当たり前過ぎるほどに居座った存在が、突然なくなって、この先どうすればいい。

(今さら。親爺なんてどうでもええわ)興味もなければ、当てにもしない。

 いつか越してやろうと、庄助が追った背は、見ず知らずの、母の逢い引き相手ではなく、煩わしいほどに、庄助と共にいた素間以外にない。


 幸四郎がお前の父親だ。だからお前は大杉の隠居に甘えていい。可愛がっておもらい、あたしがいなくなっても心配はいらないよ――。


 はなくその言葉に託した、素間の性悪な意図は掴んだ。

 素間は死を間近に、庄助がはなくその正体を探り、父親に辿り着くよう、仕向けたのだろう。意外にもあっけなく手に入れた、はなくその正体に、素間は悔しがっているはずだ。いい気味だと鼻で笑う相手がおらんでは……つまらん。


 小屋が焼けた庄助には、戻る場所がない。

 だが、素間との最後の時を過ごした御座に戻れば、嫌でも悲しみが胸を射る。庄助は村の辰巳の方角に、足を向けた。向かう先は、太兵の小屋だ。


 日当たり良好、風通しのいい辰巳の一角には、母子所帯と親のない童が住まう。一族の存続を担う童への配慮だ。太兵の後を追うようにお静が死んで後、小屋は無人となっている。

 通い慣れた小屋が近づき、庄助の足が止まった。

 狐を従えた女神像の描かれた御札の下がる小屋は、しょんぼりと、肩を落としているかに見える。改めて庄助の胸が詰まった。

 無残な死を遂げた、太兵の小屋は、巫女の手によって清められている。


「お前の仇は、わてが討ったる。ちぃと、邪魔させてもらうで」

 筵をまくって小屋に入れば、仲良く並べられた器が二つ。寝たきりの病人だった太兵の母には、母子額を付き合わせて、飯を食う幸せはなかっただろうが、拝田の巫女は、まだらとなった母子を、気遣ってやったらしい。温かな思いやりに、庄助の胸が熱くなる。

(姫様……)

 もはや、庄助の唯一の心の支えとなった美月だが、美月は、杉家と対立する玉家の頭であり、高級遊女。気易く会える相手ではない。

 せめて美月の祓った場所で、太兵を思い素間を思い。しばし心を休めたい。


 腰を下ろした庄助は、顔を覆った。何だか酷く疲れている。小屋に漂う美月の香りが、庄助をそっと包み込んだ。胸に痞える様々が、一つ一つ溶け出してくる。

はなくそっ子はからっきし――。

 はなくその幸四郎は、庄助の実父。かぐや姫は、禁忌を侵した罪深き女。贔屓の大杉のご隠居は、神隠しの張本人。

 春木大夫は日記を捲り、松右衛門はお伽噺を語る。

 誰が鼻くそやっ。お前だよ。素間は瞼を閉じ、間の山に、神さんの子が宿る――。


「わてにどないせえっちゅうんやっ!」


 ふわり、と捲れた筵が、湿った埃の臭いを運び庄助は顔を上げた。薄明かりが、庄助の滲んだ目に光の泡を作った。

(庄助……)素間の声が耳を掠めて、狂ったように掻き抱く。手は空を切って、庄助は床に伏した。

 

    (十九)


「ここは立ち入り禁止でっせ」

いきなりぱこん、と叩かれた庄助は、頭を抱えて蹲った。

(わてには、心を癒やす暇も与えられんか)

 小屋が建つまでは、御座で暮らせ。お美衣様の言いつけに背けばまた、面倒でっせと、捲し立てるおこうに、庄助は、舌打ちして背を向けた。

「わては太兵に会いに来たんや。放っといてくれ」吐き捨てる庄助に、「お美衣様が、お待ちです」おこうは、まるで聞く耳持たん。

 今は母に会いたくない。はなくその正体を知った今、母の顔をみれば、事実を問い質したくなる。

 若き日の恋を美化して胸にしまう母に、現実を突きつければ、躾け直しは免れん。心身共に傷ついた庄助は、これ以上の傷はごめんだ。


「雨が降ってきよりました。お杉らもじき戻ります」宴を開こうと言うおこうは、庄助を気遣っているのだろうが、とても宴に加わる気にはならん。

(わてはここで、素間を待つんや)

 おこうの言葉通りなら、死者となった素間もまた、間に集うはず。

 罵詈雑言の全てを尽くし、素間を呼び出してやる。聞きたいことは、山ほどある。加えて気持ちのけりもつけねばならん。


 お前、ほんまに死んだんか――。当人の証言ならば、疑う余地もない。


「わては行かんで、ほっといてんか」と、頑なな庄助に、どこで拗ねても若旦那は、もういない。うちと帰ろうと、おこうは譲らない。

「殺された太兵が、恨み言を言いに出てきはる……」

声を低くしたおこうが、脅しをかけた。

「恨み事を言うなら、母ちゃんにやっ!」

庄助は、弱みを突くおこうを突っぱねる。牛谷の鬼に肝を潰す程度には、庄助は恐がりだ。

 怖くないのかと、目を細めるおこうに、当たり前だと庄助は返す。拗ねてなどいない、わては母ちゃんの代わりに、太兵に詫びを入れたるんやと、虚勢を張った。


「へぇ! 恐がりのぼんが」

大仰にぶっ魂消たおこうは、「ほんなら、しゃあない」と、あっさり引いて庄助は肩すかしを食らう。

「お美衣様には、うちから案配よう」と、おこうは、にこりと笑った。

「少々、不安は残りますが。もちろん、ぼんは、ここがどこかわかってはりますよなぁ」

 思わせ振りなおこうの物言いに、記憶を巡らせてしばし。「あっ」と、声を上げた庄助に、ばさり、と筵が、音を立てた。

「気ぃつけなはれやぁ」

おこうの声が遠ざかる。

(あかんやん。鬼子母神様や……)取り残された庄助は、肩を落とした。

 母子の住む村外れの一角には、鬼子母神が祀られる。いずれ父親のない子を持つ遊女らが、子の安寧を願って、鬼子母神を祀るは理解できるが、拝田の鬼子母神には、お花様たる名がある。


 お花は、親のない童らのために、命を落とした拝田の女だ。

 腹を空かせた童らのため、村の裏手の森に木の実を採りに行って、帰らぬ人となった。そんなお花を称えて、建てられた祠に祀られたのが鬼子母神だ。

 お花を慕った母子や童の信仰を集めた鬼子母神は、お花様の名で親しまれ、お花様は時に、ご霊験を示される。

 稼ぎ損ねた童の小屋の外には、木の実が置かれ、孕んだ女には、滋養に効くものを届けてくれる。病の童には熱冷ましまで与えてくれるお花様は、本物の鬼子母神様――と。拝田の女衆や、童の信仰を集めているが。


 庄助は鬼子母神お花の正体を、知っている。村長は、ただの梟好きの猿ではない。

「わては大っきくなったら、村長を手伝えるような男になりたい」

 心から村長を尊敬した太兵が、掟を破ったのは母のため。どこまでも健気な太兵が、無下に殺された事実を思えば、悔しさが込み上げる。

 だが、鬼子母神お花には、今一つの噂がある。


 お花は今なお、我が子への未練が捨てられぬ――。


 誰が言い出したか、噂はもっともらしく語られ、童の域を出た男は、村の中心へと居を移す。

 おそらくは、男童を自立させるための、村長の計らいだろうと、庄助は思っているが、お花様を信じる、女衆の話は生々しい。庄助がおこうから聞かされた、鬼子母神お花の話は、美談だけで終わらない。


