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Answer

作者: 綾織今様

地球より一回り小さなとある星は、隣接する異世界の住人から〈狭間の界〉と呼ばれている。

表面積のほぼ半分を水で覆われたこの星の住人は約20億人。野生動物たちの生きる環境とは完全に分

離され、機械化された文明とそれ以外の地域との差は実に明白である。

もとは〈金の界〉〈銀の界〉とともに至高の存在に統治されていたとはいえ、今はその名残はひとかけらもな

く・・・精霊・妖精・魔法といった類のものは、消滅してしまった世界。

ただひとつだけ、人々の遺伝子に組み込まれている記憶は「この世界を平穏に保つこと」。

故に、いかに科学力が発達しようとも、誰もこの星の外には興味を示さない。広い空の向こうには何がある

のかと、そこへ行ってみたいとは、考えもしない。

そんな閉鎖された世界の、ある若者たちの物語。



講義の終了を告げるチャイムが建物内に鳴り響いた。

個人用ブースの端末から己の生体情報を抹消し、電源が落ちるのを確認すると、男性は3方を可視パネル

で仕切られたドアのないブースを出た。

50のブースが設けられた教室は一気に和んだ空気に包まれる。

「あの教授、サボりすぎだろ〜」

男子生徒たちの苦笑が聞こえ、たった今荷物を脇に立ち上がった青年も思わず頷いてしまう。

サボるといっても授業が休講になるわけではなく、教授の出張先の講演の録画再生。しかもそれをレポート

にまとめろときたものだ。

高い授業料払っていてこれでは、皆から苦情が出るのも当然というものだ。

はぁ、とひとつ溜息をついて、青年が艶やかな黒髪を乱暴にかき上げたとき、不意にその腕にぶら下がる

勢いで後ろに引かれ、青年はバランスを崩して足踏みした。

「ちょっと、ロル!ほんとなの?」

振り返らなくとも分かる、青年のガールフレンドの声だった。

「シンディ、せめてラリーにしてくれないかな」

黒髪の青年は、落とさないように手荷物を抱えなおしながら彼女に相対した。赤毛に近いくせのあるブロン

ドをきっちりと結い上げた小柄な女性が、青い瞳を半眼にして彼を見上げている。どうでも話をきかなくては

というものか、腕は両手でしっかりと握り締めたまま離してくれそうにない。

青年もシンディと呼ばれた女性も大学の3年生。学生とはいえ二十歳を過ぎたれっきとした大人である。ロ

ルという子供っぽい愛称で呼ばれるのは流石に恥ずかしいのだろう。

「なによ、なんならローリーって呼んでもいいのよ?」

シンディは嫌味ったらしく微笑むと、青年が逃げないと確信したのかようやく手を離し、ショルダーバッグの

中から極薄のオーガニックパネルで出来た30cm四方のデジタルペーパーを取り出した。

「で、これ!ほんとなの!?」

ずいっと青年の目の高さに掲げられたパネルにはよくあるゴシップ記事がでかでかと映し出されていた。

曰く『イーストエンドのIT王子ローレンス・シュバルツ、セントラルに編入か!?』と。

そこには件の黒髪の青年の隠し撮り写真も大きく写っていた。

漆黒の艶やかな髪は普段はラフにたらしてあるが、フロントとサイドを撫で付けて整えてタキシードを着た

姿は高貴なオーラに包まれており、紫がかった黒い瞳は、何処か遠くを見つめていた。

「ははは、こないだの学園祭の写真じゃないか」

のほほんと笑うローレンス青年に業を煮やし、シンディは「笑ってる場合じゃなーい!」と声を荒げる。

今のやり取りの間に大半の学生は退出していたが、残っていた者達が何事かと注目した。

大学生ともなれば、同じ講義を取っていても面識のない場合も多く、卒業するまで一度も顔を合わせないこ

ともざらにある。そんな中でもローレンスの名前は知らぬものがいないほどの、彼は有名人であった。

ただし、家業の手伝いで忙しいらしく、授業以外で彼に絡みにくいため友人は少ない。それでも、その美貌

と来る者拒まずの態度のためガールフレンドは途切れたことがなく、大抵は複数の女性が周りにいたりして、

男子学生たちの嫉妬の的・・・になりそうなものだが、意外と敵も少ないらしい。掴みにくい青年なのである。

「んー。書いてあることは本当だよ」

ざっと目を通して、ローレンスはようやく答えた。

「それにしてもシンディ、こんなゴシップ雑誌購読してたの?どうせお金払うならもっと有益な情報にしなよ」

「失礼ね、ちゃんとした経済雑誌ですよーだ。それにちゃんと有益な情報が提供されてるじゃないのっ」

軽口にきちんと応酬しながらも、シンディの瞳が不安げに揺れていた。デジタルペーパーをバッグにしまい、

再びローレンスの腕を握る。

「編入って、何で今頃・・・?」

「だって、ここの教師陣、最近たるんでるよ。ちっとも勉強になりゃしない。丁度来期から、セントラルで電子

工学の権威の教授が客演するんだよ。それ受けに行きたいからさ」

ふるふると落胆したように首を振るローレンスに同調するかのように、室内の生徒たちも頷いた。皆聞き耳

頭巾である。

「授業なんて、その講義だけ通信してもらったらいいじゃないの」

客演講師ならば、普通は大学外からの一般聴講生も歓迎するものだ。それを自宅のコンピューターで聴講

すればとシンディは問うた。

「ところがこの教授、学生にしか聴講の権利を与えないんだって。しかも録画もなし。1回ごとに生の講演し

か認めないって・・・今時お堅いスタンスなんだよ。まぁそこが気に入っているんだけどね」

ちょっと遠くを見る目になったローレンスの心は、既にセントラルに飛んでいるのだろう。期待に満ちた眼差

しは彼の魅力を倍増させる。それでも、彼の眼差しを自分に繋ぎ止めて置くべく、シンディは必死に食い下

がった。

「でもっ、お父さんの仕事の手伝いはどうするのよ?実質半分くらいはロルが動かしているんでしょ、会社」

連邦の管理体制のうち、機械に任せられるものは機械に任せ、その統制はセントラル地下深くにあるマザ

ーコンピューターが行っている。今市場に出回っている家庭用・企業用のコンピューターのICは、ローレンス

の父親の会社が開発しているのだ。彼はその巨大企業、シルバー・シュバルツ・コーポレーション(略して

SSCと呼ばれる)の跡取り息子であり、株主でもある。

「半分だなんて、大袈裟だなあ。僕はちょろっと手伝っているだけで、趣味の範囲内だよ。それこそ、何処に

住んでいても開発くらい出来るし」

さらっと流されてしまい、シンディの大きな瞳は更に潤んだ。遠巻きにやり取りを眺めている級友たちは「似

たような光景、よく見かけるなぁ」と彼女に同情していた。

そう、いつもいつでも、女性たちは勝手に青年に接近し、それなりに相手をしてくれるために勘違いをして、

最後にはこれまた勝手に怒って離れていくのである。彼が男性にもあまり嫌われない理由の一つであった

りするのだが、傍目にはやはり女性をとっかえひっかえしているようにしか見えないだろう。

いつか殺傷事件になるぞ、とまことしやかに囁かれてもいたりする。

「それより、早く行かないと食堂しまっちゃうよ」

頓着なく別の話題にされて、それでも「待ってよ」と縋れるほどシンディはしぶとくなかったらしい。力が抜け

た手をそっとはがすと、ローレンスは念の為尋ねてみる。

「一緒に食べる?」

今度は彼女の方がふるふると、弱々しく首を振った。

「・・・いい。私、午後は授業ないし、もう帰る」

「そう。じゃあまたね。今期はまだ1ヶ月あるし、また一緒にランチでも」

ひらひらと手を振って出て行く青年を見送ってから、ようやく流れ始めた涙が頬を伝って床にパタパタと落ち

た。

「なによ、ちっとも別れを惜しんでくれないし、記事になる前に教えてもくれなかったし、なんなのよぉ・・・!

