6月の約束
「降らないかなぁ」
小さな女の子のしーちゃんは窓を開けて空を見上げました。家の中に吹き込む風はピリピリと突き刺すような冷たさで頬に当たります。
「しーちゃん、何を見ているの?」
ママが窓の外を眺めているしーちゃんを見つけて言いました。
「雪が降るのを待っているの。雪遊びなら1人でも楽しいもん」
そう言ったしーちゃんは少し寂しそうでした。昨日お友達とケンカをしたしーちゃんは幼稚園をお休みしたのです。ママはしーちゃんの肩にストールをかけてやさしく微笑みました。
「そうねぇ、今年はとても寒いのにまだ雪が一度も降っていないものね。もしかしたら雲の上では誰が雪の子になるかまだ相談しているのかも」
「え? 雪の子? 雪の子って誰なの?」
しーちゃんは目を輝かせてママを見ました。
「雪の子は天使様に選ばれた雨粒だけがなれるのよ」
「雨粒って雨のこと?」
「ええ、雲の上にはたくさんの雨粒たちがいてね、みんなおしゃれをして地上に降りてくるの。その中でも真っ白な美しい衣装をきた子たちが雪の子よ。冬になるとたくさんの雨粒たちの中から誰がその衣装を着るのか相談するのよ」
「そうなのね、雪は人気だからなかなか決まらないのかな。私、雪の子に会ってみたい」
「そうね、しーちゃんならきっと仲良しになれると思うわ」
空は今にも雪が降り出しそうに厚く暗い雲がモクモクとしていました。
その頃、雲の上ではママの言った通り雨粒たちが寄せ集まって相談をしていました。一際元気な雨粒がピョーンと飛び跳ねます。
「イヤだい! 俺は6月の嵐の子になるんだ!」
駄々をこねる雨粒に天気の番人である天使様が困り顔を浮かべます。
「困りましたね。秋に降った子たちがまだ帰ってきていないので雪になる子が足りないんですよ」
「そんなの早く帰ってこいって呼びにいけばいいだろ」
「それはできませんよ。一度地上に降りた雨粒は太陽の子たちに導かれるのが決まりなのですから」
「俺だって6月の雨になるって決まっていたんだっ。雪の子になるなんてまっぴらごめんだね!」
雨粒は雪になどなるものかと逃げ回ります。
「どうしてそんなに6月の雨になりたいのですか?」
雨粒はよく聞いてくれたと言わんばかりに飛び跳ねました。
「6月ってのは嵐が多いからザーッと勢いよく地上に降りるだろ! そのスリルがたまらないんだ! そして何より風になびく水色のマントが最高にかっこいい! ひらひらふりふりの雪なんかとは大違いさ! 秋に降った奴らは6月の嵐を狙っているから、わざと遅く帰ろうとしているんだ」
天使様は頬に手を当てて考え込んでいましたがポンと何か閃いたようでした。
「今雪になれば春には溶けてすぐにまた戻って来られますよ。そうすれば6月の雨にも間に合います。もしあなたが雪になってくれるのなら6月に一番に降る雨にしてあげると約束しましょう」
その言葉で雨粒の子の気持ちが揺れました。
「6月に一番に降る雨だって?」
雨粒は水色のマントをたなびかせながら誰よりも早く滑り降りる自分の姿を想像してニヤリとしました。
「絶対に約束だぞ」
「ええ、約束です」
天使様はにっこりと微笑みました。そうして元気な雨粒は美しい雪の衣装に腕を通しました。やっと全員揃った雪の子たちはきれいな列を作って雲の端に並びます。
「さぁ、いってらっしゃい。雪の子たち」
天使様の掛け声と共に雪の子たちが舞い降りていきます。雪の子たちはふわふわゆらゆらとゆっくり落ちていきました。しかし6月の雨になりたい雪の子だけは可愛らしい衣装もふわふわした雪の子たちも気に入りませんでした。
「俺は先に行くぜ。そしてまたすぐ雲の上に戻ってこんな服脱いでやるんだ」
そうして雪の子たちの輪から一粒だけ飛び出していきました。
しーちゃんはまだ窓の外を見上げていました。今にも何か降り出しそうなその雲に不安がよぎります。
「雪じゃなくて雨だったら嫌だなぁ」
その時、灰色の雲の中に白いものがチラリと光りました。
「雪だ!」