「お花はね、玉芸が得意で、あっという間に男の精を吸い上げるんですわ。そやからよう孕みおった。子ぉも好きやが、あっちも好き。鬼子母神となった今、相手が干からびるまで、吸い上げる言います。あの一角には近寄らんことです」


 おこうに植え付けられた恐怖は、今も健在だ。


 雨上がりの水たまりを月光が照らし、湿った風が、森の死臭を運んで庄助の背を撫でた。

(阿呆らしい。ただの噂や)

 後退って小屋に戻ればふと、白い影が闇をよぎった気がして、息を呑んだ。

(あかん、怖じ気づいとる)

 しっかりしろと、頬を叩き、さらりと首を撫でた感触に飛び上がった。拍子にぎくり、と腰が鳴る。

「うぅぅ」唸った庄助を、薄明かりが照らした。顔を上げた庄助に、月明かりを背にした女の影が一つ。

 筵を持ち上げ、ひょいと腰を折った姿は、やけに艶めかしい。女の匂いが、庄助の鼻孔を掠めた。姉さん被りの手拭いが、女の顔を隠している。


(お、お花……)


 目を剥いた庄助を、再び闇が包んだ。女の匂いが近寄ってくる。

 何者かが、庄助の肩を叩いた。ざらついた舌が、首筋を舐めあげる。


 ぎゃあああっ――。


 叫んだ庄助の肩から、何かが転げ落ちた。「きゃっ」と、小さな声が蹈鞴を踏み、女の匂いが身を返した。

「恨めしや~庄助ぇ~」上から女の声が降ってくる。

(お花さん……く、首、首忘れとる……)

 いらぬ考えが余計な恐怖を駆り立て、庄助は固まった腰を引きずって床を這った。足に絡みつくは女の髪か。

「あんたに子種はやれん。後生やから他当たってぇー」

何とか絞り出した声に、


 それがぁ。母に言う言葉かぁぁぁぁ――。


 聞き覚えのある声が、庄助の動きを止めた。振り向いた先に黒髪が揺れる。髪を辿って見上げれば、梁に引っかかった派手な着物。お花の首の正体を知った庄助は、全身の力が抜けて床に伏した。

 

   (二十)


 お花なんているわきゃない、騙そうったってそうはいかん。さっさと、美月を連れといでと、梁から降ろした母は、自慢の髪に丁寧に櫛を入れる。

「まったく。とんでもない畜生だよ」

 くるくると櫛で髪を巻き、母は細い腕をむき出しに艶やかな髪を巻き上げる。無防備に横に投げ出した足に、庄助は眉を顰めた。

(母ちゃんが、お花の正体やないやろな)

 何と言っても、はなくそにまで手を出した、節操のない母だ。

 得意の玉芸で、次から次へと、男童の精を抜き取る化け物の姿が母に重なり、庄助は慌てて打ち消した。妖怪とはなくその子では、庄助の先に希望はない。

「お花はおるて。母ちゃんも見たやろ? 筵を捲くってこう……」

 くねり、と曲げてぎくり、ときた腰は、お花の祟りか。

「誤魔化すんじゃない。お花の話は脅しだとは、誰もが承知さ。村長だって木の実ばかり採っちゃいられない。男の尻を叩くのは女だ。お花は文字通り母であり、鬼であるんだ」

 やっぱり母がお花か。


「四の五の言ってないで、さっさと美月を連れておいで!」

 ぴしゃり、と言って、母は流れる黒髪に沿って櫛を留めた。

 櫛巻は簡易な女髷、櫛で巻き上げた髪を髪の流れに沿って留めるは未婚の証、逆に留めるが既婚の証。子持ちの大年増でも、未婚は未婚だ。

「そやから。姫様なんておらんて。わてが見たのはきっとお花……」

お花は絶対にいる。母は妖怪なんかじゃない。庄助は、自身に言い聞かせる。

「嘘お言いでないよっ。庄助、お前、いつから美月とできてたんだっ!」

 聞く耳を持たん母は、庄助の脳天に櫛を突き立てた。もんどり打つ庄助を、冷ややかな目で見下ろす母はやっぱり鬼だ。

「お前が仕事をほっぽりだすなんて、珍しいじゃないか。そそくさと村外れに向かったと聞いてぴん、と来たのさ」

現場を押さえてやろうと、屋根板を捲って入り込んだ母は、雨に手が滑って真っ逆さま。運良く、帯が梁に引っ掛かってお花の首とあいなった。

(いっそ見せ物小屋で、鬼首にでもなったらどうや)理不尽な扱いに、庄助は胸の内で毒づいた。


「そもそも。何で姫様なんやっ」

母はともかく。節操のない化け物女と、美月を一緒にしないで欲しい。

「おこうに聞いたんだよっ。お前、小屋が燃えた日、美月に手を引かれて、へらへらとついていったそうじゃないかっ」

鬼女の如く歯を剥いた母は、とても巫女とは思えない。

「おかげで命が助かったんやからええやん」

実の母ならば。息子の命を救った相手には、感謝すべきだ。

「そういう問題じゃないんだよっ。どこでどう、間違っちまったか」

 せっかくの櫛巻を掻きむしる母はいよいよ、にょきにょきと角が生えてきそうだ。


「とにかく。あたしは許さないよっ。お前を美月になんか渡すもんか」

「だから。姫様は関係ない。わては独りになりたくてやな」

「だったら何で、お玉がいるんだ。近頃やたら、お前に懐いてるじゃないか。美月にべったりのお玉が、お前に懐くってのは……。あぁ、腹が立つ!」

 ざらついた舌は玉助だったらしい。一応、守り役は果たしているらしい。

「二人してあたしを追い返すつもりだね。下手な芝居打ちやがって。荒御魂の巫女様を舐めるんじゃないよ。美月を連れておいでっ。今日こそ決着を付けてやる!」

 何の決着かはともかく。母はお花を見ていないらしい。


 筵を捲ったお花は、庄助のすぐ傍で身を返した。上からぶら下がった母には、その姿が見えたはずだ。ふっくらとした体付きは、美月とは似ても似つかん。

(ほんまのお花……)

ぞわっ、と鳥肌が立ったと同時に、(おかしいぞ)と、身の内の声が呟く。

「母ちゃん、姫様に何ぞあったんか?」庄助は母の腕を掴んで、

「そうかい。本当に美月じゃあないんだ」呟いた母が、庄助の腕を振り解いた。

「じゃあ。お花に決まりだ。姉さん被りの小柄な女か。なるほど、そいつはお花に違いない」

したり顔の母に、知っとるんかと訪ねれば、「知るわきゃない。あたしが生まれる前の話だ」と、母はとにかく、矛盾だらけ。

「久しぶりの男に、お花は昔を思い出しちまったんだ。どうするぅ? 庄助。お前、お花に喰われちまうよ~」


 御座に帰れば母の餌食。ここにいればお花の餌食。どっちも同じの庄助に、逃げ場はない。

「あっ、そうだあたしたちは母子なんだ、忘れてた」ぽんっ、と膝を打った母には気が抜ける。「忘れるなっ」きっ、と睨んだ庄助に、母はへらっ、と笑った。

「お花は鬼子母神なんだ」乱れた髪を束ね、母はさっさと、小屋の隅に陣取った。庄助の背から、筵を奪い取ることは忘れない。

「逃げるこたぁない」母は筵にくるまって、庄助に目を向けた。

 鬼子母神の守る村外れの一角は、母子所帯に与えられた場所だ。庄助と母は、鬼子母神様に受け入れられる存在だと、言いたいらしい。

 そんな健気な間柄じゃなかろうと思う庄助に、「絶対とは言い切れないけど」と、言い置く母には、少しは分別があるかと期待して、

「いざとなりゃあ、あたしが祓ってやる」

筵を開けて手招く鬼に、庄助は鬼子母神の力を借りて肝を据える。


 母ちゃん、母子は支え合うものであって、まぐわうもんやない――。


 口を開いた庄助に、

「お美衣さま、呼び出しですっ」

飛び込んだ声に、母が舌打ちする。

「正式な呼び出しかい?」

険のある母の声に、おこうは庄助を踏み倒して「はい」と、応えた。

「行くよ、庄助」

襟を掴まれた庄助は、ずるずると引きずられて小屋を出た。

 