私・・・」

なんでもなかったってことだね、と。声には出さずに出刃亀たちは呟いた。



小春日和の朝だった。綺麗に澄み渡った青空には、山際に僅かな雲が覗くのみで、他には何も光をさえぎ

るものはない。

セントラルと呼ばれる居住区一帯は、基本的に3階建て以上の高層建築は認められておらず、自然環境7

に対して人工物3となるように絶妙に建物が配置されている。マーケットと呼ばれるショッピングモール地区

は地上部分は1階、そして地下は3階まで。その下の階層が利用できるのは、連邦政府管理下の施設のみ

と規定されているのだった。

お陰で、肉眼で見える範囲にはまことにのどかな地域となっている。

「うぉーい、おーきてーるかー!」

10軒ほどの一般的な住宅が隣接する一角で、制服姿の男子が怒鳴っていた。グレーのジャケットとパンツ

姿でネクタイはなく、チャイナカラーに似た襟元を緩めてその下のボタンも半分は外したまま。

脇に抱えたヘルメットには、校章らしき一角獣を模したエンブレムが描かれていて、彼が跨ったままのバイ

クはタイヤではなくリニアとジェット推進で浮遊し進むタイプのものである。もっとも、安全上の理由から、こ

の世界ではタイヤを備えた乗り物は廃止されており、居住区内のみの移動には乗車人数に合わせたさま

ざまな形のリニアモーターカーが利用され、遠方には居住区の端から世界各地に繋がっている空中のパイ

プの中から、定期的に超高速リニアが発着しているのだ。

少年が乗っているのはその中の二人乗りの跨るタイプのものであり、スポーツの一環として娯楽施設でレ

ースを楽しむことも出来る車種であった。

少年の視線は、一戸建ての2階の窓に注がれていて、一拍置いて玄関がバタンと開き、少女がまろび出て

きた。

「おはよー!待たせた?」

腰まで伸びた紅茶色の髪は、先っちょがあちこちにはね、寝坊したことが一目瞭然である。

「約束の時間には外に出てろって言っただろ。お前夜更かししすぎ!何やってんだ、部活もサボって」

少女より薄く赤みがかった茶−−−雅にいうなら香色だろう−−−色のストレートの髪は、なんだか適当に

切られているみたいで、これもあちこちはねている・・・ように見える。が、これは少年のファッションらしく、年

寄りにどういわれようときちんと撫で付けるのも揃えるのもよしとしていないようだ。

元々つり気味の橡色の瞳を更に吊り上げて少女を睨み据えた。

「う。遊んでるわけじゃないもんね。あたしだって色々と忙しいんだいっ」

少女は唇を尖らせながらも、ごめんごめんと謝罪の言葉を口にしながら、自分のヘルメットをかぶって少年

の後ろに跨った。

「ほらほら、遅れるから早く行こうよ」

「誰のせいだと思ってるんだよ」

少年は仏頂面で自分もヘルメットをかぶると、グリップを握りギアをローに入れて発進した。

たちまち、家々が流れるように二人の後ろに消えていく。二人が通っている学園までは、バイクでほぼ15分。

まあ大した距離ではないが、歩いて通える距離ではなく、普段少女は自分のリニアカーで通っていた。但し

タイヤのない一人乗りの軽自動車が自動運転で通学路を進むようになっており、全く面白みはない。その

ため、今日のようにたまーにだが、近所に住む同級生に同乗させてもらっているのだ。

「久し振りにスティールと登校するような気がする」

ヘルメットの通信機器が、少年の声を拾い正確に後ろの少女に伝えてきた。

「そうだねー。なんかバタバタしちゃってて、頼むの忘れてたよ」

スティールもヘルメット越しに返答する。

「で、何やってんだ?毎日毎日遅くまで」

「ちょっと・・・捜しもの、かな。砂漠の砂の中から宝石を探してる感じ」

はぁ、と溜息。これも正確に伝わって。

「はあぁ!?」

運転席の少年は、驚いたもののすぐに真面目な表情に戻った。

「なんなら俺も手伝うぜ?何捜してるんだ?」

「ごめん、これはあたしにしか出来ないことなんだ。写真とか、ないし・・・姿も変わっているかもしれない

し・・・」

「ふうん?」

なんだか大事なものらしいが、話してくれないなら仕方ない。一抹の寂しさも感じながら、話題を変えた。

「そういや、おまえんとこの鳥、あれつがいなんだろ?卵産んだら分けてくれよ。あ、勿論卵をじゃなくて雛

が大きくなったらだぜ?」

この世界にはペットショップのような店は存在せず、特別に理由がない限り野生動物の捕獲も禁じられてい

る。個人がペットを得る手段は、つてとかこねとかレトロな手段のみ。金銭の絡む取引自体が禁止されてい

るのだ。

スティールは、ひく、と頬を引きつらせた。


リルとジルファさんが・・・つがい!!


この場にリルフィがいたら目玉を突かれかねない。大惨事勃発だ。

ジルファの方は大喜びで「いいこと言ったな、少年!気に入ったぞ」とでも言いそうだが。

「えーと、多分すぐには無理・・・リルが逃げてるから。あはは」

乾いた笑いを漏らし、少年は残念そうだった。

「二羽とも大きくて綺麗だし、人の言葉聞き分けてるみたいだし、絶対可愛いのになぁ。早く仲良くなってくれ

ねーかな?シャールいなくなって寂しいけど、賑やかしくて良かったよな」

大きな白い犬が突然消えたことについては、元の飼い主が見つかり、そちらに引き取られたと伝えてある。

10年も経って引き取るも何もないだろう、と少年や他の友人は怒っていたが、仕方ないことなんだよと無理

に納得させた。自然環境の豊かな未開の地だから、なかなか見つからなかったんだよと。

心配し慰めてくれているのが判るので、スティールはギュッとその背中を抱きしめた。

「ありがとう、スティング」

「お、おう」

精悍に日焼けした少年の頬が赤くなったことは、背中越しには伝わらない。それでも少年は、誤魔化すか

のようについ口を滑らせてしまった。

「なんか、前に乗せた時より、胸が大きくなったような・・・」

独り言に近かったのだが、これまた機械は正確だった。

「スティングのスケベーっっ!!」

後ろで叫びながらも、少女は腕を緩めるわけにはいかず。ましてや運転の邪魔をして二人で転ぶわけにも

いかず。

ヘルメットの外にも漏れるような声で口喧嘩しながら、二人の乗ったバイクは校門をくぐった。



スティールたちの通う学園は、初等部から大学部までの一貫教育である。もっとも、セントラルの大半の学

校がそうであり、それぞれの校風を全面的に押し出して卒業までバックアップし、生徒たちを囲い込もうとし

ている。

よって人数は結構多いものの、初等部入学の5歳から共に学んでいれば、必然的に全員の名前と顔くらい

は一致するのも当然で、その中でも特にスティールが親しくしているのが、幼馴染みのスティング・レスター

と、住居の区割りは違うが中等部から編入してきたサンドラ・シンフォニー、ビクトリア・オースの女子2名だ

った。

スティール自身があまり周りに同調しないというか、天然にゴーイングマイウェイなので、キャピキャピとし

た普通の女子の会話についていけず・・・テレビなどの娯楽情報にも疎いため、意外に女友達は少なかった

りするのだ。

そんな彼女だが、実に女の子らしいクラブ活動をしていた。


「む。綺麗に膨らんだと思ったのに、オーブンから出した途端にペシャンコになっちゃったぁ!」

姉さんかむりの手拭いに白い割烹着。格好だけは家庭的な様子で、手元の鉄板を見つめる少女。

お世辞にもシューとは呼べない物体が、その上に整然と並んでいる。

「あはー。まぁシュークリームは大抵シューで失敗するのよ、どんまいどんまい」

同じ調理台でカスタードクリームを作っていたサンドラが、慰めるように声を掛けた。

彼女の前には綺麗にふっくらと膨らんだシューが並んでおり、これからナイフを入れてクリームをつめるとこ

ろだ。

スティールは恨めしそうに自分のシューを見つめ、盛大な溜息をつく。

「私ってば、本当にお菓子作りに向いていないかも」

「菓子も、の間違いだろ」

調理室のドアが開き、廊下側から突込みが入る。

「そろそろ出来上がるかなーと思って切り上げてきたけど、今日も失敗かよ」

にやにやと意地の悪い笑みを浮かべて入ってきたのはスティングだった。

「も、とは何よ失礼ね!」

鉄板を調理台に置くスティール。

「先週はグラタン作ろうとしてカレーになってたじゃん」

そう、火加減を間違えてホワイトのつもりがブラウンソースになってしまったのだ。

「くっ、そんな昔の話・・・っ」

「昔じゃねーだろ!」

くううと悔しさを堪えながら、手元のナイフを握り締めるスティールを見て、スティングはさりげなくサンドラの

背後に行きその肩に手を置いた。

「うわ、やべぇ。助けてサンディ、殺されるぅ〜っ!」

「もう、何やってんのよ二人とも〜」

呆れたように笑うサンドラの頬が微かにピンクに染まった。スティールと柄違いの手拭いの下から覗く髪は、

きつくカールした黒檀のような黒。ピンと伸ばせば脇くらいまでの長さなのだろうが、くるくると巻き上がって

いるため肩のところまでしかないように見える。長く伸ばした前髪と一緒に後ろで一部を結って、その上から

カチューシャで押さえているようだ。

大きな青い瞳は笑った拍子に細められ、少し羨ましそうにスティールに向けられていた。

そんな視線には全く気付く様子もなく、スティールは膨らみの足らないシューをこじるようにして切り開き、な

んとか平凡な味に仕上がったカスタードクリームを詰めていった。

調理室には他にも10数人の女子がいたが、既にスティングが来るのは日常的になっているようで誰も関心

を示さない。そして、そもそも調理部に在籍している女子たちは意中の男子にプレゼントするのが目的のも

のが多く、互いに味見し合っては完成した菓子をいそいそとラッピングするのに忙しかった。

「あー腹減った〜」

ぼやきながらも嬉しそうな表情のスティングは、勝手知ったるなんとやらで食器棚から皿とティーセットを取

り出して並べている。

今や家庭でも手料理を食べる機会は減っており、そこそこ収入のある家庭ならば仕込から全て自動調理機

任せである。この学園に置いてあるようなガスのコンロやオーブンなど、備えている家庭は珍しいとさえい

えるだろう。

「やっぱり火で焼いた食べ物は格別だな」

いち早く席に着いたスティングは、サンドラから供されたシュークリームを頬張ってうっとりと噛み締めた。

「スティールのママはあんなに美味しい料理作るのに、なんでそんだけ失敗できるんだ?」

尋ねる方の少年は心底不思議そうだ。

ガスコンロを設置してきちんと出汁をとって日々の食事を提供している今や数少ない人種が、スティールの

母親である。

お陰でたまにご相伴に与るスティングも、舌が肥えてしまったらしい。それなのに、毎日それを食べている

本人が全く料理センスがないというのが疑問なのだ。

むむむむむ、と唸る少女は、今度はフォークを握り締めている。


そうなんだよ、自分でも判ってるってば。

それなのにシャールなんてにっこり笑っていつも「美味しいよ」って全部食べてくれるんだよ?

こないだ差し入れしたサンドイッチなんて、野菜を挟む順番間違えてパンがびちょびちょだったっての

に・・・。

軽く自己嫌悪。


ヒョイ、とスティングがスティールの手元から出来上がった物を一つ口に運んだ。

もぐもぐと咀嚼して、嚥下してからようやく口を開いた。

「なんつーか・・・うん、噛み応えのあるシューだな」

「それって固いってことじゃない、はっきり言えば?」

顎を引いて上目遣いにじとぉーっとスティールが睨んだ。

「人が気を遣ってるのにその言い草かよっ」

「何処が気を遣ってる態度なのよーっ」

ムキーっと沸点に達しそうなスティールを見て、スティングはカップの紅茶をがぶりと一気飲みして腰を上げ

た。

「おー怖い怖い。じゃな、30分後に駐車場でなっ」

すたこらさっさと調理室を出て行ってしまった。その際にもう一つ、シュークリームを掠め取っていくことも忘

れない。

「あ、食べるだけ食べて逃げたーっ!」

ぷりぷりしながら食器を流しに運ぶスティールを見て、サンドラが溜息をついた。

「優しいよねぇ、スティング」

「はいぃ?」

聞き咎めて、スティールはびっくり眼でサンドラを見つめた。

「文句言いながらも、最後に持っていったのもスティールのだし、いつも出来上がる頃合見計らってやってき

ては落ち込んでいるとこ茶化して最後は怒らせてうやむやにして去っていくじゃないの。あれってやっぱり

わざとだよ〜。彼なりにスティールのこと慰めてくれてるんじゃないのかな」

そんなこと思ってもいなかったので、口を開けてぽかんとしてしまう。

「小さい頃から一緒なんでしょ?やっぱりスティールのことよく理解しているんだね、羨ましいなぁ」

まなじりの下がった大きな青い瞳が、じいっとスティールを見つめ返してきた。

「そ、そんなこと・・・っ」

あるかもしれないな、と思ったので、言葉が続かなかった。


それにしてもサンディは今日に限ってなんでこんなこと言い出したんだろう?

