第一章 第五話
明くる日の朝早く。
真琴が目を覚ますと、すぐ隣の布団の中から春がこちらを見ていた。
目が合うと、少しだけ困ったように笑う。
「おはよう。早いね、春」
「……おはよう。よく眠れた?」
「うん、すごく眠れた。最近、全然眠れてなかったのにね」
「それだけ辛かったんだよ。ここはお社じゃない。鍵をかけて閉じ込めるような人間もいないから、安心して」
頷いて、真琴は起き上がった。
障子の向こうから、柔らかな日差しが入り込んでいる。
その光は目に映るものをきらきらと輝かせているようで、真琴は無性に嬉しくなった。
春の言う通り、逃げている最中とはいえ自分は安心しているのかもしれない。
「夏野さんは?」
「……隣の部屋で寝てたけど、さっき出て行った。その辺にいるだろうし気にすること無いよ……って、ちょっと真琴!」
照賢が貸してくれた羽織を纏い、襖に手をかける。
真琴に渡せる着物がないか、今日にでも照賢が村の皆に聞いてくれるらしい。
とりあえず今はこれで十分だ。
「私、ちょっと見てくるね」
「どうして? 放っておきなよ。何故、そんなにあいつのこと気にするの?」
「…………」
「真琴」
強めに春に呼ばれて、真琴は瞬きを一つした。
「分からない。……でも、何だか呼ばれてる気がするの」
そう言って廊下に足を踏み出すと、背後から怒ったような声が追いかけてきた。
「真琴は真白じゃないだろう? これは意地悪で言ってるんじゃない、事実だよ。呼ばれてる気がするなんてあり得ない」
「……うん、そうだよね。でも、それでも行ってみたいんだ。すぐ戻るから、春はここにいて」
真琴が出て行った部屋。
一人残された春は、膝を抱えて座り込んでいた。
やがて、そっと両の掌を広げて見つめる。
照賢の推測は正しい。
社を出たことによって、自分の力は徐々に失われている。
これは神に替わって社を守るという自分の責を放棄した罰。
そして、真白の願いを聞き入れなかった罰だ。
このままではいずれ全ての力を失うだろう。
その時どうなるのかは、春自身にも分からなかった。
自分の存在ごと、消えてしまうのかもしれない。
それでも真琴の傍にいることを選んだのは-。
「会いたいんだ……寂しいよ、真白」
消え入りそうな声でそう呟くと、もう一度強く膝を抱えた。
***
廊下の先で照賢を見つけた真琴は、近寄って頭を下げた。
「おはようございます、照賢様」
「おはようございます。その様子だとよく眠れたようですね」
「はい、とっても。本当にありがとうございました。……あの、夏野さんをご覧になりましたか」
「外に出ていると思いますよ。多分裏庭の辺りかと。何か用事でも?」
覗き込むような照賢の視線に両手を振る。
「いえ、違うんです。でも、夏野さんにもお礼をいいたくて。よく眠れたお礼と、こちらまで連れて来てもらったお礼を」
「なるほど、それはぜひお願いします。真琴さんから言えば、彼も素直に聞いてくれるかもしれませんからね」
「どういうことですか?」
不思議そうな顔で尋ねる真琴に、照賢は苦笑交じりに答えた。
「夏野さんは困ったことに、他人には人一倍優しくできるのに、自分のこととなると人一倍優しくできない人なんです。……本来、人は自分を大事に出来てこそ初めて他人にも優しく出来るものです。ですが彼は自分への思いがとても薄い。だから自分に対する好意や善意をなかなか素直に受け入れられない。まあ、表向きは調子の良いことを言ってごまかしていますけれどね。……でもそれでは彼自身が可哀そうだと思いませんか?」
「……夏野さんは、初めからずっと優しい人でした」
自分が質問ばかりした時も、春が随分失礼なことを言った時も。
夏野はいつも笑って応じてくれた。
とても優しくて、頼りになる人だと思う。
けれど、その時々で感じたはずの負の感情を、夏野は一体どこに飲み込んでしまったのだろうか。
笑顔の奥で、無理をさせてしまったのではないだろうか。
考えた末に真琴がそう言うと、照賢は笑顔のまま頷いた。
笑ってはいるが、その目は真剣だった。
「私は夏野という人間を尊敬しているし好ましく思っていますが、この点だけはとても心配です。自分自身に無理を強い続ければ、いつか耐え切れなくなる日が来るかもしれない。そうなる前に気づいて欲しいのです……自分自身の大切さにね」
「照賢様……」
この村は安全だ、と。
そう夏野が言っていた意味が分かった気がした。
照賢は人の上辺だけでなく、本質を捉えることが出来るのだと思う。
夏野だけではなく、この村の皆のことも、きっとしっかり見つめて、導いてくれるのだろう。
真白のように人の域を超えた力ではなくとも、こうやって人々を守ることは出来る。
村を出なければ、きっと、ずっと気づけなかったはずの事実だ。