     (二十一)


 凜、と前を行く母の後ろ姿は、庄助に幼き日を蘇らせる。


 昔から理不尽の塊の母は、庄助にとって理解不能の人であった。

 唯一、庄助が母に畏怖の念を抱いたのが、荒御魂の巫女として村を出る姿である。


「お美衣様」「あぁ」


 両腕を張った母に、乳母二人が着せる衣は、幼き日の庄助の記憶とは違う赤黒の斑。かつては純白の衣の眩しさに、涙が滲み出た庄助だ。

行ってくるよ。が、行くよ。に変わった庄助は、母に倣って両腕を張った。

「何気取ってますねん、早う羽織って」おこうに叩き付けられた衣は、若草色に橙の混ざる斑だ。

正式な呼び出しとは何ぞやと、問うた庄助に、村の大事だと、応えた母は既に巫女の顔。男に色目を使う、女の顔ではない。


 明々と焚かれた松明に、浮かび上がる茅葺きの屋根は集会場だ。拝田の集会場は、地下に多くの室を持つ、蟻の巣構造となっている。

低く垂れ下がった屋根の一角が出入り口。建物を呑み込んだごとくの茅葺き屋根は、知らぬ者が見れば、老朽化した家屋に見えるだろう。屋根を突き破って、大きな杉の木が真っ直ぐに伸びている。


 列を成した村人が、次々に茅葺き屋根に吸い込まれる。話し声一つない静けさが、庄助の緊張を煽った。

何ぞあったんかと、振り向いた先におねうがいない。

「呼び出しは、村の一部の者に限られる。杉家では巫女のあたし一人だが……間の山一の若衆となったお前には、良い機会だ」呼び出しは、特別なものらしい。


「呼び出しを受けた者は、間の山の一部だ。お前、間の山の意味を知ってるね?」

 清濁を合わせ持つから間の山。おこうの受け売りだが、ただ内宮外宮の間にある山の名称ではない。

「間の山にはいろんなもんが住んでる。そこに居を許されるあたしらは、特別な存在だ」

 間の山はまだらの世界。生きとるもんも死んだもんも……

(素間……)庄助の胸がちくん、と痛んだ。

「拝田の由緒書きは、大神様が伊勢に祀られる以前からある。神職らもそこらは承知さ。内宮の奥には、間の山に関わる文献があるってぇ話だ。お杉お玉の間の山節も、荒御魂の巫女も、ウズメ様縁の芸人一族も。伊勢のもんには、ただならん存在なんだよ」

 天孫を導いた猿田彦と共に、ウズメは五十鈴川の辺に落ち着いた。

 村の由緒書きによれば、ウズメ様を促し、土地の芸能を民人に学ばせたのは、主様だ。

 拝田村が拝する主様は、古から朝熊岳にある大杉に住む国神様。朝熊岳は、古から民人の信仰を集める聖地だ。


 空海上人の建てた真言密教道場が大元となる金剛證寺や、宗派に関係なく民人が建てる卒塔婆のある朝熊岳には、様々な信仰が寄せられる。

 呼び名は違えど、聖地におわす神は一つ。大神様が伊勢に祀られる以前からおわす主様は、大層神格高い神であられると、拝田の由緒書きは語る。

「朝熊岳は聖域、間の山はまだら。昔っからの倣いなんだ。理屈じゃあない。間の山の芸人を、穢人として民人から隔離した理由には、一族の血の拡散を防ぐ目的がある、とも言われる」

 間の山に生まれた者は、間の山からでることは許されん。他の芸人一座に加わることも、芝居小屋へ移ることも。間の山から出される者は、芸人としての才に欠ける者と、掟に背いた者。それもまた、一族の存続のための措置だ。

 拝田とは出自を異にする牛谷にも、おそらく似たような由緒書きがあるのだろう。


「あたしらは、主様に導かれて今がある。主様のご意向に従うのが、代々の倣いだ。村の大事に長は、主様の御言葉を賜る。呼び出しは、主様の御言葉を、間の山に伝える目的でかけられるんだ」

 まだらの衣装は、大神様のお抱え芸人としてではなく、間の山の一部として召集に応じるとの意思表示。立ち止まった母の前で、鬱金色に白のまだらの単衣が垂れ下がった茅を潜った。

「とにかく。村の大事に変わりはない。呼び出しに加わるってぇことは、間の山の代表の一人となることだ。いいかい、あたしに恥をかかすんじゃないよ」

 ひょい、と腰を落として茅を潜った母に、「はい、巫女様」と、返して、庄助は薄暗い集会場に身を押し込んだ。


     (二十二)


「皆の衆、よう集まってくれた」


 中央に聳え立つ、大杉に背を預けた村長の、常になく強ばった顔を、両脇に焚かれた松明が、赤黒く照らし上げる。

 村長を中心に、左右に分かれた列には、長老らが居並び、項垂れている。さすがにとっぷりと暮れた夜更けは、老齢の身に厳しいのだろう。こくり、こくりと縮こまった影が揺れる。

 長老らの並びに設えられた錦の御座に母は座し、後ろに控えた庄助は、こっそりと向かいの御座に目を遣った。

 拝田の巫女と、荒御魂の巫女。両者は共に拝田を支えるお杉お玉の頭であり、村の実力者でもある。

 特に身分の差などない拝田村でも、大事の折には、長老の座に次ぐは巫女の御座であり、名だたる芸人らは、次席に並ぶ。常はお杉お玉が賑やかに巫女の脇に集うが本日、お杉お玉の姿はない。


 母の横には、濃い茶に白い蛇のようなまだらの入った単衣が見えている。体付きからおそらく、童衆を纏める権蔵と思われる。中央に焚かれた松明は、常と違って、大人しく畏まる、村人の姿を影として映し出すばかり。重々しい雰囲気が、集会場を包んでいる。

 向かいの御座に目を凝らした庄助は、胸を高鳴らせた。

 素間を失った今、庄助にとって美月は唯一の心の支え。例え生涯、添うはかなわぬ相手だとしても、若い庄助に、想いを寄せる(ひと)の存在は大きい。件の晩、手を引かれて歩いた心地よさは忘れられん。

(姫様かて、わてを……)微かな期待は隠せない。間の山一の若衆とて、人並みに恋もする。

向かいの御座は空席のまま。(仕事かいな)庄助は肩を落とした。

 お座敷仕事の美月は、留守が多い。空の御座の背後から、こちらを伺う気配はおこんだろう。

 杉家のおこう、おねうに匹敵するおこんは、若頭の美月を支える、玉家の強者だ。母がぱんっ、と音を立てて扇を開いた。ふんっ、と鼻を鳴らす母は、玉家に敵愾心むき出しだ。


「さて。本日の召集の理由だが。かつてない一大事じゃ」


 集会場に響く村長の声に、一同が面を上げた。向かいの空の御座の左右に、ぼんやりと白が浮き上がる。常にお杉らの白塗りに慣れた庄助にも、異様に映る白はのっぺりとして表情がない。

(何の意味があるんや……)

庄助はあんぐりと口を開けた。居並ぶ白に張り付いた顔は、いずれも異形だ。

 狐、狸、犬……?