スティングがあたしに絡んでくるのはいつものことなのに。

そして、試食時間になると現れるのもいつも通りなのに・・・。


「私も、スティングのバイクに乗ってみたいなぁ」

吐息混じりにサンドラが呟き頬を染めるのを見て、ようやくスティールにも合点がいった。

「サンディ、もしかしてあいつのこと」

視線を外し目の前の自分のシュークリームを見つめて、サンドラがこくりと頷いた。


そっか、そうなんだ・・・。


少し考えて、言い訳がましくならないように口を開く。

「あたし、物心ついたときにはスティングもシャールもいて、兄弟みたいに育ったんだよね。ほら、あたしんち

のある区画、他に子供がいないでしょ?しかも同い年だしね。毎日土手の周りで泥んこになって転げまわっ

てた。

だから、家族みたいな感じ・・・ていうか・・・うん。少なくとも、あたしは恋愛感情ないっていうか」


でも、スティングは多分違うよ?

言葉にはしないで、サンドラは唇を噛み締めた。

毎日毎日嫌というほど見せ付けられているから判る。

スティングがスティールに向けている感情は、スティールが抱いているそれとは全く違う種類のものだ。


「ねぇ、スティールは誰か好きな人がいるの?」

不意に自分に振られ、また目を丸くするスティール。

なんだって今日はこんな話題になってしまったんだろうと思う。

思春期の女子が集えばこのような話題になるのはしごく当たり前のことなのだが、大抵その場に本人であ

るスティングがいるため、なかなかサンドラも口に出さなかったのだろう。


「あ、あたし?あたしの一番はシャールって知ってるじゃない」

「シャールはこないだ引き取られていった犬のことでしょ?そうじゃなくて人間だよ」

呆れ半分にサンドラが言った。

でもシャール本当は人間なんだもん・・・とは口が裂けても言えやしない。

加えて、サンドラの瞳はこの上もなく真剣だった。毎週末にはシャールと会って遊んでいると言っても更に

呆れられるだけだろう。

「シャール以外に・・・好きな、ひと・・・」

うんうん、と頷くサンドラをぼーっと見ながら、頭に浮かんでくる人物がいないわけではなかったが。

今何処にいるのか、なんていう名前なのか、本当に容姿は変わっていないのか、何もかも知らないづくしの

状態で。

「いるんだ、ね?」

ほっと少し安心したようにサンドラが首を傾げた。

「うーん・・・好きなのかと言われると間違いなく好きなんだけど、その『好き』の種類がまだよくわかんないと

いうか・・・」

「はぁ、まあスティールのことだからそこは保留しておくわ。またいつかその人のこと聞かせて?」


いつか聞かせられるような状況がやってくるのかしら。

そうなるようにがんばっているつもりだけれど。

いつか逢えるその日のために自分磨きもしなくちゃと、調理部に入ったものの、技術はまったく身につかず。

自分でさえちょっと口にするのを躊躇するようなものしか出来上がらない。

幸いなことに、腹を下すほどの変なものが出来ていないだけ僥倖といったところか。


スティールの胸ポケットで電子音が鳴り響いた。

「ほぇ?」

カードタイプの通信機器を取り出してみると、オーガニックパネルに映ったスティングが怒鳴り声を上げた。

『くぉら、スティール!もう40分経ったぞ!!何やってんだ!』

時計を見ると、もうじき閉園時刻が来ようとしていた。日没には至らないが、夕日はかなり低いところまで落

ちてきている。

「あああ、ごめん!もうちょっと待ってて」

通信を一方的に切り、慌しく調理台の上を片付け食器を洗う。

「後は私がやっておくから、もう行ってあげて」

一緒に片付けながらサンドラがにこやかに言った。

嫉妬心がないわけではないが、スティールの意中の人がスティングではないと知り心が晴れたのだろう。結

構現金なものである。

これ、スティングに渡して。と押し付けられたサンドラ手製のシュークリームを抱えて、スティールは駐車場

へと駆けて行った。



学園の敷地内には、学部という垣根を越えた共用部分もかなりある。その中でも一番の規模を誇るのが図

書館であり、密かに連邦政府も一目置く品揃えだと言われているらしい。

そもそも、電子情報で事足りる昨今、紙媒体でしか情報を入手できない特殊なもの以外では、図書館を利

用するものは少ない。それでも、持ち出し禁止の書物も沢山あるのでこのような施設が成り立っているのだ

が、意外とそれ以外にも気軽に借りられるような図書も一通り揃えてあるところが変わっているかもしれな

い。スペースの無駄遣いだという者も多いが、「図書館」という特別な環境を好む人種も結構多いもので、

常に蔵書は増え続けていて迷路のようになりつつある。

週末に、ひょっこりとスティールはその図書館を訪れた。

実はここでシャールの読みそうな本を物色しては、後で自宅に取り寄せているのだ。

ついでにカラーページの多い料理本を眺めては、ほーっと感心の溜息を漏らしたり。児童書のコーナーに

座り込んでは、幼い頃に読んだ絵本を眺めたりと、静かな時間を一人楽しんでいた。

何しろ蔵書の量が半端ではないので、天井は遥か数十メートルも上、そして書物もそれと同じ高さだけある

棚の中にぎっしりと詰め込まれている。それでも棚はどんどん増え続けて、通路は人がすれ違うだけの余

裕しかない。それでもここを訪れる人が少ないから、ぶつかるどころか姿を見かけることすらまれだった。

いつものようにIDをかざそうとして、入り口でスティールは足を止めた。

あれ?と思う。

誰かが急いで建物の陰に隠れたように見えたのだ。

不審な行動だが、生徒がかくれんぼでもしているのだろうか?

どちらかといえば大学部の敷地に近いここでそんな遊びをしている人がいるなんてちょっとおかしなことで

はあるけれど。

校舎自体はレンガ造りなどちょっとレトロな雰囲気だけれど、学園のセキュリティーレベルは高く、部外者は

建物の中には入れない。見学者もいるため構内の散策は許可されているが、それ以外は学生たちですら

自分のIDを示さないと入館出来ないようになっている。

スティールはそれ以上は気にしないことにして、中に入っていった。

まずはシャールの分をと、機械工学の棚に向かう。そうしたら、見慣れた人影が目に入った。

「はにゃ〜、珍しいこともあるもんだ」

相手も気付いて、手元の書面から視線を上げる。

「んん?俺が図書館に来ちゃわりいのかよ?」

ざんばらな前髪を梳くようにかき上げ、じろりと睨まれて、スティールはぺろりと舌を出した。

さほど気にしたわけではなかったらしく、スティングは本を棚に戻すとにやりと笑いながら寄ってきた。

「それよりさ、これこれ、試作品だけど」

手を出すように言われ、手の平を差し出すと、そこに小さなシール上の物を載せられた。爪の先程のICチッ

プに見える。

「なにこれ?」

首を傾げて顔を寄せてまじまじと見つめるが、スティールにはさっぱり判らない。

スティングは指でスティールを招くような動作をし、耳元で囁いた。

「位置情報を発信するチップ」

言われても、ふーんそう・・・としか答えようがなかったが、何だか違法なものな雰囲気だ。

「何に使うのよ、これ〜」

訝しげに眺めていると、突然上から声が降ってきた。

「下にいる人たち、急いでどいてー!」


瞬間のことだったが、スティングはスティールを抱えて横に飛び、スティールは顔を上げて棚の上の方から

急降下してくるリフターを、スローモーションのように眺めていた。

天井まで棚があるという事は、当然普通の脚立などでは上部の本に手は届かない。指定した本を取って来

てくれるロボットも配備されているのだが、自分でいろいろと背表紙を眺めて選びたい人用に、人一人が立

ったまま浮遊昇降できるリフターも利用できるようになっているのだ。

それがなんらかの要因で故障して落下しているのだ。それに乗った人間と共に!