しーちゃんは慌てて外に出て白い小さな粒を追いました。その粒はまるで雨粒のように真っ直ぐしーちゃんの元に降りてきます。それはよく見ると美しい白い衣装を着た小さな男の子でした。しーちゃんはドキドキしながら自分の体温で溶かさないようにママがかけてくれたストールで男の子を受け止めました。
「あなた雪の子ね、とってもきれい」
「きれいだなんて嬉しくないね! それに俺は雪の子じゃなくて雨粒さ!」
「でも白い衣装を着ているのは雪の子なんでしょ?」
「俺はな、雪じゃなくて雨になりたかったんだっ。だから誰が何と言おうと雨粒なんだよ」
男の子が不機嫌そうに言ったのでしーちゃんは驚いてしまいました。
「雨になりたいなんておかしなことを言うのね。私は雨なんて嫌いよ。雨が降ると暗い気持ちになるもの」
「おかしなことを言っているのはそっちだ。雨は最高だぜ。シューっと勢いよく空を落ちれば暗い気持ちだって吹っ飛んでいくさ」
「そうなの?」
「そうさ!」
雪の子がしーちゃんとは逆のことを自信満々に言うので、しーちゃんはもっとこの子のことが知りたくなりました。
「あなたの名前は何て言うの?」
「俺に名前なんてないぜ。俺は雨粒だっ」
どう見ても雪の子なのに雨粒なんて、しーちゃんはちぐはぐな気がしました。
「じゃあ私が名前をつけてあげる。レインなんてどうかな?」
「レイン?」
「外国の言葉で雨っていう意味なの。何だかかっこいいでしょ」
男の子はキョトンとした顔をしていましたがすぐにニカッと笑いました。
「レイン! 気に入ったぜ」
二人がおしゃべりしている間に雪はどんどんと降り積もって辺りは真っ白になっていました。
「ねぇ、レイン! 一緒に遊ぼう!」
しーちゃんとレインは雪遊びを始めました。しーちゃんは雪を集めて赤い実と細長い葉っぱをつけました。
「なんだこれは?」
「これはね雪うさぎ。かわいいでしょ」
レインはうさぎを見たことがありませんでした。いつも雨になって滑り落ちた後は地上のことなど見向きもせずにすぐに雲の上へと帰ってしまっていたからです。しーちゃんはレインのために次から次へと雪で色々なものを作りました。雪だるまや車、犬や猫、レインはその全部に大興奮でした。
「はぁー」
しーちゃんは真っ赤に冷たくなった指に息を吹きかけました。
その時、カチャン窓が開く音がしてママが顔を出しました。
「しーちゃん、もう中に入りなさい。風邪をひいたら明日も幼稚園に行けなくなっちゃうわよ」
ママの言葉で楽しそうだったしーちゃんの顔は暗い顔になってしまいました。
「幼稚園行けなくてもいいもん」
しーちゃんはママに聞こえないように小さな声で言いました。
「お前、しーちゃんって名前なのか?」
レインがしーちゃんに聞きました。
「私は雫って言うの。でもこんな名前イヤなの」
「お前、自分の名前が嫌いなのか?」
「うん、だって雫って水の粒のことでしょ。昨日、幼稚園の窓に水がたくさんついていたの。そしたら隣の席のハルくんが窓についた水が雫だって、雑巾を絞った時にこぼれた水も雫だって笑ったの。それを聞いた他のみんなもわらってた。それが嫌で今日は幼稚園をお休みしたの。でも明日行けばきっとまた笑われちゃう」
レインは雪うさぎの背にちょこんと乗って首を傾げました。
「やっぱり人間ってのはおかしなことを言う奴ばかりなんだな。水の粒なら雨粒だって雫だろ。俺と一緒じゃないか」
「レインと一緒?」
「ああ、俺と一緒なんだからいい名前に決まっているだろ。自信持てよ」
レインの一言はしーちゃんの暗い気持ちを吹き飛ばしました。レインと一緒だと思うと何だか自分の名前が素敵に思えてきたのです。
「レインって小さいのにすごいね!」
「小さいのには余計だろ」
レインはフンっと鼻を鳴らしました。
「しーちゃん、ほら家に入りなさい」
しーちゃんがなかなか家に入ってこないのでママがしーちゃんを迎えに来ました。
「ママ、あのね」
「まぁ、しーちゃん、一人でたくさん作ったのね」
ママはしーちゃんが雪で作ったものを見て言いました。ママにはレインが見えていないようでした。しーちゃんはレインのことを誰かに教えるのはもったいない気がして秘密にすることにしました。
