雑学百夜 忘れメモ
メモとはラテン語の『L.menini』(記憶している)が語源である。
何もかも上手くいっているはずだった。
たった一つのミスで私は全てを失ってしまった。
私は社運を賭けた一大プロジェクトを任されていた。
取引先のK社の担当者とは時間を掛けてじっくりと関係を作り交渉もいよいよ大詰めという段階だったのに私はほんの些細な約束を忘れてしまいそれがきっかけで交渉は決裂してしまった。
私はひどく落ち込んだ。
だが元々無理難題とされていた取引だっただけに充分に良くやってくれたと同情してくれる者もいた。
「誰だって忘れることはある。気にしなくてもいいよ」
だがそんな慰めは何一つ響かない。幼い頃から忘れ物だけにはずっと気をつけてきていた私だったのにどうしてこんな大事な場面で……
気付けばその失敗の事ばかり考えるようになってしまい仕事もプライベートも上手くいかなくなった。上司からは失敗のことよりも寧ろその後の仕事ぶりについて注意されることが多くなった。長年付き合っていた彼女の春菜には一緒にいてもあなた楽しくなさそうだからとフラれてしまった。
どうして……どうして……
いっそ忘れてしまった事がきっかけのその失敗そのものを忘れてしまいたい。
気付けば夜も眠れない日々が続いていた。
そんなある日、会社からの帰り道で一人の変わった男と出会った。
「ハーイ! アナタトッテモコマッテマスネー!」
片言で話すいかにも怪しい外国人。新手の客引きだろうと無視して歩き続けようとしたがその外国人は私の行く手を遮るように立ち塞がった。
「ハジメマシテ。ワタシハ、アルベルト、ト、モウシマス」
「おい。邪魔だ。退いてくれ」
「アナタ、ワスレタイコト、アリマスネー!! ソノネガイ、カナエテ、シンゼマース」
忘れたいこと? こいつ、なんで?
思わず顔を見ると、アルベルトと名乗るその外国人は意味ありげにウインクをして見せた後、胸元から一冊のメモ帳を取り出した。
「コレハ、ワスレメモ、トイウモノデース。コレニカイタコトハナンデモキレイサッパリワスレルコトデキマース! スゴーイ!! コレハスゴク、イイモノデース!! ホシイデショー? アゲマスヨー?」
そう言ってアルベルトは無理やり私の服のポケットにそのメモ帳を詰め込んできた。
「おい! 止めろ!」
「オー、シンジテナインデスネ? ソレナラシカタアリマセン。タメシニ、ツカッテミマスカ」
そう言ってアルベルトはボールペンを取り出しメモ帳と一緒に渡してきた。
「イイデスカ? ワタシノカオヲ、オモイウカベナガラ、アルベルト、ト、ソノメモニカイテミテクダサーイ!」
まるで状況は飲み込めなかったが、アルベルトの妙な押しの強さに流され私は思わずその場で手帳に『アルベルト』とメモをした。
だが特に何も変わらない。
そんな状況に目の前の外国人はただニヤニヤと笑っている。
「ドウデス? スゴイデショー?」
そんな胸を張られても何が凄いのか分からない。
「ホラ、ワタシノ、ナマエ、オモイダセマスカー?」
外国人が指差す『アルベルト』と書かれたページを見るが、なるほど確かにさっぱり思い出せない。小学校の頃の校歌の2番くらい思い出せない。
アルベルトと自分で書いたのは覚えているが、それが目の前の外国人とは全く繋がらない。
「コレガ、ワスレメモノチカラデース!! ワスレタイコトハ、ゼンブ、ゼンブ、コノメモニカイテシマエバイインデース!」
そう言って外国人は高らかに笑った。
家に帰った私は例のメモ帳をテーブルの上に広げる。
忘れたいことを書き込めば、その事を綺麗さっぱり忘れる事ができる。にわかには信じ難い。そもそも覚えておく為のメモに書いたら忘れるというのも不思議な話だ。
だが確かにあの外国人の名前を思い出せないのは事実だ。確かに何か名乗っていたような気はするが、どう足掻いても記憶の片隅にすらその名前は残ってはいない。
あまりに悩み過ぎて私はとうとう頭がおかしくなってしまったのかもしれない。
それならそれでもういい。
いっそとことんまでおかしくなってしまえばいい。
半ばヤケクソで私はペンを取り出すと、 忘れメモに『K社との取引が失敗した理由』と書き込んだ。
依然として何も変わらない。
ただ目の前にはメモ帳があるだけ。
『K社との取引が失敗した理由』と書いたページをジッと見つめる。
そんな事聞かれても何のことだかさっぱり思い出せない。どじょう内閣で話題になったあの総理大臣のフルネームくらい思い出せない。
K社との取引の責任者は私で、その取引が失敗したことは覚えている。ただその理由と言われても何が何だか分からない。
元々無理のあるプロジェクトだったのだ。周りからは良くやった方だと褒められてすらいるではないか。
ふと時計を見ればもうすっかり夜も遅い。仕事に備え今日はもう寝てしまおう。
風呂を済ませた私は早々に床につく。
その夜、私はここ最近の中で一番深く眠る事ができた。
その日から私は変わった。
周りからも何だか明るくなったと評判も上々だ。
それもこれも全て忘れメモのおかげだ。
仕事で犯してしまったつまらないミス、別れてしまった恋人との胸が張り裂けそうな思い出、それら全て忘れメモに書き込むようにしたのだ。