ガシャン!という大きな音を想像していた二人は、肩をちぢこませたままそっと目を開けた。

リフターは床ギリギリのところで動作を停止し浮遊している。最低限の人命救助システムが働いたのだ。そ

れでも、乗っていた人は衝撃で床に放り出されて倒れていた。

「あの、大丈夫ですか?!」

体を起こし、膝をついたままその人の方ににじり寄る。スティールたちと同じグレーの制服。デザインはジャ

ケットタイプでひと目で大学部の男性だと認識できた。

「ああ・・・なんとかね」

呻きながら、横倒しに倒れていた男性は両手を床について体を起こした。

「すまないね、巻き込んで。全く、旧式なのはいいけど、制御不能になるなんて信じられないな」

確かに聞き覚えのある声。そして、現れた端整な顔立ちを目にして、二人はそれぞれの理由で呆けたよう

に動きを止めて見入ってしまった。

濡れたように艶やかな黒髪を手櫛で整えながら、男性はゆったりと微笑んだ。紫がかった黒檀のような瞳

が二人を映して・・・。

自分でも何をしているのか判らなくなった。

「ディーン!見つけたっ」

スティールは、気が付いたらその首に抱きついていた。

抱きつかれた男性は勿論、スティングも口をあんぐりと開けて驚愕の表情だ。

「おおおい、スティール!馬鹿お前何やってんだよ!」

引き剥がそうと服を引いたのは、幼馴染みが恥ずかしい行動をしているのを止めさせようということだけで

はなく、半分以上は嫉妬からだっただろう。

それをやんわりと制止して、男性はぽんぽんとスティールの背を叩いた。

「可愛い女性に抱擁されて嬉しいんだけれどね、僕は君とは初対面だよ?」

涙を浮かべて、頬を染めたスティールは体を離した。

おい、もっと離れろ、と後ろではこっそりとスティングがまた服を引いている。

「誰と間違えてんのかしらねーけどさ、この人はローレンス・シュバルツさんだろ」

「ロ、ローレンス??」

「SSCのだよ、まさか知らないわけねぇだろ?」

眉を寄せて、スティールはしばし考えた。そういえば、自宅のコンピュータなどにそんなロゴが入っていたよ

うな気がしないでもないような・・・。

「あ」

開発会社の名前だと、大分考えてからようやく気付いたらしい。

呆れたようにスティングは肩をすくめ、ローレンス青年はくすくすと笑っていた。

「ごめんなさい、あたし、顔は知らなくって」

わたわたと恥ずかしそうに手を振るスティールに、更にローレンスは笑いを深めた。

「凄い、僕はもっと自分のこと有名人だと思っていたよ。でもなんか嬉しいかも」

「いえっ、こいつは本当に世間知らずっつーか、そういうの疎くって、普通は知ってますっっ」

少女の背後から、スティングが割って入る。

「すげー本物だよ〜。あぁあ、サインもらいたいのに何も持ってねぇよ〜」

ポケットを探りながら、スティングは溜め息。

「うん、じゃあ握手」

ローレンスの方から手が差し出され、スティングは両手でしっかりと握るとぶんぶんと振った。

「光栄ですっ!俺も電子部門の開発に興味あるんでっ」

「そうなの、じゃあ卒業前には是非我が社も受けてみて」

「はいっ」

なーんて興奮気味のやり取りの後、ローレンスはスティールにも手を差し出した。

「きみも、よろしくね」

「え・・・と。はい」

おずおずと手を差し出すと、大きな手がしっかりと握り返してきた。

「あたし、スティールです。スティール・デ・ドール。高等部1年。あの、ローレンス・・・さん、は・・・ずっとここ

に?全然知らなかった、です」

どう口にしたら良いものか、たどたどしい喋り方になってしまう。

「新学期に編入してきたばかりだよ。本当は3年だったけど、大学部1年からやり直しさ。少なくとも4年間は

同じ学園で生活するわけだね」

にっこりと笑みを浮かべて説明するローレンス。

「あ、オレはスティング・レスター、同じく高等部1年です」

会話に横入りするスティング。

いつもと違う様子のスティールがどうにも気になって仕方ない。

学園は初等部5〜11歳、中等部12〜16歳でここまでが義務教育。高等部17〜19歳、大学部20〜23歳の構

成になっている。スキップも可能だけれど、それぞれの学年でかなり専門的な選択もできるため、スキップ

の逆に下の学年をやり直すケースも稀にある。ローレンスはそれを選択したようだ。

その胸ポケットで、携帯端末が振動する気配がした。

「あ、ごめん。そろそろ行かなくちゃ」

ローレンスは、ぐいと手を引いて、スティールも一緒に立ち上がらせると、パタパタと制服を払った。そうして

いると足音が聞こえ、作業着姿の男性二人がローレンスに声を掛けた。

「申し訳ありません、整備不良でご迷惑をお掛けしたようで。念の為健康状態のチェックをしたいので同行し

ていただけますか」

「いいですよ、精々打ち身くらいです」

「そういうわけには参りませんので」

断ろうとするローレンスの両脇を固めるようにして、二人は通常の入り口ではなく、用務員用の通路らしき

方へ向かって行く。


あの人たち、もしかしてさっき外で見掛けた人?


違和感を感じたスティールは、そっとローレンスのジャケットの裾を引いて呼び止めた。

「あの、また会えますか?」

「真面目に通学しているから、きっと」

軽く答えて、押されるようにして出て行ってしまった。

三人の姿が見えなくなってから、スティールはしかめっ面になった。

その隣で、はっと思い出したようにスティングが袖を引く。

「おい、スティール、誰なんだよディーンって」

「ねぇスティング、さっきの発信機の受信機出して」

答えはなく、厳しい口調で言うスティールに驚きながらも、スティングは自分の携帯端末を取り出した。

パネルに映った光点が、徒歩の人間とは思えないスピードで移動していく。

「なんだこれ?」

首を傾げるスティングに、固い表情のスティールが呟く。

「ねぇ、SSCってすんごいお金持ち、だよね?」

「金持ちっていうレベルじゃねーだろ。さっきのローレンスさんの個人資産だけでも、連邦の年間予算より多

いとかいう噂・・・」

あ!とスティングが驚愕する。

「もしかして、さっきのって」

うん、とスティールが頷く。

「あたし、ここに入る前に建物に隠れるようにしている人陰見かけたの。多分さっきの人たちがリフターにも

細工して、事故を起こして誘拐したんだ」

「うわー。学園のセキュリティーもお粗末なもんだな!敷地内で誘拐されるかよ」

頭を抱え込むスティング。

「どうしよう、追わなくっちゃ」

端末を握り締め、スティールは出入り口に向けて駆け出した。

「おい待てって、俺たちが追いかけたってどうにもなんねーよ!」

その後を追うスティング。

それに立ち塞がるように、建物の外に真っ赤なスーツが現れた。

膝上のタイトスカートにはぎりぎりまでスリットが入り、見事な脚線美を惜しげもなく晒している。豊かな胸は、

駆けてきたらしき振動で揺れ、ショートボブのけぶるような見事なプラチナブロンドが風になびいた。

「ローレンスさま!?」

中に向けて呼ばわる声は、艶のある大人の女性のものだった。

危うくぶつかりかけて急制動し、スティールはその女性を見上げた。

ヒールを差し引いても170センチはあるだろう、豊かな胸とヒップでなければモデル体系のゴージャス美人だ

った。

「あなたたち、中でローレンスを見かけなかった?」

当然名前を知っているもの、という尋ね方だった。

「あの、あなたは・・・?」

疑い半分でスティールが尋ねる。先刻の男たちの仲間ではないという保証はない。

「私は、ローレンス様の秘書でアンジェラと申します。怪しいものではありません。入館証明ならこちらに」

ひらりと胸ポケットから当日限り有効の、学園発行の証明書が差し出される。スティールはそこに刷り込ま

れた学園の印を自分の端末で認識させてから、初めてほっと息をついた。

「実は・・・」

スティールとスティングが交互に先程の出来事を説明した。そして、訝しく感じたので別れ際にジャケットに

位置情報の発信装置を取り付けたことも。

「機転を利かせてくれてありがとう。後は私どもで。」

有無を言わせぬ口調でアンジェラは二人に告げた。

「坊や、ちょっとこれ借りるわね?」

男なら誰でも骨抜きにされそうなうっとりするウインクを残し、アンジェラは自分の携帯端末で誰かと会話し

ながら足早に去って行った。

本当はスティールもついて行きたかったが、到底無理なことは判っていた。

銀の界の時とは違う。自分はこの世界でも何も出来ないただの小娘だと。


それでも・・・今出来ることは、やれたよね?

直感であれはディーンだと解っていた。

例え今、自分のことを憶えていなくても、感じる。その波動。


まずは無事に戻ってこられますように。


祈りながら、二人は言葉もなく家路に着いた。







スティングと別れて自室に入り、もしやニュースにならないかと滅多につけることのないテレビのスイッチを

入れた。

ベッドの足元側の壁にぴたりとくっついているスクリーンに、連邦各地のニュースが次々と示されていく。

ただいまの言葉もないスティールを訝しく思い、リルフィがその肩に舞い降りてきた。

『今日はまた元気がないのね?暗くなる前に帰ってきたのはいいけど、何かあった?』

「あった」

硬い表情のまま、こくりと少女が頷いて。ジルファもふわりとその傍らに舞い降り、リルフィはそれを一瞥し

てすぐに少女に意識を戻した。

「これ見て」

ぱたぱたとリモコンのキーボードを操作して、スティールはテレビ画面を切り替えた。スクリーンに大写しに

なったのは、シルバー・シュバルツ・コーポレーションのHP。その経営陣の中からローレンスを選び拡大して

二人に示す。

『えぇ?!』『おぉ・・・』

金と青の鳥から驚きの声が漏れる。まぁ実際には思念が頭の中に直接響くのではあるけれど。

『完全に盲点だったな。まさかこんな有名人だったとは・・・』

ジルファの意見に、スティールは少し肩の力を抜いた。

「うん、ごめんね。なんか、一般的には顔知っている人の方が多いみたい・・・。あたし、凄く遠回りしていた

みたいだよ〜」

『でも良かったじゃないの。これでもう私も当てのない人探しからは解放されるんだし』

『私たち、だよ?』

ジルファの突っ込みは、完全に聞かなかったことにされたらしい。

『それにしても今度は逆にコンタクト取りにくくなっちゃったかもしれないわねぇ。

コンピュータ関連の開発会社とくれば、自宅も会社も近付きにくいんじゃないの?』

リルフィはセキュリティの厳しさに注目したらしい。

「それがね、実は今日偶然なんだけど・・・」

スティールは放課後の出来事を詳しく語った。

それで帰宅後すぐにテレビを点けたのだと。

『流石、引き合う運命・・・だな』

感心したようにジルファは目を見張り、リルフィは眩暈を感じて危うく肩から転がり落ちるところだった。

『トラブルを背負い込まなければ済まない体質なのかしら・・・』

トラブルの第一弾に関わっている自分のことは完全に棚上げして頭を抱えている。


確かに、ここまで異世界の住人と関わっている狭間の界の人間は他にはいないだろう。そしてそれに関連

して、両親が願うような慎ましやかで平凡な人生からどんどんずれていってしまっているのでは、と思う。


なんにしても、その時スティールが一人ではなくて良かった。

リルフィは素直にスティングに感謝した。

もしも一人だったら、突っ走って自分のリニアで後を追ってもっと厄介なことに巻き込まれていたかもしれな

い。


スティールはといえば、またニュース画面に切り替え、制服を脱ぐのも忘れて画面を食い入るように見つめ

ている。一応全チャンネル表示にしてそれらしいニュースが流れ次第切り替えるつもりなのだろう。

「スティール、ご飯食べましょうよ」

ドアの向こうから、母親が呼んだ。

「あ、うん。すぐに行く・・・」

本当はテレビの前を離れたくないのだろうが、食事を抜いて親に心配をかけるわけにはいかない。

スティールはそそくさと部屋着に着替え(その間、リルフィの無言の威圧によりジルファはいつも壁の方を向

かされてしまう)、両肩にリルフィとジルファを乗せてダイニングへと向かった。




『願い』は世界最強の魔法。


青年の『願い』は異世界に同じ魂を抱いて時を遡り生まれ落ち

少女の『願い』は生まれ落ちた青年を見出し


そして少年の『願い』は

青年と少女がなるべく早く出逢えますようにと

 目に留まりやすいところに生まれますようにと


そうして選ばれたのが、遺伝子情報にも違和感なく同じ姿を保ちつつ

〈目に留まりやすい〉生まれのところだった。


ただ、それだけのこと。


どうか、あなたの願いが叶いますようにと

優しい少年が祈った

奇跡を信じて。





広い部屋だった。

連邦政府のお膝元であるシティの中でも、特にセキュリティの厳しいホテルのワンフロアを貸し切り、ローレ

ンスはそこから大学に通っていた。

その中で自分で使用しているのは、寝室と研究設備のある部屋だけではあるが、使用人たちの寝起きする

部屋などいろいろと確保するため、そして安全面でも他人を同じ階に寝泊りさせるわけには行かなかった

のだ。

本人はあくまでも一生徒として、ごく一般的な一人暮らしを希望したのだが、両親共に却下され、取り敢え

ず目に付くところには使用人を置かない、というレベルでの「一人暮らし」を認めてもらったのだ。

しかし編入早々に誘拐劇が起こり、学園の上層部の人間は現在こぞってイーストエンドのシュバルツ家で

平身低頭している頃合だろう。

そして本人はと言えば、明日にでも学園内のシステムを全部最新式のものに入れ替えてしまおうと、皮算

用しているところであった。これは獲らぬ狸どころか、確実に懐に入ってくる皮算用であるが。


机に向かっているのも疲れたので、ローレンスは椅子を引き、革靴をポイポイと脱ぎ捨てるとソファに全身

を投げ出して寝転んだ。丁度肘掛に頭と足首が乗り、実に寝心地が良い。床は堅めの材質の無垢の板張

りなのだが、それがまた素足に馴染むのだった。

なかなか刺激的な一日だった。

有能な部下たちのお陰で、何かされる前に無事身柄確保されたローレンスは、帰宅後すぐに自分の研究

室に入りやりかけの作業を終わらせてから速攻で学園宛に請求書を作成した。

今回の件は全て敷地内の生徒の安全を護れなかった学園に責任がある。慰謝料とは言わないが、せめて

セキュリティレベルを上げてもらわないと、今後の生活が困る。

そんなことをする生徒は他にはいないだろうが、ローレンスにとって誘拐は日常の出来事であり、今回のよ

うに他人まで巻き込みかけたとあっては放っておくわけにはいかないのだ。


そういえばあの少女・・・

確かに何か懐かしい感じがする。会った事はないはずなのに何故・・・?