 庄助に理解できんものも含めて、様々な異形が集会場を埋めている。庄助を振り向いた猫が、(みっともないから口を閉じとくれ)扇で庄助の頤を叩いた。

(言ったろ? あたしらは間の山の一部なんだよ。間の山には、いろんなもんが集う)

 猫は、猫足で後退って、庄助の耳に口を寄せる。

(まだらの単衣に被った面は、まだらの代表者だ。あたしらは芸人だよ、何にでもなれなくちゃあ、本物とは言えない。その昔は、呪師も拝田のもんが務めたんだ)


 猿楽は、寺社の祭礼などに組み込まれた翁猿楽が主だが、伊勢では神宮と結びつき、祝賀や祈祷の色が濃く、正月などに、神宮内に呼ばれ猿楽を奉納する。呪師(じゅし)は伊勢に三座ある。

拝田の歴史を思えば、大神様に猿楽を奉納する役割を、拝田が務めた話には頷ける。聞けば誇らしくも思うが、猫の言葉では、どうにもありがたみに欠ける。


(猿楽の翁は、言わば精霊の代表のようなもんだが、その昔は多くの精霊が、神々を慰撫して回った。拝田村が呪師を務めた頃は翁じゃなく、そこかしこにある(もの)……まだらが入り乱れて舞ったのさ。獣、木々、祖霊、まじもの……数え切れない雑たるものが混ざっては離れ、離れては混ざり合う)

 面は呪師の名残か。御師邸の神楽奉納の余興で、滑稽な踊りで人々を沸かせる演目には、面を付けた者が混ざり込む。見渡す面の中には、馴染みのものもいくつかある。

(あたしらは常に、まだらの者とある)

 つまり間の山の大事には、まだらも加えねばならんわけか。だが村長に猿の面は必要ない、と庄助は思う。


(じゃあ。母ちゃん、わては?)素の庄助は眉を潜め、母の扇が、容赦なく庄助の脳天を突いた。素間がいなくても、扇には要注意だ。

(母ちゃんじゃないっ。まだらの巫女様だっ!)母はあくまでも、巫女に拘る。

(お前はいいんだよっ)涙目の庄助に背を向ける母は、まだらとなっても、理解不能だ。


「既に承知の者もおろうが、美月が行方知れずとなった」


 痛みを堪える庄助に、村長の言葉が追い打ちを掛けた。がんがんと頭の中で鐘が響く。

「ふぅん、神隠しか」呟いた母に、「知っとったんかっ!」庄助は思わず声を上げた。

 一斉に向けられた白い面に射すくめられ、庄助は、すごすごと身を縮めた。

「巫女様が、ですか?」頓狂な声に、「童の神隠しも片付いとらんぞ」集会場がざわめき立った。

「玉家の騒ぎを聞いたからこそ。ささくそと、村外れに向かったお前が心配になったんだ」扇を開いた母が口早に言い、「巫女様の神隠しは確かで?」誰かが村長に問いかけた。

「今朝方、美月宛てに使者が来た」

 村長が懐から取り出した縮緬は艶やかな緋色。おもむろに開いた中に、光沢を放つ櫛。艶やかな文様が描かれている。

「櫛を贈るは不躾なれど。そなたの豊かな黒髪を、梳くには折れた櫛では不都合であろう。急ぎ設えさせたもの故、気に召すか否かはわからぬが。いずれまた、そなたの匂い立つ櫛巻姿を見たきもの。まずはこれにて辛抱されたし――」

 村長は、手にした上質の紙に目を落として読み上げる。「決まりだね」母は、嬉しそうに呟き、庄助は、がっくりと手を突いた。


「櫛を贈るほどの常連じゃ。頃合いを違えるような、無粋者ではなかろう」

 櫛の贈り物は求婚を意味するが、いずれ身分高き御仁ばかりの美月の客に、求婚はあり得ない。櫛を贈るは不躾なれどの断りは、気兼ねなく受け取って欲しいとの、気配りだろう。

 急ぎ設えさせたとは、多忙な美月が村にいる間に届くようにとの、配慮と思われる。つまり美月は本来、村にいるべきなのだ。

「あぁ、姫様にもしもがあれば――」おこんの悲痛な声に、「もしもなんかあるもんか」母はからり、と言い放つ。

「何やてっ」狐面が気色ばみ、「帰って来なきゃ良いのに」猫面が、扇をひらひらさせた。

「母ちゃんっ!」庄助が窘めて、「杉家のぼんは、神さんにも相手にされんわ」おこんは庄助に八つ当たる。

「何やとっ!」膝を立てた猫に、「さいそけない」狐がふんっ、と鼻を鳴らした。睨み合う狐と猫の間に、「あぁ、これこれ」と、猿が割って入った。

「いずれにしろ。主様がお怒りじゃ。これより間の山は物忌みに入る」

 深く響いた村長の声に、白い面が一斉に床に伏した。


 第四章  神隠しの行方

 

   (一)


 決着を見ぬ神隠しに太兵殺し、加えて美月が攫われたとあっては、じっとなぞしておれん。

「物忌みなんかしとれるかっ。拝田の大事やぞっ」乳母二人に訴える庄助に、

「摂関家と戦う、言うかいなっ」鼾を掻いていたおねうが飛び起き、「ぼんに、そない大層なことできますかいな」おこうはふん、と鼻で笑う。


「わては伊勢の若松様やぞ」いきり立った庄助に、おねうが目を輝かせた結果――。

 できれば着たくはない紫の君の衣装を纏った庄助を、「ほんま。ぼんは玉が無ければ杉家の宝や」と、余計な口を叩くおねうが酒樽に放り込んだ。拝田の物忌みは戒めが緩い。

 転がされて村を出た庄助は、ふらふらと回る頭を橋下で覚まし、ようやく辻に広げた筵の酒臭さに嫌気がさす。

吐きそうな胸焼けに、追い打ちを掛ける口には、できれば拳の一つでも喰らわせてやりたい。松右衛門は、誰にでも饒舌だ。

「世も末ですがな。間の山芸人が物忌みやなんて前代未聞。あんさん、どないかできへんか」

 胸焼けに追い打ちをかける、松右衛門の顔は見ず、あらぬ方を見るは盲目の辻占。庄助はじっと胸焼けが去るのを待つ。


「そらまぁ。常に穢れを引き受けてくれとんのですから。たまには、物忌みもしたいですやろ。けどね、ここは伊勢ですやん、大神様のお膝元。祓いがないと困るんですわ」

 捲し立てる松右衛門の言葉は、耳に痛い。

 拝田の巫女とは無縁の牛谷は、常と変わらず興行を続けているが、間の山の芸人の半数以上は、拝田が占めている。常の賑わしさに欠ける間の山は、参宮者の不満を買っているらしい。

「人手が足らんと、お呼ばれまで断られては……」

近々、大家の旦那衆を迎える予定の、春木家の主は、頭を抱えているらしい。

 松右衛門の苦悩は、伊勢中の御師の苦悩だろう。申し訳なく思いつつも、僅かに胸のすく思いもする。

(ちぃと、間の山の有り難さを、知ったらええんや)


「私はただの占い師です。今を変えることはできません」

 先だってのはなくそのお返しに、庄助は素気なく返して、路地の向こうに目を向ける。浦口大夫の屋敷に、人の出入りはない。


 新参者の浦口大夫だが、御師家である以上、宿泊客はあるはずだ。左平の話によれば手代の駒次郎は、近江の商人。御札配布は無理でも、客あしらいくらいはできるはずだ。

 御師邸は常に、客足が絶えない。伊勢講の客は常に入れ替わりだが、天候によっては、日程がずれる。加えて、大家の客は気まぐれで、御師邸の都合など、お構いなしに訪れる。故に御師邸は常に、空き部屋を確保せねばならん。