辛い記憶なんて覚えておくだけ無駄だということにやっと気付けた。
嫌なことはすべからく全て忘れた。マルモリダンスの振り付けくらい綺麗さっぱり忘れてしまった。
仕事もプライベートもすっかり充実し、もう忘れメモ無しでは生きていけないほどだった。
忘れてしまいたいことから遠く離れて、私の人生はこれからもっと上手くいく……はずだった。
「君、この前もこのミス注意したよね? 何で同じミス繰り返すわけ?」
上司に呼び出され注意された。
エクセルのデータ入力がズレていたらしい。つまらないミスだ。怒られるのも無理はない。
だが「繰り返す」というところが引っかかる。このミスは初めてなのだ。
「いや、不満そうな顔してるけどさ。君、こうやって怒られるのもう四度目だよ? 確かにどうとでもフォローできるミスだし目くじら立てようとは思わないんだけどさ、だからって流石にこう何度も繰り返されるとはっきり言って腹は立つよね」
上司は大袈裟にため息をついた後、メガネの奥から私のことをジッと睨んできた。
『ねぇ、元気?』
夜、そんなLINEが春菜と名乗る知らない女性から送られてきた。
迷惑メールの類いだろうか? ただ不思議なのはその女性とは過去に大量のトーク履歴があるのだ。
『明日は10時にそっちに迎えにいくよ』『ねぇ、ここ行ってみたい〜』『おぉ〜美味しそうやなぁ〜行こ行こ〜』『やった! ありがとう! 会えるの楽しみにしてるね〜!!!!』『こちらこそ笑 ほんまに楽しみやなぁ』……
まるで覚えのない他愛もないやり取りの数々。後半になるに従ってそんなやり取りは段々と言い合いが多くなり、最後の最後は57分の通話履歴で終わっていた。
忘れてしまいたかった事がここに詰まっていたのかもしれない。
何があったのか知りたくてもまるで思い出せない。
ふと、忘れメモを手繰ると最初の方のページに『春菜との全て』と殴り書きされていた。
よっぽど嫌な事があったのだろうか。私はこの春菜と呼ばれる女性のことを忘れたいほど嫌っていたのだろうか?
だがトーク画面に時々貼られたその女性とのツーショット写真のそのどれもが、私もそして彼女も幸せそうな笑顔を浮かべていた。
私は大きな間違いをしていたのかもしれない。
忘れてしまいたいことは星の数ほどあっても、忘れてしまって良いことなんてただの一つも無かったのかもしれない。
記憶も思い出もそれがどんなものであれ、それらは全てかけがえのない財産であり宝物だった。
ミスをして怒られた記憶も覚えていればもう二度と同じミスをしないための貴重な指針となる。
別れた彼女との思い出だって、いつか必ずやってくる笑顔で思い出せるその日まで大切に胸の奥に閉まっておけばよかったのだ。
なのに私はそれらを全て忘れてしまった。失ってしまった。
何を失ってしまったのかも分からない喪失感が胸に降り積もる。
もう二度と忘れてはいけない。
そう誓った私だったが、どうやらこのメモに頼り切りの生活の中ですっかり弱くなってしまったらしい。
嫌なことを覚えておく事が出来なくなってしまった。
思い出す度に自責感に押し潰されてしまいそうになる。思い出す度に孤独感に苛まされてしまう。
その度、私はついつい忘れメモに手を伸ばしてしまう。ダメだと分かっているのについ書き込み、そして忘れてしまう。
忘れメモ、これは手を出してはいけないものだったのだ。逃れようのないほどに私はすっかり忘れるという事にハマってしまっていた。
誰にも相談できない。そもそもこんなメモのことを誰が信じてくれようといいのだろう。
独り悩んでいた私は一つの結論に辿り着いた。
忘れメモの存在そのものを忘れてしまおう。最後の最後までメモに頼り切りというのも情けない話だがこれももう仕方がないことなのだ。
ある日、私はペンを手に取り一思いに、忘れメモに「忘れメモの全て」と書き込んだ。
これで何か変わったのだろうか。目の前のメモに書かれた文字を私はジッと見つめていた。
その時、電話が鳴った。
通知画面に表示されていたのはついこの前取引が中止になってしまったはずのK社の担当者だった。
「どうもお疲れ様です。K社の工藤です。今お電話大丈夫でしたか?」
「お疲れ様です。いやっ、それは全然……どうかされましたか?」
「いや実はですね、この前一度破談になった取引の件なのですが、もし良かったらもう一度御社とお話しさせて頂きたくですね……」
まさかの話に思わず声が上ずる。
「えっ!! 本当ですか?」
「えぇ、まぁ振り返ってみれば宮本さん、あなたには大変誠実に対応して頂いておりましたし、たった一度のミスで全て無しというのもどうなんだ? と社長も考え直したみたいでですね」
「……ミス? あぁでもそれは本当にありがたいです!! ぜひもう1度チャンスを頂けませんか?」
「ははは、それはもう是非。流石に2度目は無いので気を付けて下さいね。えーっとじゃあ早速はじめたいのですがメモの用意は大丈夫ですか?」
「はいっ! ちょっ、ちょっとお待ちを!」
私は目の前にあったメモ帳に手を伸ばした。
雑学に因んだ物語を書いています。
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