脳裏に琥珀の瞳が焼きついて離れない。

もっと美しく魅力的な女性はいくらでもいる。それなのに、どうしてか気にかかっているようだ。

あの少女が自分のことを違う名で呼んだとき、本当は少しドキリとしたのだ。

「・・・ディーン、か」


扉のセンサーが来訪者を告げた。

室内へは網膜認証だけで入れるようになっているので、こちらの了解もなしで扉は深夜の来訪者を招き入

れた。

カツカツとヒールの音を響かせて入室したのは、夕刻に図書館に現れたアンジェラだった。スーツから黒い

イブニングドレスへと着替え、大きく開いた胸元と両脇スリットから覗く均整の取れた太腿が、えも言われぬ

色香を醸し出している。匂い立つような熟れた大人の艶やかさよ。

「あらいやだ、ローレンスさま。入浴もまだなのね」

さま、と言いつつも、口調は親しい友人か家族のものである。何もつけていないのに紅を刷いたようなふっ

くらと大きめの唇がほころんだ。

「ああ・・・取り敢えず急ぎのものだけ済ませたんだ」

顔を向けることもせず、ローレンスは開襟シャツのボタンを外し始めた。

「もしかして、今日の件は新しい製品に関わりのあること?」

ソファまで来ると、背もたれ側から覆いかぶさるようにアンジェラは腰をかがめた。

「多分ね・・・詳しくはもう警察にでも政府にでも任せるよ。製品自体は完成しているし、特許も申請した。デ

ータも理論も完璧なはずだけど、如何せん実験データが・・・」

はぁ、と溜め息をつくローレンス。

「何しろ今までとは違う分野だし、勝手がわからない」

「何を作っているかは何となく知ってはいるのよ?」

アンジェラは舌先で唇を湿らせ、屈んでローレンスの耳元に口を寄せた。

「ナノテク・・・かしら?それとも液体金属で?」

「どっちもビンゴ」

寝そべったままようやく視線を合わせて、ローレンスは微笑んだ。流石センセイ、と囁く。

「一言で言うと新型IUD。病院に行かなくても、または女性側にそれと気付かれず男性が仕掛けることがで

きる。逆もまた然り。成功率は99.9%といっておこうかな。100%のつもりだけど、完全なものはこの世に存在し

ないから」

ふうん、と応じながら、アンジェラの長い指先がローレンスの胸元に滑り込んできた。

「薬剤のように副作用もなし、侵入してきた精子の活動を止め、最後には自分も一緒に体外に排出させる

働きを持っている無害なチップだよ。但し、効果は24時間で完全な使い捨てだけどね」

指先が下半身にまで下りて行き、スラックスの上からやんわりと青年の中心を愛撫する。

ふ、と目を細め、ローレンスが息を吐いた。

「いいわね。ぞくぞくするわ」

その薄い唇をアンジェラの赤い舌先がそっとなぞる。今にも吸い付きたそうな濡れた唇から、甘い吐息を漏

らしながら。

「私を実験に使うといいわ」

既に情欲の炎をその瞳に燃え上がらせ、アンジェラはローレンスのベルトを外した。

「その代わり、今夜は眠らせないわよ?」

苦笑しながら上半身を起こすローレンスに、もう我慢できないとソファの背から女の体が滑り落ち体を重ね

た。

「では・・・死にたくなるほどの快楽を」

天使かはたまた悪魔か、艶然と微笑むローレンスにアンジェラはうっとりと見惚れた。幼い頃から傍にいる

が、これほどまでに賢く美しい青年になるとは。

「受けて立ちましょう?」

にっこりと微笑んで、アンジェラはむしゃぶりつくように体の下の青年の唇を吸った。

ローレンスが初等部に上がる頃、25歳のアンジェラはさまざまな意味での教育係として雇用され、以来常に

傍に仕えてきた。10代で軍に入り格闘技も一通り身に着けているアンジェラは、その容貌で男性陣の目を

欺きながらSPとしての役目も果たしてきた。そして、学校では学ぶことのない処世術・・・一般的には卒業後

に身につければ間に合うものでも、幼いローレンスは備えていなければならなかったのだ。中等部に上が

る頃には夜のテクニックも。これは半ばアンジェラの趣味ではあるのだが、頭も体も全て駆使してローレン

スに叩き込んできたのだ。

我が子ほどにも年の離れた主従関係だが、知らぬものが見れば精々30歳くらいにしか見えない肉体は、い

つも社内外で色欲交じりの視線に晒され、それを糧に更に彼女は若く美しく保たれる。

一から十を学ぶ典型的秀才肌の生徒と、彼を育てた教師として、濃厚な夜が始まろうとしていた。




丁度食事が済んでスティールが自室に戻ったとき、携帯端末が鳴った。スティングからの着信だった。

『おう。連絡あったぞ』

スティングの端末から自宅に連絡があったのだそうだ。

全て片付いたので、ご心配なくと。翌日にでも端末は返却しますと伝えてきたのは、あの時の秘書だったと

いう。

『良かった〜これで安心して寝られるな』

「う、うん。そうだね」

へたへたと床に座り込みながら、スティールは画面のスティングに頷いてみせた。

『で、さぁ』

スティングからそれまでの溌剌とした雰囲気が消えて、何故か視線が宙を彷徨った。

「どうかした?」

首を傾げるスティールにもう一度視線を合わせると、

『ディーンって誰だよ?』

と尋ねた。

夕方尋ねても答えが得られなかったのをまだ覚えていたらしい。本人にとっては知らない男性の名前は重

大な問題なのだろう。

『間違えるほどローレンスさんにそっくりなのか?』

あれだけの美男子はそうそう存在しないはずだと思いながらも、もしもそうならば自分では勝てないと思っ

てしまう。

「あ、えと・・・うん・・・なんていったらいいか」

助けを求めるようにスティールの視線がリルフィに注がれたが、

『適当に誤魔化しときなさいよ』

仔細なアドバイスは得られず、嘘をつくのが苦手な少女は言葉に窮した。

「シャールとあたしの命の恩人・・・ていうか・・・」

こんななんでもない普通の女の子のあたしを好きって言ってくれた人。

などとは口が裂けても言えなかったが、思い出したら恥ずかしげな様子が顔に現れてしまったらしく。

『それ、お前の好きなやつ?』

ショックを隠しきれない様子でスティングが言い募った。

近所に住んでいて、スティールの行動も好みも趣味も大抵は把握していると自負していただけに、それら全

てが衝撃だったのだろう。

「好きっていうか・・・まだわかんないよ。でもシャールと同じくらい好きだよ?」

犬と同レベルかよ!と心の中では突っ込みを入れながらも(裏事情を知っているリルフィとジルファですらこ

っそり突っ込まずに入られなかった)、スティールの「好き」のレベルは全てシャールを基準に測られている

のだと知っているが故にその愛情の深さに思い至ってしまうのだった。

『あのな、俺もお前のことが・・・好きなんだけどっ』

ありったけの勇気を振り絞って口に出した言葉に返された答えは。

「うん?あたしも好きだよ?シャールの次くらいかなー」

にっこりと、そしてあははと照れ笑いするスティールに、流石のリルフィとジルファも止まり木から滑り落ちそ

うになり、ジルファはその後抱腹絶倒で床を転げまわっていたのだが。

『な、なんと愉快な娘だ・・・笑い死にしそうだよ』

『頼むからそのまま死んでもらいたいものね』

その姿に冷たい視線と言葉を投げかけつつも、リルフィもスティールの天然ボケっぷりには嘆息するしかな

かった。

流石に付き合いの長いスティングは、立ち直りも早かった。

『そんなの知ってるよ』

と笑顔に戻り、それより後ろで鳥の鳴き声がなんか変じゃねえか?と続けた。




翌日、今度は失敗しないで出来上がった手製のマフィンをバスケットに入れて、スティールは銀の界へと渡

った。いつも週末はそうなのだが、空は快晴である。無意識のうちにシャールの意思が反映されているらし

い。

草原に腰を下ろしてぼーっと空を見上げていたところに現れて、今度はすぐには飛びつかずにバスケットを

草の上に下ろし、体を起こしたところを見計らって首っ玉にかじりついた。

「シャールぅ〜っ!逢えたよっディーンにっ」

瞳の奥に僅かに寂しさを宿しながらも、シャールは声を弾ませているスティールの背中をギュッと抱きしめ

た。

「早かったね。良かったぁ」

「シャールのお陰だね、きっと」

興奮気味のスティールは、ありがと、と言いながらシャールの頬に軽く口付けた。勿論、人型に戻ってから

初めてのことだったので、シャールの方は驚いて目を見開いた。

「お礼だよ?」

ちょっぴり照れながらも、至近距離で小首を傾げられ・・・一瞬そのまま抱き寄せて唇にもっと深く口付けた

い衝動に駆られたが、なんとか堪えた。

どくどくと、血液の流れる音が妙に大きく聞こえる。

ああ、僕の鼓動なのか・・・。

冷静に分析して、自分を失わないようにと、深呼吸する。

「あれ、ごめん。い、嫌だったかな・・・溜め息、ついた?」

そうしたら今度は少女の方が慌ててしまった。へにゃっと眉毛が下がり、なんとも言えない可愛らしさに見え

るのは、最近の自分の目がどうにかなってしまったのかと思うほどだ。

「ち、違うっ!・・・そうじゃなくて・・・っ」

ああ、なんて言ったらいいんだろう。

本当に困ってしまう。

今までみたいなスキンシップをしていたら、いつか本当に我を忘れて〈雄〉の本能の赴くまま行動してしまい

そうな自分が怖い。

でもそんなにくっつかないで欲しいなんて言えないし、言いたくはない。

ちゃんとしたキスがしたいなんて、今はまだ言えない。

「それで、ディーンはどうだった?」

仕方なく話題を変えてみた。

「あー、そうそう、それなんだよねぇ」

何の疑問もなく乗ってきてくれて、ほっと安堵する。

それでも、かくかくしかじかスティールが説明するのを聞きながら、またも心の中にもやもやが広がっていく

のを止められなかった。

「というわけで、目下どうやったら記憶が戻るのか思案中なの〜」

はぁ、と息をつくスティールに頷いて見せながら、心の片隅ではこのままずっと記憶なんて戻らなくていいと

さえ考えてしまう。

新しい命と新しい名前を得て、裕福でそれなりに幸せな人生を送っているであろう元義兄。命を助けてもら

って本当に感謝しているけれど・・・。


頼むから。僕にはもうスティールしかいないんだから。

僕からスティールを奪わないで・・・。


こんなことを僕が少しでも願っている限り、本当に記憶は戻らないかもしれないというのに。

それでも僕は思わずにはいられない。


ここまででもういいでしょう?