「だからね、真琴さんからしっかり伝えてあげてください。さすがの夏野さんも人の子です。可愛いお嬢さんの言うことなら、私が言うより響くと思いますからね」
「……っ!」
照賢の目に少しいたずらめいた光が混じる。
一瞬言葉に詰まった真琴は、耳まで赤くした後、礼儀正しくお辞儀をした。
「う、上手くできるか分かりませんけど、やってみます!」
「真琴さんなら大丈夫ですよ。ではよろしく頼みますね」
「はい!」
照賢に送り出され、真琴は表に出た。
早朝のため、澄んだ空気が格別に心地良く感じられる。
裏庭に向かって歩き、ふと視線を先にやれば、確かに夏野の姿が見える。
空を見上げるその様子につられて顔を上げると、上空に一羽の鷹がいた。
何をするのかと思っていると、夏野はおもむろに片腕を空に突き出した。
すると間もなく、その腕目掛けて鷹が降りてきたではないか。
驚く真琴の視線の先で、夏野は鷹の足に結ばれた紙を取り外しすぐさま広げた。
恐らく手紙の類だろう。それに視線を巡らせると、次に別の紙を鷹の足に括り付けた。
随分慣れているのか、その間鷹は大人しく黙ったまま。
そして用が済んだのか、夏野が懐から取り出した餌を食べると大空へ飛びあがって消えて行った。
「すごい……」
その声に振り向いた夏野だが、既に真琴に気付いていたらしく、その表情は変わらない。
「俺の仲間はこの手のことが得意でね。……隠密って、分かるかな?」
「いいえ」
「俺達はこうして情報のやり取りをする。情報っていうのは色々な国の、他国には知られたくない秘密の部分だ。それを盗み出して自分の主に渡す。それが隠密の……俺の仕事だ。威張れた仕事でも無いが、ひとまず俺はこれで生かされてる。隠してた訳じゃ無いんだが、結局言う場が無くて無駄に心配させたな。春にも怒られたよ。すまなかった」
「いいえ。私、羨ましいです。私も鷹と仲良くしたいし、色んな国を回ってみたい」
その返答が面白かったのか、夏野は笑った。
「怖がるかと思ったが、真琴は案外怖いもの知らずだな。あの鷹にはまたすぐ会えるから、その時は真琴にも挨拶させよう」
「本当ですか? ありがとうございます」
「どういたしまして。……それにしても顔色が昨日と全然違うな。元気になったようでよかったよ」
「おかげさまで、とてもよく眠れました。あの……私、夏野さんに助けていただいて本当に助かりました。この村に連れてきてもらえたから照賢様にも会えたし、知らなかった事も沢山分かりました。これまできちんとお礼を言えてなくて、すみません」
「よせよせ、俺はまだ何もしてない。これから力になろうとは思ってるんだが、こちらの事情もあって中々すぐにとは行かなくてな」
おどけたように肩をすくめてみせる夏野に、真琴も笑った。
不思議と夏野と話していると心が温かくなる気がする。
もっと話していたい、そんな思いが強くなるのは何故だろう。
「構いません。私達は助けていただいてる立場ですから」
「そういってもらえると助かる。でも、こうしてる間にも真白が遠ざかってる可能性があるからな」
もう少し手がかりが欲しい、と夏野は思う。
僅かでも情報があれば、それなりに伝手を頼って調べることはできるだろう。
実際に真白に何があったのかは今も分からないままだが、真琴や春から聞く限り余り楽観はできない気がしている。
消息がつかめたとしても、果たして無事でいるのかもしくは-。
口には出さないものの、そんな最悪の想像が何度も頭を過っていた。
二人のためにも、早めに手立てを講じなければ。
「なあ、何かもう少し真白のことで思いつくことが」
無いのか、そう聞こうとして真琴に視線を向けた。
だが、真琴の表情を見た夏野はその言葉を飲み込み、代わりの言葉をかける。
「……どうした?」
真琴は動きを止め、目を丸くして夏野を見つめていた。
「私……」
「……?」
「私……夏野さんにどこかで、お会いしてませんか」
これには夏野も驚いた。
「いや、それは無いよ。俺もそれなりに歳はとったが、さすがに一度会った人間のことは忘れない」
このように風変りな娘であれば尚更である。
絶対に会ったことは無いと断言できる。
しかし真琴は夏野をみつめたまま動かない。
いや、実際には動けなかったのだ。
心の奥が、不意に熱く苦しくなった。
いつからかと考えれば、それは夏野に名を呼ばれた時のような気がする。
真白、と-。
「真琴?」
その一言で我に返る。
一体今、何を考えていたのだろうか。
春にも言われたばかりだ、自分は真白じゃない-真琴だ。
「平気、です。……すみません」
「そうか? ならいいが。飯の匂いがしてきたな、中に入ろうか」
どこかぼんやりとした表情で頷く真琴に、夏野は僅かに眉をよせた。