 散財が望めん客を、他家に振るのは当然で、お鉢が回るのは新参者。都合の良い客さばきは商人の常だ。

 近々、春木邸が、大家を迎える予定ならばなおのこと。他家はこぞって釣り糸を垂れているに、違いない。

 

○○家の○○様は近々、大人数で参宮をなされます――。


大家の檀那衆は見栄っ張り。お伊勢さんの放つ情報に、すぐさま食らいつく。御師邸は鯛を釣るため、小魚を放り出す。新参者の御師邸は、小魚で溢れかえっているはずだ。

既に小半刻ほど続く、松右衛門のおしゃべりの間、浦口家の門を潜った者はない。

(おかしないか)

眉を潜めた紫(庄)の(助)君に、「ほなら、あんさんはどない?」松右衛門はぐっと顔を寄せた。

「間の山で、興行しまへんか?」

 前代未聞の事態に、伊勢は大荒れ。このまま、拝田の物忌みが続けば、参宮者の不評を買う。

 宇治橋の網受け衆にも、元気がなく、拾い損ねた銭を狙って、乞食が集まり始めたと言う。

「ならばいっそ乞食らに、網受けを教えたらどないかと、言い出すもんもでとります。宮川には、お杉お玉のまがいもんもおりますよって……。そんでも華がありまへん。あんさんみたいな、別嬪がおってくれたら、客を引くのは、間違いなしや」

 とんでもない話になっている。

「大神様が、嘆かれます」見えぬ目を彷徨わせ、紫(庄)の(助)君は言葉を放った。

「そうですわな」しゅんと肩を落とした松右衛門が、頭を抱える。


「大方のもんは反対しとります。けど、背に腹は替えられんのです。どないしたらええんですやろ。拝田の物忌みは、いつまで続くんやろ」

それは、こっちが聞きたい。

 だが今は、神隠しの真相に迫ることが先決。松右衛門の愚痴に、付き合っている暇はない。

さっさと片付けようと、庄助は袂から取り出した包みに、手をかざした。

「占じてみましょう」


 野間家のお宝が拝借できん今、おねうが代用品として、庄助に手渡した品は、丁寧に布に包まれている。触れれば堅い丸い形は、台座に載った玉のようにも見える。

「山が視えます」目を閉じた紫(庄)の(助)君が呟けば、

「なるほど」と、松右衛門は、神妙な顔で頷いた。

「間の山でしょうか。黒く冷たい気に、包まれています」

「甲羅のような?」

 さすが噂の大元は、想像力が逞しい。さっさと、松右衛門を追い払いたい庄助は、すぐさま便乗する。

「甲羅に籠もった人々は、怯えています。しばらくは出てこぬでしょう」

「そうですやろか。儂にはそうは見えまへんが……」

 ふと、手に触れた何かに、庄助はそっと目を開けた。首を伸ばした亀が、庄助の手の動きに頭を振っている。

(何で、しおんさんがおるねん)


 雪婆の相方しおんさんは、雪婆の手の動きに合わせて踊る、間の山の人気者だった。ここ数年、滅多に、甲羅から顔を出さなくなったしおんさんは、隠居して、拝田の池の主となったと、聞いている。おねうは庄助に、亀甲占いをさせるつもりだったらしい。

(古すぎるやん、生きてるやん、焼き亀になるやん……)おねうは常に、意味不明だ。


「亀、出てまっせ。あんさん、儂をからかってます?」

 常に笑顔のお伊勢さんから、笑顔を取ればただの商人。商人は、騙されることを何より嫌う。

「占じを求めたのは、あなたです」嘘を吐くなら堂々と。素間の教えを、実践する。

「亀やないんですか?」目を剥く松右衛門に、「占じの玉です」庄助は、動じない。

 布を被せて腹を叩けば、しおんさんは首を引っ込める。幼い頃から馴染んだ、しおんさんとは、興行が打てるほど、親しい間柄だ。

「玉です」にっこりと笑って見せれば、松右衛門はあんぐりと、口を開けた。

「あなたに亀が、視えたのならば。いずれ吉が参りましょう。されど、余所者が亀を突けば、玉となって天に昇ります」

 ふわり、と投げた布に、松右衛門が目を向けた隙に、庄助は、しおんさんを袂に落とし込む。消えた亀に、松右衛門の目は飛び出んばかりだ。


「占はしまいです。案配よう、なされませ」手を合わせ頭を垂れた庄助に、丸い巨体が背を向けた。やれやれと、息を吐いた庄助に、

「お見事でした、間の山の庄助さん」笑いを含んだ声が、心ノ臓を掴んだ。


     (二)


 互いにあての外れた身。ならば今宵は二人で共に。夜遊びと洒落込もうじゃないか――。


 夜の帳が下りて後、一向に灯りのつかぬ浦口邸に見切りをつけ、庄助は、印地打ちの甘言に頷いた。

「浦口大夫は、夜逃げしたよ」

印地打ち、誠二郎の言葉は事実らしい。

「あんたを信用するわけやない」

「無理にとは言うとらん。やめるんやったら、今のうち。往生際の悪いのは嫌いなんだ」

 いったい、どんな魂胆がある――。

 一度口にして「別に」と、返された疑問を、胸の内で転がして、庄助は帯を解いた。はらり、と草の上に落ちた、重い着物に息を吐く。


「早うしてくれ。人が来る」

 浦口邸の裏手、材木屋の作業場には、既に人気はない。材木を隔てた向こうから、苛立った声が急かす。(わて。何しとんのやろ)

 何の因果で、庄助を狙った得体の知れん男と、仲良く夜遊びに興じないかん。

(素間が知ったら怒るぞ)

思いつつも他に手立てのない庄助は、大事な衣装をおがくずの中に隠した。

材木の隙間から男を見遣れば、油断なく辺りに気を配っている。ただ者ではない印地打ちは、相方にするには悪くない。初めての盗人まがいの行動は、一人では不安だ。


「誠二郎さん、あんた……」

 浦口邸に何の用があるかと、問う庄助の口が、塞がれた。すかさず、水桶の裏に引きずり込まれる。やはり騙されたかと、身を捩り、「静かに」耳許の声に目を向けた。

「わてをどないする気や」「どうもせん。国元の奉行辺りなら、食指を動かそうが」

くくくと、笑う誠二郎に怖気が走る。

「けど、おれはそもそも、武家と名乗るほどの家の出じゃない。そういった嗜みに、興味はない。女がいいな、女に囲まれた暮らしは、悪くなかったぞ」女好きは朗報だ。

「人の気配がする。忍び込む前に捕まれば、元も子もない。あんたが盗人だと知れたら、すぐに処刑だ。荒御魂の巫女様が泣くぜ」

 目を剥いた庄助に、草を踏む足音が近づいた。不本意にも、誠二郎に抱えられたまま、身を縮める。


「何だって、空き家の見回りなんや。夜逃げしたんやろ? 戻ってくるはずないわ」

 聞き覚えのある声は、牛谷の目付衆だ。

「なんや、怪しい男が彷徨いとる。ともすれば、浦口大夫に恨みあるもんかもしれん。火ぃでもつけられたら、かなわんと、金屋大夫んとこから、夜回りの要請があった。何せ裏手が材木屋やし、火事が起きたら大事や」

 提灯もなく、僅かな月明かりに、獣のような目が光る。庄助と同じく、夜目の利く間の山の住人相手では、闇は味方にはならん。難儀だなぁと、庄助は身構えた。


「何で、金屋大夫なんや。ここは浦口大夫の屋敷やろ」

「元々は、金屋大夫が次男の独り立ちのために、建てた屋敷や。けど、修行中の次男は、まだ若い。前金で半年分、しかも、言い値の倍で貸してくれ言われたら、金屋大夫に断る理由はないわな」景気のいい話だ。