「ママ、私ね、明日は幼稚園に行く」
「きっと明日はお友達と雪遊びが出来るわね」
ママがにっこり笑いました。
「うん」
そう元気よく答えましたがしーちゃんが雪遊びをしたいのは幼稚園のお友達ではなく新しいお友達でした。次の日、しーちゃんは幼稚園から帰ってくるとすぐに庭へ出て日が暮れるまでレインと遊びました。二人で雪だるまを作ったりバケツに張った氷ごしに変な顔対決をしてみたり時間はあっという間に過ぎていきました。帰り際にしーちゃんが振り返りました。
「また明日、約束ね」
「おうよ」
それからというもの、そのやりとりが2人の決まり事になっていました。
ある時、2人の様子を見ていた他の雪の子がレインに言いました。
「ねぇ、あなた人間とはあまり仲良くしない方が良いと思うわ」
レインはムッとしてくちびるを尖らせました。
「なんでそんなこと言うんだよ」
「だって必ずお別れがあるのよ」
「またすぐに降りてくればいいだけじゃないか」
小さい声でそう言って下を向いたレインに雪の子が首を横に振ります。
「雲の上にはたくさんの雨粒がいるのよ。そんなすぐに降りられないと思うわ」
そんなことはレインだってわかっています。雪の子は「それに……」と話を続けました。
「春が来て雪がとけてもあの子はあなたのことを信じていられるかしら。人間はすぐに私たちのことを忘れて幻だと思うようになるわ。私たちを見ることが出来るのは心から私たちを信じてくれる人間だけなのよ」
レインは不安になりました。しーちゃんのことを疑っているわけではありません。でもレインには自信がありませんでした。毎日、しーちゃんは色々な話をレインにしました。幼稚園のお友達や先生のこと、新しく覚えた歌のこと、食べられるようになったピーマンのこと。何の変化もなく、しーちゃんの家の庭をふわふわしているだけのレインにとって、しーちゃんの毎日は宝石が溢れ出る宝箱のようでした。
「ーーそれでね、今日はハルくんにかけっこで勝てたの」
しーちゃんがお話ししている間、レインは雪うさぎの上で上の空でした。しーちゃんがぼーっとしているレインを覗きこみました。
「レインどうしたの? 元気ないみたい」
レインははっとしてふんっとふんぞり返りました。
「何言ってんだ! 俺は元気いっぱいさ!」
「それならよかった」
安心するしーちゃんを見てレインがぽりぽりと頬をかきます。
「あのさ……」
「なぁに?」
レインは言いづらそうにしながら雪うさぎの背を撫でます。その姿を見てしーちゃんは何か思いついたようでした。
「わかった! 雪うさぎもう一つ作って欲しいんでしょう? ひとりきりじゃ寂しいもんね」
そう言ってしーちゃんが無邪気に笑うのでレインは笑ってしまいました。
「ああ、当たりだよ」
しーちゃんは早速足元の雪を集めるとぎゅぎゅっと固めてうさぎの形をつくりました。レインはふわりと草の上に降り立って尖った細長い葉を2枚摘みます。それを身体につけて赤い実で目をつけるとあっという間に雪うさぎが完成しました。しーちゃんはその雪うさぎを、前に作った雪うさぎの隣に置きます。
「お友達ができてうれしそうだね」
「そうだな」
しーちゃんが満足そうに笑います。レインはその笑顔をずっと見ていたいなぁと思いました。だから本当に言いたかったことは言うのをやめてしまいました。
『もし俺が雲の上に戻っても俺のことを忘れないで』
レインは心の中でそう願いました。
どんなに冬が楽しくても冬の後には必ず春がやってきます。そして2人が遊ぶ庭に春がそこまでやってきていました。積もった雪の間からは黄緑色の若葉が見え始めています。太陽がぽかぽかと暖かく輝く日には光の子たちが雪の子たちを迎えに来ました。光の子が穏やかな微笑みを浮かべながらレインに手を差し伸べましたがレインは腕を組んで出しませんでした。
「約束があるからまだ戻らない」
レインはそう言って差し伸べられた手を断り続けました。
「また明日、約束ね」