このまま狭間の界で、スティールとは学友のままで、卒業したら接点も無くなって。

そのまま僕の知らない誰かと結婚して家庭を持ってくれたらいい。


僕の願いは昔からたったひとつだけ。

スティールと一緒にいたい。ただ、それだけなのに。


「あ、そういえばユキさん、先週会った時には少しお腹が出てきたみたいだったね。もう、ヤツカさんったら、

ユキさんがちょっとでもテーブルにぶつかったら飛んできて抱き上げて連れて行っちゃうもんだからおかしく

って。最後にはユキさんも『コレくらいで仕事休めないわよっ』て怒り出しちゃってさあ」

おめでたのユキとその亭主の様子が余程おかしかったのか、スティールはクスクスと思い出し笑いをした。

「あかちゃん、か」

生まれたらさぞかし可愛いだろうな、と二人ともほんわかした空気に包まれる。

女の子だったらヤツカが下にも置かない可愛がりようだろう。生まれてすぐから、この子は嫁にはやらない、

とか言うかもしれない。

「僕も子供欲しいかも・・・」

ぼそりと呟いた声をちゃんと聞き止めたらしく、

「いいねぇ、シャールの子供なら男の子でも女の子でも美人さん間違いなしだねっ」

想像するだけで嬉しいのか、満面の笑みでスティールが頷く。

「いつか生まれたら、あたしにも抱っこさせてね?」

と。

返す言葉が、見つからなかった。


自分が産むかもしれないっていう選択肢はないみたいで。

勿論そこまで深くスティールは考えもしていないのだろうけれど。


天然ボケの恋愛下手もここまでくると最早犯罪である。

気の毒な二人の少年だった。





一方その頃狭間の界の少年も、玄関まで応対に出てきたスティールの母親の言葉にショックを受けてい

た。

「ごめんなさいね、あの子ったら最近毎週出掛けているのよ。前は探し物って言っていたけど、今はシャー

ルに会いに行っているみたいでねぇ」

頬に手を添えて溜め息をついている優しそうな母親。面差しはスティールとそっくりだ。

携帯端末にいくら連絡しても応答がないので直接来てみたら不在で。

「端末まで置いていくなんて・・・」

本当にシャールに会いに行っているんですかと尋ねたかったが、ぐっと飲み込んだ。家族に無用な心配を

かけさせてはいけない。

「本当に僻地なのよ〜。電波も届かないから持って行くだけ無駄なんですって」

それにしてもそんなにしょっちゅうだとあちらさんもご迷惑じゃないかと思うんだけど、いつまでも犬離れでき

なくて困った子ね、と母親は続ける。

「わかりました。いえ、約束していたわけじゃないんで、また学校で」

ぎくしゃくと笑みを作ると、スティングは回れ右した。

「あ、待って待って」

ちょっとここで待っていてと言い置き母親は一旦家の中に戻ると、深鉢を持って出て来た。

「これ昨夜から仕込んでいるポトフなの。晩御飯にでもどうぞ」

ドール家とレスター家ではよくある光景だった。

料理の苦手なスティングの母親は、スティールの母親の手料理が大好物なのである。

「味付けしてシチューやカレーにしてもいいから」

「いえ、そんなことさせたら台無しになるんでこのままで是非!」

「いやぁねー、スティングったら」

コロコロと笑いながら、深鉢を抱えて家路に着くスティングに手を振り見送ってくれた。

ゆっくり歩いても5分とかからない距離なので、考え事をする間もなく自宅に着いてしまった。そのままキッチ

ンに向かうと、朝食後の珈琲を飲んでいた母親は目を輝かせて深鉢を奪い取り、早速味見をしていた。

晩御飯まで残ってないような気がする・・・。

嫌な予感がしたが、今日はもうそんなことはどうでもいい気になり、とぼとぼと自室に戻った。


2階の自室に入るなり、お気に入りの曲を壁に埋め込まれたスピーカーから流すようにスイッチを入れ、ベ

ッドにもたれるようにして床に座り込んだ。

「シャール、何処にいるんだよ・・・?」

幼い時からずっと共にある存在だった純白の大きな犬。スティールがそのシャールを兄弟のように慕い「好

き」の基準がそこになるのは解らないでもない。

で、〈シャールと同じくらい好き〉な存在がディーンとやらで、〈シャールの次に好き〉なのがオレってどういう

ことよ?

確かに高等部に上がってからは、そんなに頻繁に行き来していないし、休日も一緒に遊んだりはしていな

いけど、男の影なんてこれっぽっちも感じなかったというのに。

「納得いかねぇ・・・!」

一体いつ何処で知り合ったというのか。

まして、そこまで好きになるならそれなりに深い付き合いな筈。

そして、いきなり引き取られてしまったシャールの存在。

気が付いたときにはもう姿が消えていて、自分は別れの言葉も言えず。何処か分からない僻地・・・どっか

の離島か?・・・にいるらしい飼い主の下へ足繁く通っているスティール。

更に言うならば、シャールが引き取られた頃からぐんとスティールが綺麗になった・・・ような気がする。これ

は自分が好きだからその欲目でそう見えているわけでもなく、学校でもたまに話題になることがあるのだ。

ただ、今まではその一風変わった性格から、恋愛対象としては男子生徒の噂話に上らなかったので安心し

ていたのだけれど、これからはそうもいかないかもしれない。

今までは母親に「あなたの取り得は私譲りのサラサラストレートヘアーしかないんだから絶対伸ばすべき

よ!」と主張されてしぶしぶ脇辺りまで伸ばしていたスティールだったが、それ以上は邪魔になるからと伸

ばしたり切ったりを繰り返していたのに、最近はずっと伸ばしていて、その心境の変化もまた気になってい

る。

もしかしたらシャールの飼い主がディーンとやらなのかもしれない。

そうならば一度是非付いていかねばと、焦り始めたスティングだった。


「うなー」

かりかりと扉を引っかく音がして、ぼーっと考え事をしたままスティングはドアを少し開けた。するりと隙間か

ら三毛猫が入ってくる。

にゃおお〜と訴えながら、ぐいぐいと頭をスティングの腕に押し付け、抱き上げられると満足げに喉を鳴らし

始めた。

「なぁ姫。女同士、スティールの気持ちわかんねぇ?」

ぐるるるるる。目を細め、姫はぺろりと飼い主の頬を舐めた。ざらざらが当たらないように、舌先の滑らかな

部分だけでそっと。

「にゃうあー。なぅ」

何か話しかけてくれるのだが、内容は分からない。

「こんだけ科学が発達していて、なんで動物の言葉翻訳機はねぇんだろうなー。やっぱりオレが作るし

か!」

ははは、と笑うスティングに微笑みかけるかのように姫は大きな目をぱちぱちと瞬きして、チュッとその鼻先

にキスをした。

意中の少女が姫と同じくらい自分にラブラブだったらどんなに嬉しいことだろうと、少年は猫を抱いたまま嘆

息した。



それから少し経ちお茶の時間になった頃、センサーが来訪者を告げた。母親は何処かに出掛けたらしく、

自動的にスティングの部屋のモニターに映像が映る。

ボディコンシャスな真紅のスーツが目に飛び込んできて、少年はあたふたと玄関に向かった。

「先日は私共の不手際でご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」

扉を開けると、女性は深々と腰を折った。胸の谷間が露わになり、赤面しながらもお辞儀を返すスティン

グ。

「いえ、オレらは別に・・・」

「ご両親にもご挨拶をしたいのですが」

「すみません、それが出掛けていて」

改めて丁寧な礼を言われ、携帯端末を受け取りながら恐縮してしまう。これほどまでに官能的な女性を傍

に置いて、あのローレンス青年は平気なのかと妙な心配をしてみたりも。

「この休日で学園内のセキュリティーを強化するために工事をしています。もうあのような事はないとは思い

ますが、また何かあればローレンス様のことよろしくお願いいたしますね。何分にも私共は学園内までは警

護出来ませんので・・・。そしてなるべくあの方にも、普通のご学友たちとの生活を楽しんでいただきたいの

です。」

スティングと視線を絡めて、アンジェラはにこりと微笑んだ。

「生体埋め込み型のチップとあなたのチップとの相乗効果で、位置確認がとてもスムーズに出来て本当に

助かりましたわ。ありがとう」

「あ、あのチップは・・・その」

戯れに作ってはみたものの、実際に使うことは違法行為である。冷や汗をかきながらどうしようと思ってい

ると、その手を取りそっと件のチップを握りこませ、アンジェラは滑らかにウインクしてみせた。

「その才能を伸ばすといいわね。それから、主がまた学園内で会いましょうと。自分の口からも直接礼が言

いたいそうです」

「はい!」

我知らず鼓動が早まり、勢いのある返答をしてしまう。

くすりと口元を綻ばせ、アンジェラの顔が近付いた。

「では、私個人からのお礼を」

そっと囁き声。それから音を立てて唇を吸われ、スティングは直立したまま放心状態に陥った。

流石のアンジェラも、ティーンエイジゃーと遊ぶ機会は持っておらず、ついついからかってみたくなったの

だ。

可愛いわぁ。なんて遊び甲斐がありそうな子!