「それが夜逃げかいな。新参者が、思ったより銭のかかるもてなしに、借金踏み倒して逃げたとか?」

「あほ、御師は商人やで。損するもてなしなんか、するかいな。豪勢な餌で釣っといて、それ以上の散財をさせるんが、お伊勢さんの腕のみせどころや。御師には、ようけ祝儀が入るで。伊勢で、御師に逆らう奴は生きてけん」

 目を剥いた誠二郎に、庄助は大きく頷いた。

「間の山は、御師の夜逃げどころやないんやがな。人手不足に、儂も明日は久々に軽業や。村長は山田奉行所に、目付衆の半減を申し入れたそうや。儂らぁは、芸に才がないから、奉行所に売られたようなもんやが、此度の事態には、神宮側も焦り気味。村長の提案には、後押しをするらしいで。お前も芸を磨いとけ」

 牛谷も、宮川の乞食導入には、反対らしい。

 すぐ前を行く足が止まって、庄助は息を呑んだ。


「見ろ、金魚がおる」

庄助の全身に泡立つ、鳥肌が、口を開けたまま止まった。水桶に金魚、水晶玉は亀。猫は不在でも、庄助の周りには助っ人が一杯だ。

「ほんまや、何や、そこらのと違うなぁ」

「大陸の珍種やろ。桧屋の主は金魚好き。こっそり珍種を密輸しとるとの、噂がある。もしや、と思うたんやが大当たり」

 大きな影が身を乗り出して、肝を潰す。目を向けられれば、見つかるだろう。だが男は金魚に夢中だ。

「くそっ、すばしっこい」舌打ちをして、「お前も手を貸せ」と、二人揃って金魚すくいを始めた。誠二郎に促され、すかさず背後の材木の山に、身を滑らせる。


「ともすれば。浦口大夫の、口利きかもしれんぞ。あいつには、良からぬ噂がたんとある」

 水桶に、手を突っ込んだ男の言葉に、庄助は耳を欹てた。

「京の和菓子屋の、五男坊やないんか?」

「此度の事態に、三方会合が問い合わせた結果、浦口大夫の身上書は全部、でたらめやとわかった。件の和菓子屋に男子はおらんのやと。一人娘が婿ぉとって店を継いどる」

「挨拶に来たんやろ? 身なりのいい商人は、いかにも京の町のお人らしいと……あ、逃げられた」小柄な男が、地団駄を踏んだ。

「差し詰め、仲間のもんだろうよ。人買いに絡んどるとの、噂もある」

 庄助の開けた口を、誠二郎が慌てて塞いだ。

「あいつは大悪党なんや」顔を顰めた誠二郎に、庄助は、抗議の目を向ける。

 お前も一味なんやろう――。

目で噛み付いた庄助に、頭をふった誠二郎が、金魚すくいの二人に目を向けた。


「此度の夜逃げを訴えた御師らは、新参者の浦口大夫に、便宜を図っておったらしい。何せ口の上手い男やから、なんやかやと、もてなし用に色んな品を借りだした。商人の中には、銭を貸したもんもおるようや。伊勢の商人は、御師様々やからな」

 新参者で、副業を持たん浦口大夫には、参宮者の土産品を、提供する店が必要だ。数ある土産物屋はこぞって、後々の売り上げを頭に描いただろう。旧家の御師邸は、老舗と組んでいる。小店や新店が、新たな御師邸に取り入ろうとするのは、伊勢の倣いだ。

「ほんで金屋大夫は、中間らぁが、屋敷を荒らす前に一度、屋敷内を見回ってくれと、奉行所に申し出たんや。役人が出張った屋敷には、さすがの中間らぁも、下手な手出しはしまい」

 主の命で、忍び込んだ破落戸上がりの中間らは、何をするかわからない。用心棒も兼ねる中間らは、気性も荒ければ節操もない。

人の出入りの多い伊勢に、犯罪は多い。常の盗賊の仕業と片付けられれば、損をみるのは、金屋大夫ばかりだ。


「駒次郎と安五郎は? 他家との付き合いが多かった二人や、主の夜逃げに、どこぞに隠れとるか。それとも手下やったとか?」

 使用人に、罪はなくとも。損をした者の怒りの矛先は、残った者に寄せられる。件の中間はともかく、左平の話によれば、駒次郎は浦口大夫に騙された不運な男だ。危険を感じて身を隠したとしても、不思議じゃない。

「さてそこや。お奉行に命じられた田辺様は、牛鬼親分を引き連れて、屋敷に入った。そこで、とんでもないもんを見つけたんや」「なんです?」

 目付衆二人は揃って、水桶から手を引いて顔を見合わせた。「血の跡や」おもむろに呟いた男に、庄助の息が止まる。ふぅ、と誠二郎が息を吐いた。

 

   (三)


「おれは、駒次郎から依頼を受けてね」


 腕を組んだ誠二郎から目を離さず、庄助は体ほぐしに余念がない。

 物忌みに入って早十日。村を抜け出す算段に明け暮れた庄助は、常の稽古を怠り、少々体がなまりがち。夜遊びの相方とした誠二郎だが、気を許したわけではない。

 金魚の捕り物を、明朝に延ばした目付衆の話から、浦口大夫の事情は、大方わかった。庄助に初耳の話は、誠二郎には、承知の事実だったらしい。


「用心棒となってくれと。おれもそろそろ、女の匂いに飽き飽きした頃合いでね。土産話に、御師邸の賑わいもまた一興かと、引き受けたはいいが――」

「相方の潜伏先じゃあ、都合が悪い」

 吐き捨てて、トンボを切った庄助は、身構える。

「相方か」

誠二郎が、組んだ腕を解いた。「今はあんたが相方だ」

頭を振って近づいた。

「やつらは仕事の度に、相方を替える」

「あんたも同じだ」

「よしてくれ。おれはあんな悪党やない。あんたの命を救ったろ?」

 天狗との一件では、庄助を助けたようにも見える誠二郎だが、天狗の知り合いに、油断は禁物だ。

「若いくせに、過ぎたことをぐだぐだと。互いに、この屋敷に用があるんや、しばし協力してもええやろう。あんたは、安五郎に用があった。安五郎が消えちまった今、手掛かりは、この屋敷しかない」

 庄助の口が、あんぐりと開いた。

「あんたの考えなんぞ、すぐわかる。余所もんで、がらが悪くて、間の山のお杉にも、平然とちょっかいを出す不躾者は、悪党に違いない。一緒にいた印地打ちは仲間だ。二人はきっと、大悪党――と。えらい偏見やな、余所もんのおかげで、飯ぃ食うとるにしちゃあ、つれなくないか。おれは、童殺しに関わっちゃおらん。そもそも、子供好きなんや」