ある日のこと、いつものようにしーちゃんが言うとレインは「おうよ」とは言いませんでした。庭の雪はもうほとんど溶けて残りはわずかになっていました。2人が作った2羽の雪うさぎももう溶けてありません。でもしーちゃんはそれに気付いてもいませんでした。小さなしーちゃんの心は毎日少しづつ成長し、彼女の大事なものは日々、移り変わっていきます。それはレインもわかっていたことでした。
「雫」
レインはしーちゃんの名前を呼びました。ちょっぴりえらそうなレインはいつもしーちゃんのことを「お前」と呼んでいました。そのレインが初めて名前を呼んだのでしーちゃんは頬を赤く染めました。
「また遊ぼうな、約束だぞ」
そう言ってレインは笑いました。
「うん!」
手を振りながら笑顔で家に戻っていくしーちゃんをレインはいつまでも見ていました。
次の日のこと、その日は朝からよく晴れてぽかぽかと暖かでした。光の子がまだ残っていた雪の子たちを雲の上へと導きます。そしてとうとう最後の一粒になったレインを光の子が迎えにきました。
「さぁあなたで最後ですよ」
それでもレインはやはり腕を組んで光の子の手を取ろうとはしませんでした。しかし今日ばかりは光の子も引き下がりません。
「このまま雲の上に帰らなければあなたは消えてしまいます。そうなっては本当にもう2度と約束を守ることはできませんよ」
レインは自分の姿が消えかけていることに気づきました。白い美しい衣装は溶け、元の雨粒に戻っていました。
「あなたの役目は終わりました。あなたはもう雪の子ではないのですよ。さぁ、行きましょう。あなたのことを天使様が待っていますよ」
レインは黙ったまま光の子に手を伸ばしました。
家に帰るとすぐに庭に行こうとしたしーちゃんをママが引き止めました。
「しーちゃん、雨が降っているから外で遊ぶのはやめなさい」
「えー! 太陽が出てるから平気だもん」
しーちゃんはママの言うことなどお構いなしに外に飛び出してしまいました。
「もう、しーちゃんたら……それにしてもお天気雨なんて雲の上に帰りたくない雪の子が泣いているのかしら」
ママが窓の外を見ながらつぶやきました。
「レイン遊ぼう!」
しーちゃんが大きな声で呼びましたが返事はありません。いつもならすぐに現れるのにレインの小さな姿はみえませんでした。
「レイン?」
しーちゃんはレインを庭中探しました。どこを探してもレインはいません。見つけたのは細長い葉っぱと赤い実だけでした。しーちゃんはもう一度庭を見渡しました。庭に雪はもう一粒もありません。そのかわりに太陽の光が雨粒に反射して若葉がキラキラと輝いていました。
それから月日は流れ6月になりました。嵐の訪れと共に暑い夏が始まります。少しだけ髪の伸びたしーちゃんは庭に出て空を見上げていました。空はどんよりと曇って強い風も吹いています。
「今にも嵐が来そうだって言うのに雫は何だか嬉しそうだね」
窓の外を見ながらパパが不思議そうにしーちゃんを見ていました。
「大切なお友達との約束があるそうよ」
「こんな天気の悪い日にかい?」
パパは驚いて目をパチクリとしました。
「あの子にとっては待ち望んだ日なのよ」
ママはくすくす笑いながら言いました。
どんよりとした黒い雲の中で小さな光がきらりと輝きました。光はしーちゃん目掛けて勢いよく落ちてきます。しーちゃんは空から落ちてきた初めの一粒をその手で受け止めました。しーちゃんはその一粒をこぼさないよう大事に両手で包み込みます。
「レイン、おかえり」
そう言って手を開くとそこには水色のマントをつけた小さな男の子の姿がありました。
「俺のことなんて忘れたかって思ったぜ」
レインは嬉しいのを隠すように悪ぶって言いました。
「忘れるわけないよ。だって約束したもん」
そして、しーちゃんの顔から眩しいほどの笑顔がこぼれました。
お読み頂きありがとうございます。
気分が乗ってしまってその後の話をピュアキュンテイストで妄想してしまったので、そのうちアップするかもしれません。→その後のお話書けました! ご興味がありましたら続編もお楽しみください*