しかし、仕事の一環でここを訪れたものの、本来は主の警護をしていなければならない時間帯だ。早急に

戻る必要があり、まさかこのまま家に上がりこむわけにもいかない。

少し残念に思いながらも、少年の頬から首筋に指を這わせてから名残惜しそうに瞬きで訴えて体を離し

た。

アンジェラの乗り込んだリニアカーが出発してたっぷり5分ほど経過してから、ようやくスティングの石化が

解けた。へなへなとその場にしゃがみこみながら、「うわー」と呟く。

「やっべー・・・」

赤面したまま、ぐしゃぐしゃと髪の毛を掻き回す。

たったあれだけのことで、若い体は反応していた。治まるまでしばらくしゃがんでいようと思った。



空が茜色に染まる頃、ようやくスティールの携帯端末と繋がり、パネルにほんわかした笑顔が映りなんとは

なしに癒された気分になる。

『どしたのー?課題のことなら、あたしもこれからやるところだから何も聞かないでっ』

顔の前で手をぶんぶんと振りながら少女が眉根を寄せた。

「あー。課題のことじゃなくて・・・今日何処行ってたんだ?探しものは見つかったのか?」

既に母親から聞いているという事は伏せて尋ねてみる。

『探しものは、一応見つかった、かな?』

「なんだよそれ。見つかったんならいいじゃんか」

『そうだね』

一瞬何か考えてから笑顔に戻る。

「なんか納得いかねーようなことでもあんのか?」

『ああ、いやー、うん。確かにスティングの言うとおり、見つかったからいいよ。うん、素直に喜ぶことにする』

「わけわかんねー」

何を探していたのかは、まだ教えてくれそうにもなくて。信頼されていないと不満が募る。

『今日はシャールのところに行ってたんだ。いつも二人で草原で遊んでるの』

「二人で?飼い主は?」

『あたしが会いたいのはシャールだよ?近くに住んでいる人たちとも話はしたりするけども』

飼い主なんていないのだから、なんとも答えようのないスティール。少女にしては無難に質問をかわしたつ

もりだった。

「で、結局それって何処なんだ?今度オレも一緒に行くよ」

昔はよく一緒に遊んでたじゃないかというと、スティングが驚くほどの勢いで少女が拒絶した。

『だだだだだ駄目なの!あの、ほんとにあそこってば僻地だしっ。ホントはよそものは行っちゃいけないとこ

だしっ。あたしだって、あっちの許可がないと勝手には入れないんだしっ』

「は?」

なんだその取ってつけたような理由は。

というか、この世界にそんな場所が存在するのだろうかとまずは疑ってしまう。確かにスティングはセントラ

ルからは出たことがないけれど、今時そんな閉鎖的なところがあるのだろうか?居住区ですらないんじゃな

いかと思ってしまう。

明らかに疑っている様子なのが伝わったのか、嘘じゃないからね!と少女が真剣な顔で言った。

『ありがとう、スティングもシャールのこと心配してくれてるんだよね。大丈夫、あっちでも元気にやっている

から』

花のような笑みでそう礼を言われ、オレが心配してるのはお前のことだとは言えなくて。

「そっか?ならいいんだけどさ」

いやほんとはそうじゃなくて。よくない、ちっともよくないんだけど。

で結局自分でも何が言いたかったのか分からなくなり、適当に通話を終了した。


「ああー・・・なにやってんだろ、オレ」

ベッドに上半身だけうつ伏せてうだうだやっていると、いつの間にか傍に寄ってきていた姫が背中に乗り柔

らかな肉球で肩甲骨の間を踏み踏みとマッサージしてくれる。

猫の体重は3kgほどだけれど、それが小さな足の裏だけに分散されるとなかなかよい感じの踏まれ心地な

のだ。

踏んでいる猫の方も至極ご満悦で喉を鳴らしている。

「姫、風呂でも入るか」

なー、と返事をして、猫は背中から下りた。



新しい週が始まり、つつがなく日々が過ぎて行った。セキュリティシステムが刷新されたことについては学

園側からも全校生徒に通知があったが、特に誰も関心を示してはいないようだった。

週末の昼休み。授業の終わるタイミングを計っていたかのように、スティングの携帯端末に着信があった。

「あ」

驚き顔の少年は小声で何事か会話したあとスティールの傍に飛ぶようにしてやってきた。

「おい、今日はカフェテリアでメシ食おうぜ」

「えー?今日は天気もいいし、皆で中庭でって約束してたじゃない」

いつも母親の手製弁当持参のスティールは不満顔だ。スティングは購買利用なのでどちらでも大差ないけ

れど、カフェテリアは学園全体の共用スペースなので昼の時間帯は騒々しく、ゆっくり食べるには向いてい

ないのだ。

「それが、ローレンスさんが昼飯おごってくれるって言うから」

「え?ほんと?」

ぱっと嬉しそうに顔が輝くのが気にはなったが、約束していたサンドラとビクトリアにも断りを入れて道々簡

単に経緯を説明しながら四人でカフェテリアに向かった。


カフェテリアは各テーブルにあるコンソールから直接注文して、自動走行型のロボットが出来上がった料理

を運んできてくれるシステムになっており、一旦席に着いたら途中で立たなくても良いので、座っている側か

らすれば入り口に人がやってくればすぐに目に付くので待ち合わせはしやすいといえる。

どうやら講義の時間の関係で早くから着席していたらしいローレンスは、スティングたちに向かってにこや

かに手を上げた。

今日はフレームのない眼鏡を掛けているが、それまでチラチラとローレンスを盗み見ていた周りの学生たち

が一斉に入り口を向いた。

誇らしさと恥ずかしさとでぎくしゃくしながら、取ってくれていたらしい席に座る。

「あのー、私たちはあっちにいるから」

遠慮して隣のテーブルに座るサンドラとビクトリア。

そんなに離れているわけでもないし、混雑していて他の生徒たちに迷惑が掛かる様子でもないので、スティ

ールも引き止めなかった。

有名人と初対面で同じテーブルでは食事も喉を通りにくいだろうとも思う。

他の学生たちも同じなのか、視界には入れたいけれどあまり近くには行かなくてもいいやという感じで、ドー

ナツ化現象が起きているのだ。

「先週は本当に助かったよ、ありがとう。ごめんね、こんなに遅くなって・・・もっと早くに会いたかったんだけ

ど」

ローレンスがぺこりと頭を下げ、つられてスティングとスティールの二人もお辞儀を返したが、「気にしない

でください」と慌ててハモるように口を開いたので、ローレンスはくすくすと笑ってしまった。

「仲がいいんだね、二人は。可愛いカップルだなぁ」

「カップルじゃありませんっ!」

即座に否定したのはスティール一人。

サンディの前でなんてこというのよ〜っ!!

と内心冷や汗ものだったのだけれど、その勢いにスティングの方はショックを受けていた。

「ご、ごめん。付き合ってるんじゃないんだね」

あはは、と笑いながらローレンス。

「ただの幼馴染みで、こないだはたまたま図書館でばったり会っただけで・・・」

なんだかむきになって説明していると感じてしまうのはスティングだけではなかったが、まあこんなハンサム

を前にしたらいくらスティールでもそうなっちゃうのかしらと、皆何となく納得していた。

「あー、じゃあオレ、これとこれとー」

そんな少女は見たくなかったので、スティングは「遠慮なくご馳走になります!」とコンソールに入力してい

る。

「あの、あたしはお弁当があるのでいいです」

スティールは風呂敷に包まれた二段重ねの重箱を開いた。良かったらどうぞ、と言いながら。

先に一人で紅茶を飲んでいたローレンスは、茶器を端に寄せて珍しそうに重箱の中身を覗き込む。

「これは、きみが作ったの?」

「まさか!」

今度はすかさずスティングが否定する。

「こいつ調理は超の付くど下手くそなんで。でもおばさんの作ったものはめっちゃ上手いです!」

「ほんとのことでもソコまで言うかー?」

スティールは重箱の蓋の角でぐりぐりとスティングの頭を小突いた。

ちなみにローレンスの向かいがスティングでその隣にスティール。細い通路を挟んでその隣のテーブルに

向かい合ってサンドラとビクトリアが座っている。

「じゃあお言葉に甘えて」

とローレンスはスティールが持参したフォークで鶏肉の南蛮漬けを口に運んだ。ゆっくりと咀嚼して飲み込

んでから、

「本当だ。こんな美味しいのは食べたことがないよ。どんなシェフが作ったものより愛情がこもっているから

だろうね」

心底感嘆した様子だったので、嬉しくなるとともに少女は少し不安になる。

もしかしてディーンは、今度のお母さんからもあまり愛情を受けていないのではないかと心配になったのだ。

しかし、まだそれを尋ねられる環境ではない。

「いっぱいあるからどんどん食べてください」

ぐいぐいと重箱を押しやるのが精一杯だった。幸い、いつもスティングのつまむ分も考慮して余分におかず

が詰められているので、量としては十分に確保されている。

いつも食べ慣れているスティングは今日は料理人の作ったメニューの方に気が行っている様子だし、自分

ひとりでは食べきれないだろうとも思う。

じきに注文した料理も届き、合間に他愛もない会話をしながら和やかな時間が過ぎて行った。


そうだ、あたしこういう時間が欲しかったんだっけ・・・。

食後の紅茶を奢ってもらい、ほっと人心地のスティール。

いつかディーンに出逢えたならばどんなことを話そう、どんな風に過ごしたいだろうといろいろ考え、漠然と

だけれどこんな風に大勢で深刻でない話をしたかったんだなぁと感じていた。


「あ、そうだ。これスティングにもあげるよ」

ふと思い出したのか、ローレンスがポケットから小さなプラスチックのケースを取り出し手渡した。

透明なケースに入った指先ほどの物体を見つめながら、何ですか?と少年は興味津々だ。

「僕の新作なんだけど、まだ実用化前のデータ集めしている状況でね。大学部ではかなり大々的に配った

んだけど、良かったら使ってみてデータ取らせて欲しいんだ」

「いいけど・・・これ何するもの?」

コンピューターに接続して使うものではなさそうだし、部品でもない。首を傾げる少年に「実はね」とローレン

スが顔を寄せるように手招きする。

ぼそぼそと耳打ちされた少年は次の瞬間にはおでこまで真っ赤に顔色を変えた。

「IUDって、まさか!!」

大声とまでは行かないが、きっちりと隣のテーブルまで声は届いていたらしく。デザートのイチゴをつまみな

がらぎょっとした表情でサンドラとビクトリアが男性陣を見遣った。

スティールはしばらく脳内検索をしたのちにようやくIUDが何なのかに思い至り、訝しげに二人を見つめる。

しー、しーっとローレンスが唇に指を当ててあせっている。流石に中等部や小等部の生徒も僅かではある

が利用している場所では、好ましくない単語だからだろう。

ははは、と照れ笑いしながらローレンスが女性陣の方にも説明する。

「いやほら僕はてっきり二人が付き合っているものだと思っていたから、一応持ってきてたんだけど・・・その、

相手がいる人に使ってもらえたらいいから。それと一応モニターってことにはなっているけど、まず間違いな

く機能するので心配は要らないっていうか」


いや、心配しなくていいとかそういう問題じゃなくて!

ディーンったら、仮にも学園でそんなもの配るなんてーっっ!!