 悪党は口達者。おまけに、詮索好きときた。


「何で、わての身辺を嗅ぎ回る」

「先に嗅ぎ回ったのは、そっちだ」

「関わったのは、そっちが先や」

「餓鬼の喧嘩か?」やれやれと、誠二郎は額に手を置いた。

「子供は素直に、大人に従うべきや」

「わては、子供やない」庄助はムキになる。

「あんたの目的は何や。駒次郎も、姿を消したんや、今さら用心棒もないやろ」

 ははぁと、頤を撫でた誠二郎は、「おれがあんたを、殺るとでも?」くくく、と笑った。実に不愉快だ。

「図星か。あんた、もうちぃと大人か思うたが。まぁええ、浦口大夫の正体は、五郎左ゆう山賊の頭や」

「あんた、山賊かっ」

「阿呆。おれは悪党やないて。子供やないんやったら、人の話は黙って聞け」

 睨んだ誠二郎に、庄助は口を尖らせた。


あちこちに、伝を持つ大悪党五郎左は、悪事を働く準備は周到だ。夜逃げはきっと、予期せぬ事態が起きたから。

「慌てて逃げたはええが、後のことは気に掛かる。悪党も、大が付けば慎重や。きれいさっぱり足跡を消そう思うたら……火ぃつけるんが早いわな」誠二郎が、したり顔で笑う。

 火付けの噂も怪しい男も。役人の気を引くための誠二郎の策か。役人の目があれば、大悪党も火付けはできん。ならば屋敷に忍び込み、今一度、忘れ物の確認を……。

 庄助は目を剥いた。

「やりあうつもりか?」

「まさか。おれは用心棒や。駒次郎の身を守るんが仕事。けど、当人がおらんでは守りようがない。駒次郎は、五郎左を甘く見過ぎとったようや。依頼を受けた翌日、浦口大夫の夜逃げが、古市で話題となった」

 御師の夜逃げなら、松右衛門の口を介さずとも、広まる。

「五日程前やな。あんたの噂は色々と耳にしとったが、派手な興行で、無事は知っとった。で、あんたを訪ねたんやが、物忌みとやらで村に籠もっとるという。あんたが、浦口大夫の夜逃げを知らんで当然や」

 庄助が村を抜け出す方法を画策する間に、安五郎は、まんまと逃亡したわけか。実に腹立たしい。


「安五郎は、五郎左とぐるなんか」

「さぁ。二人の関係は知らん。おれが組んだのは、安五郎だけや。やつの潜伏先になど、興味はない。顔も知らん浦口大夫の正体は、鈴屋の遊女、あかねから聞いた。駒次郎におれを斡旋したんはあかねや。二人は幼馴染みらしい」

 親の借金のかたに、女衒の手に渡ったあかねは、そもそも、近江商人の娘だった。遊郭を転々として古市に辿り着き、客引き中に、客の送迎をする幼馴染みと再会した。

「あかねは、借金取りの男の顔を覚えとった。それが幼馴染みと一緒におるんや、目を疑ったやろ」


 羽振りのいい店を潰して、他家から報酬を受ける。あくどい商売をする男は、悪党に顔の利く山賊の頭――。


女衒に聞かされた話は、あかねの胸に深い傷として残っていた。

 さすがに、浦口大夫に懸念を抱いていた駒次郎は、主の正体が山賊と知って、肝を潰した。浦口大夫は新参者として、先達の御師邸を回り、邸内の様子を、事細かに調べ上げていた。

 両替屋に出向くのは、内儀か殿原か。支払いの金はどこに保管するか。主の居住棟が手薄になる時間帯、ひいては、居住棟の見取り図――。

 浦口大夫の目的を知って、駒次郎は震え上がった。このままでは、自分も山賊の仲間入りだ。

「写しをとっておいでよ――。さすがに遊女は、したたかやな。あかねには、魂胆があったらしい」

 他家の見取り図を持つ浦口大夫には、三方会合が疑いの目を向ける。再び、浦口大夫の素性を調べれば、出鱈目が発覚する。役人が出張れば、五郎左も不都合というわけか。

「主の正体を知って、駒次郎も気が気やない。用心棒も欲しくなろうってもんや」


 ところがいざ、駒次郎のいる御師邸に出向いてみれば、意外な男がいる。

 悪党二人が雁首揃えれば、何かあるには違いない。だが、互いの事情には、首を突っ込まぬが約束だ。別件とは言え、かつての相方の潜伏先に乗り込めば、何用かと誰何される。

「殺られるわけには、いかんのでね」

 さてどうするかと思案中、浦口大夫が夜逃げした。何とも間抜けな話さと、誠二郎は肩を竦めた。


「駒次郎が写し取った品を、取って来てくれとあかねに泣きつかれたんや。二人は恋仲だったかな」

 駒次郎を取り戻したい、あかねの想いはわかるが……。

「浦口大夫の面を捨てた五郎左は、ただの悪党や。悪事を仄めかす証拠なんぞ、屁でもないやろ。それに、駒次郎はもう――」

 生きてはいまい。屋敷に残った血の跡……大悪党は、尻尾切りが得意だ。

「ま、もたもたした、おれにも負い目があってね。寝覚めが悪いからせめて、それくらいの願いは叶えてやろうってわけだ。な、おれっていい奴だろう」


 誠二郎の話を鵜呑みにはできんが。浦口邸は探る価値がある。

 太兵殺しは、摂関家の差し金。八瀨童子が式部側にあるとすれば、式部の動向を探る摂関家が、間諜を雇うは当然だ。左平ですら読めぬ、得体の知れん安五郎は、間諜にぴったりだ。

 加えて、浦口大夫は人買いと絡んでいると、目付衆は睨んでいる。御師邸に身を潜めた、安五郎の今一つの仕事が、神隠しだった可能性は十分だ。広大な邸の中、童を隠す場所はいくらでもある。

 慌ただしく夜逃げした浦口大夫に、子供を連れて行く余裕があったか。一度、役人は踏み込んだものの、大々的な捜索はされていない。

(可能性はまだあるんや)庄助は、自身に言い聞かせた。


「どや? いけそうか」

誠二郎が見上げた築地塀は、庄助より長身の誠二郎ならば、手を伸ばせば届きそうだが、月明かりに、剣呑な突起が見て取れる。御師邸の守備の堅さは、既に承知。庄助はにっ、と笑った。

「間の山一の若衆を、舐めたらいかん。それよりあんたの腕力、信じてええんやろな」

「もちろん。相方を信じてくれ」

 腰を落とした誠二郎が、膝の上で両手を組んだ。

 

     (四)


 難なく飛び越えた築地塀は当然として、頼みの柿の木は予想外。掴んだ拍子にぽきっ、と折れた不運はやむを得んが、受け身を取って転がった先に、誰が大釜を置き忘れたか。

 したたかに打った腰が、眠りを邪魔されて抗議を始め、「おい、まだか」と、非情な相方は容赦ない。やむなく這って、庄助は裏門を開けた。

 御師邸の構造は複雑だ。羽振りが良いと評判の、御師邸を狙う、不届き者は多い。

「図面は、頭に入っとんやろうな」腹立ち紛れの庄助に「あんた、ほんまの盗人か」誠二郎は、素っ気ない。

「おれは盗人やないぞ」と、豪語する誠二郎の目的は、駒次郎の写し。人様の屋敷の物を持ち出す者こそ盗人だ、との、意識はないらしい。

 闇雲に歩き回ったとて、駒次郎の部屋を突き止めるなど不可能だ。家人の居住棟は、各々の邸で構造が違う。案内なしでは迷子になると、松右衛門は言う。呆れた庄助にお構いなく、誠二郎は、くんくんと鼻を鳴らす。


「駒次郎は、夜ごとの怪しげな気配に怯えて、おれに用心棒を依頼したんや」

 深夜、廊下を渡る様々な足音に、女の忍び笑い……。

化け物屋敷かと、庄助は震え上がった。

「あんたの用は、中間長屋やろ? のんびりはしておれんで」

 化け物と聞けば、庄助の腰は引けるばかりだ。広大な闇に包まれる御師邸は、化け物の宴会にはもってこいに見える。

「何や、怖いんか」くくく、と笑った誠二郎に、庄助は虚勢を張った。

「あんたは、安五郎の相方やった。今はわての相方や言うが、同時に、五郎左の相方かもしれん」

「そら、面白い」

背で笑った誠二郎は、迷いなく闇を行く。闇よりも濃く漂う刺激臭に、庄助は顔を顰めた。


「借金の形に、浦口邸で働かされた駒次郎は、殿原とは名ばかり。下女が使うような、厠の真向かいに部屋を貰っとった。だから、深夜の宴会に気がついたんや。浦口邸は賊の塒となっとった」

誠二郎が立ち止まった先、生い茂った草木に覆われた戸袋が、黒くせり出している。すぐ前に、小さな石臼が、ちろちろと水を滴らせていた。

「いつ誰が来るかわからん厠の前では、こっそりと、部屋を出るのも憚られる。写しは、駒次郎の部屋にあるはずや。写しさえ手に入れば、わての用事は終わり。一夜限りの相方とは、用が済めば赤の他人」

 腰に手を遣った誠二郎に、庄助は飛び退いた。きやっ、ときた腰に、顔を歪める。得物を手にした誠二郎が、振りかぶった。

 がつっ――。

 飛び散った破片が、草木を揺らした。

  

   *


(金屋家は、お呼ばれの上得意や)


 破れた雨戸に息を吐き、庄助は、指先に触れた挿し棒を引き抜いた。

 押し入れの奥、古びた行李の蓋を手にした誠二郎は、

「やれやれ。こんであかねへの義理が立つ」

 貼られた写しをはぎ取って、にっと笑う。

「駒次郎は、悪党の仲間やなかった。とりあえず、あかねはそんで満足やろ」

なるほど。あかねは駒次郎を試したらしい。

偶然、再会した幼馴染みは、己を嵌めた男と連んでいる。ともすれば、この幼馴染みは、はなから己を、誑かすつもりだったか、と。


二人は恋仲だったかな――。


写しを取った、駒次郎の疑いは晴れた。駒次郎は死んだが、あかねの恋は死なずに済んだ。いずれすかんぴんの駒次郎に、遊女を身請けするほどの器量は、ない。古市の遊女ならば、欠落ちなど、叶わぬ夢とはなから承知だ。

「成仏したってや。あんたの身に起きた不運はこの、間の山の庄助が、あかねに伝えてくれるで」

合掌した誠二郎に「わてかいっ」と、歯を剥いた庄助だが、誠二郎が手燭で舐めた床には、胸が痛む。

床一面に、おびただしい染みを作った当人の、無念を思って手を合わせた。

「人の命は、儚いもんやな……」

 しみじみと呟いた、誠二郎の言葉が胸を射る。ぐっ、と口を噛んだ庄助に、誠二郎は手燭を吹き消した。


「すまん。あんたの弟分も、殺されたんやったな」気を遣ったらしい。

「童を殺るなんて、最低や」憎々しげな口調の誠二郎は、真の子供好きか。

 だが、「安五郎を殺ったかて、神隠しの子ぉは帰らんで」誠二郎はさらり、と吐き捨てる。

「安五郎を、庇うつもりかっ」

 振り上げた庄助の手を、誠二郎が掴んだ。

「くわばらくわばら」

誠二郎がねじり上げた庄助の手から、得物が滑り落ちる。

「物騒なもん、持っとんな」

床に突き立った、竹の小刀を拾い上げ、誠二郎が息を吐いた。


 宇治山田の三方会合も、奉行所も当てにはできん間の山芸人は、芸の中に、自衛の技を仕込む。古から、竹と縁深い間の山の芸人は、竹細工の品を組み込んだ芸を多く持つ。

 軽業を披露しながら、鋭利に研いだ竹を的に当てる興行は、枕返しに次ぐ、庄助の十八番だ。素間の荒行に鍛えられた庄助の腕は、村長の次席に着く手練れ。間の山一の若衆は、ただの人気者では、務まらん。


「今一度言う。おれは悪党やない。ついでに、悪党に利用されるほど、お人良しでもない」

 誠二郎は庄助の手に、得物を返した。

「おれはあんたの敵やない。おれたちは相方や。そろそろわかってくれんか?」

 庄助に背を合わせた誠二郎には、今のところ殺意のない相手に、無駄を使うなと、腰が訴える。

「おれが言いたいのは、安五郎なんぞ、相手にするだけ無駄や、言うこっちゃ」

「泣き寝入りしろ、言うんか」

「頭冷やせや。短慮功を成さずやで。何でまた、安五郎が芸人の童に、手を下したかは知らんが、安五郎なら、躊躇いなく童を殺る。けど、五郎左と組んで、伊勢に腰を据えるつもりの安五郎が、安易に騒ぎの元を作るとは思えん。そこらに、何ぞあると思わんか?」

もっともらしいことを言う。だが、それは口先だけ。

 手燭の明かりに慣れた目が、じわじわと闇を吸い始める。互いに一夜の相方は、忍び込んだ屋敷で一服するほど、親しくはない。闇に目を慣らしているのだ。油断はならん。

「安五郎を動かした奴がいる。仇を討つなら、そっちやろ」


 そんなことは、百も承知。だが、庄助一人では、摂関家なぞ相手にできるはずもなく、近づく手立てすらない。今の庄助には安五郎しか、手がかりがないのだ。加えて浦口大夫に人買いの疑いがあれば、安五郎が間の山の神隠しに、関わっている可能性は高い。美月を攫った犯人は、安五郎かもしれんと思えば、腸が煮えくりかえる庄助だ。

「安五郎は、得体の知れん化け物や。下手に首を突っ込むと、あんたも童の二の舞やで。死んだもんは戻らんが、童を取り戻す手立ては、どこぞにあるかもしれん」

 聞いた風な口を叩く誠二郎に、庄助の怒りが爆発した。


「そう簡単にいくかっ! 相手は摂関家やでっ」飛び出した言葉に、慌てて口を塞いだ。

「はぁ?」庄助の背で、間抜けな声が上がる。

「摂関家て、えらいもん敵に回しとんなぁ。あんた摂関家って、何か知っとる?」

誠二郎の呆れた物言いについ、ムキになった。

「知っとるわっ。将軍家に媚びる、帝の見張り役やっ」

「なるほど。読めた。竹内式部やな」

 ぽんっ、と膝を叩いた誠二郎に、短慮功を成さずを思い知った。


「式部さんが、伊勢におられるいう噂は耳にしとったが。あんたの弟分は、討幕派かいな」

 七つの童に、倒幕も何もない。

「安五郎は摂関家の犬やったか。大神様のお膝元も騒がしい」

 騒ぎの元は常に、お前ら余所者だ、神域を穢す悪党には、大神様の大罰が当たるぞと、捲し立てる庄助に、

「伊勢は、垂加神道の信者が多い土地や。まさか神職らが、ご公儀に反旗を翻すとは思わんが、摂関家に犬がおる以上、式部側にも犬はおるはずや」

腕を組む誠二郎は、聞いちゃない。

「蜂起の前に潰された、前回の失態を思えば当然、摂関家の犬に、刺客を送ろうなぁ。不幸な駒次郎は、知らず不運の渦中にいたわけだ」

 挙げ句に殺された駒次郎は、不幸の塊のような男だ。

「何や、えらい屋敷に忍び込んでもうたなぁ」

のんびり言ってぴたり、と背を付けた誠二郎に、庄助は息を呑んだ。闇に慣れた目が、近づく影を見て取った。式部の犬の登場か。


「あんたは倒幕派? それとも事なき派?」

早口に訊ねた誠二郎が、懐に手を入れた。

「わては間の山の芸人や。天皇家にも、将軍家にも、興味はない」

 吐き捨てた庄助に、誠二郎が声を上げた。

「だとよ。どうする、安さん」

 背に当てられた冷たい感触に、庄助は己の甘さを思い知った。


悪党、安五郎の登場で、様々な悪事が絡み合った神隠しの真相が浮上します。次回も来訪、お待ちしております。

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