男同士の内緒話で済ませたかったらしいローレンスだったが、こうなってしまっては致し方なく。女性陣の非

難の眼差しを受けながらも流石に堂々としたものだった。


驚いたものの、そこは年頃の男の子。スティングもすぐに平静を取り戻すと、

「じゃあ、スティール試してみる?」

「やなこったっ!」

いかにも突っ込んで欲しそうな口調だったので、軽くチョップしながらスティールはすかさずかわす。

ところが、隣のテーブルからサンドラがおずおずと声を掛けてきた。

「あ、あの、良かったら私が」

「はいぃ!?」

スティング、スティール、ビクトリアの三人が同時に驚愕の声を上げる。

間違ってもそんな冗談をいうタイプではない少女は、恥ずかしそうに、しかし真剣な瞳でスティングを見つめ

ていた。

「え、と。・・・ていうか。マジで?いいの?オレと??」

半信半疑のスティングに、こくこくと頷くサンドラ。やがてまた赤面したスティングにスティールのボディブロ

ーが入った。

「いいわけないでしょ!」

ぐはっと体を折るスティング。

「そういうことはしかるべき手順を踏んでから至るべきであって」

本気で痛がっている少年をきりりと見据えてきっぱりと言い切る。

「まずはちゃんとお付き合いをはじめなさーい!」

「・・・ま、マジですか・・・・・・」

冗談では済ませてくれそうにない少女の様子に、涙が出そうなスティングだった。

「ほほう、お付き合い・・・ねぇ」

今まで存在感を故意に薄くしていたビクトリアが、ごおおと炎のような怒りのオーラを纏いつかせて、体ごと

スティングの方に向き直った。

焔のようなショートヘアーが今にも逆立ちそうな剣幕である。元々細い目が更に細められギラリと光った。

「それなりの覚悟があってのことだろうな?スティング・レスター」

ぽきぽきと拳の関節が鳴る音がする。

「そ、そんなに真剣になるなよ!冗談だろっ」

特別に習っているわけでもないのに、格闘技の授業では教師以外に勝てるものがいないという抜群のセン

スを持つビクトリア・オースは、運動神経抜群の少女である。

調理好きなサンドラとは、光と影のようにいつもつるんでいることで有名だが、運動部に所属している為放

課後は調理室に現れることもなく、出番が遅くなってしまった。

「御誂え向きに次の授業私たちのクラスは格技だな?」

不適な笑みを浮かべて腕組みするビクトリアに向かって、「勘弁してくれよ〜」と両手を合わせるスティン

グ。

「私の屍を越えてゆけ!」

ぴしりと少年を指差すビクトリアを見た瞬間、溜まらずローレンスが吹き出した。それまでも肩を震わせて笑

いを堪えていたのだが、真剣な少年少女たちの様子に水を差さないようにかなり努力していたらしく。それ

でもここにきてどうにも抑えきれなくなったようである。

「ほ、ほんと、ごめん・・・!」

息も絶え絶えに謝りながらも、押し殺した笑い声はしばらく治まりそうにもなかった。





放課後になり、週末のお約束になりつつある図書館での時間を過ごすために早足で向かうスティールがい

た。

午後の授業は不審者対策の関節技実技だったため、半ば強制的にビクトリアの相手をさせられたスティン

グは満身創痍の体たらくで、サンドラに慰められながら帰宅したので、今日こそは誰にも邪魔されない予定

だ。

あの二人、うまくいくといいなぁ。

スティングの心中など知る由もない少女は、呑気にサンドラの恋の成就を願っている。

IDをかざして入館し、まずは先週と同じく機械工学のコーナーで品定めした。天井を仰いで見たが、今日は

リフターの姿も見えず、ローレンスは来ていないらしいと少しがっかりする。

昼休みに会ったばかりだけれど、個人的にゆっくり話が出来たわけでもないし、なんだか物足りなく思って

いた。

といって、一人で会ったからといって何を話そうという予定もないのだけれど・・・。

ただ、顔が見たいなと思った。

ぱらぱらと本の中身を検分したものの、気が乗らず、今度は児童書コーナーに足を向けた。そちらのコーナ

ーの一角には4畳ほどの土足厳禁の休憩コーナーがあり、毛足の短いカーペットとクッションに座ってゆっく

り読むことが出来るのだ。

知る人ぞ知るスティール一押しの癒しスポットである。

はた、と足を止め、仕切りも扉もないそのコーナーに横たわる人に気付く。

壁に左肩をつけ仰向けに寝転んでいる男性は、腹の上で軽く手を組んで目を閉じている。白いクッションに

艶やかな黒髪が広がり、天窓からやわらかく降り注ぐ光がスポットライトのようにその美貌を照らし眠り姫も

かくやという雰囲気に包まれていた。

声を上げそうになり、両手で自分の口を押さえる少女。

もしやまた何事か起こったのかとそっと足音を忍ばせて近寄り、革靴を脱いでカーペットに上がると傍らに

膝をついて呼吸を確認する。

殆ど息遣いも聞こえない静かさだったが、上から3個目まで外してくつろげられたシャツの下の胸はゆっくり

と上下していた。

「びっくりした・・・」

思わず漏れた声にもローレンスが目を覚ます気配がないので、安心してぺたりと座り込む。

こんな風に目を閉じて横たわっているのを見ると、嫌でもあの〈銀の界〉での最後を思い出してしまう。

「ディーン」

囁いて呼びかけて。

どんどん冷たくなっていく体を抱きしめて見守るしか出来なかったあの時。

それを思えば、こうして傍にいられる今、どんなに幸せなことだろう。


「私を探して欲しい」

「・・・どうやって?」

「どうやってでも」


「全身全霊を掛けて、今度は自分の体できみを抱きしめるよ。だから」



映画館で最後に交わした言葉、ちゃんと覚えてるよ。

あたし、約束果たしたよ。ディーン。

この世界に生まれてきてくれてありがとう。

こんなにすぐ傍にいたのに、遅くなってごめんね。


「あたしね、ディーン。あなたに再会できたら、きっと記憶もすぐに戻って、以前みたいに笑いかけてくれるっ

て思ってたんだ・・・でもね」

思わず唇から紡がれてしまう、今気付いたばかりの気持ち。

「あなたはずっと寂しくて辛い経験をしてきて、それなのにあたしとシャールを助けてくれて、そのせいで命

まで散らせて仕舞って・・・。あたし、どれだけ謝っても感謝しても足らないの。シャールもきっと同じ・・・。だか

らね、今は思い直したの。

そんな記憶、戻らなくてもいいって。

ディーンが今幸せなら、あたしのことなんか思い出さなくていいよ。

もう一度出逢えた、それだけでもう十分だから。

だから・・・・・・」


長い睫毛を震わせて、深紫の瞳が少女を見上げた。

小さな声とはいえ、枕元で語られたら目も覚めようというもの。いつから気付いていたのか、それともはなか

ら眠ってはいなかったのか、ローレンスは床の上についたスティールの手に自分の手を重ね、上半身を起

こした。

「どうして泣いているの」

言われて初めて、自分の頬を涙が伝っていることに気付いた。ポケットからハンカチをと思ったが、重ねら

れた手を振り払うのも気が引けてしまい、ぱちぱちと瞬きだけした。

「きみの涙は・・・胸が締め付けられそうになるよ。何故だろう・・・」

思案気に眉根を寄せて、ローレンスはゆっくりと指先でスティールの涙をすくった。

「考えなくていいの、思い出さなくていいの・・・あたしが欲しかったのは、きっとカフェテリアでのみたいな楽

しい時間だから・・・・・・。だから、また笑って?」

ふわりと、スティールは微笑んだ。涙の跡は消えてはいないが、少しの努力で実現した。

ディーンに話しかけていたその口調のままだったことに本人は気付かず、ローレンスは口元を綻ばせた。

「うん。じゃあきみもまたそんな風に話しかけて?」

「え?やだ、あたしったら」

赤面して手を引こうとするところをぎゅっと握り直されてどうにも身動きできなくなる。

「あ、あの、ローレンス、さん?」

「違う違う」

ふるふると首を振り、さっき言ったでしょと続ける。

「さんは要らないし、きみが呼びたいならディーンと呼べばいい」

「ローレンス・・・?」

頷いて、「とにかくそんなにぎこちなくしているより、さっきみたいなのがいい」と笑う。

「約束。次会った時も、さっき話しかけてくれたみたいに普通にしゃべって」

ああ、そうか。

ぼんやりと推察するスティール。

もしかしたら、ローレンスには『普通に』おしゃべり出来る友達は少ないんじゃないかと。

当たらずとも遠からずではあるが、たった今の状況でいうとローレンスはその意味でスティールにそう言っ

たわけではないのだが。


ローレンスの胸ポケットで携帯端末が振動した。またアンジェラからの催促であろう。

名残惜しそうに手を離しながら、「きみの端末、貸してくれる?」と言われ、素直にスティールは手渡した。

自分の端末を操作してスティールの方の画面も確認すると、

「僕のプライベートナンバー入れといたから。また会おう」

はい、とスティールに端末を返すと、ゆっくりと靴を履いて立ち上がった。

「会議ばっかりで嫌になるよ」

バイバイ、と手を振って去っていく後ろ姿に慌てて呼びかける。

「ローレンス、またね!」

振り向いたその人がもう一度手を振り、スティールは大きく右腕でバイバイの仕草を返した。


このさよならは、また会うためのさよなら。

だからもう寂しくないよ。


もう、会おうと思えばいつだって・・・とはいかなくても、すぐに会えるんだよね?



「不思議な子だ」

くすくす笑いながら、ローレンスは迎えに来たアンジェラのリニアカーに乗り込んだ。

どうしてか自分のことを『ディーン』と呼ぶ少女。

話の内容からして、どうやら自分はその人の生まれ変わりだと思われているらしいけれど。

「きみは『生まれ変わり』を信じるかい?」

怪訝そうに顔を盗み見ているアンジェラに問うてみる。

「生まれ変わり・・・私は信じてはいないけれど、文献によると例はいくつか残っているわね。本人しか知りえ

ないような過去の具体的な記憶を持っている人が、稀に生まれると」

綺麗に整えられた爪を顎にあて、やや思案しながらアンジェラが答えた。

「記憶喪失とは違うから、何かのきっかけで思い出したとしてもそれまでの記憶もなくならないんだったよ

ね?」

「ええ、そうね」

頷き、また新しい研究でも始めるのかと興味深そうに青い瞳が煌いた。


だとしたら。

もしもあの少女の言葉の通り、僕が『ディーン』なのだとしたら。

彼女とどんな経緯があったのか、思い出してみるのもおもしろいかもしれない。


「なんだかまた悪巧みしている表情ねぇ」

おお怖い怖い、肩をすくませながらも有能な秘書は楽しそうである。

「失敬な。僕がいつ悪巧みなんてしましたか」

にやりと唇の端をあげるその笑い方は、その他大勢の前ではしない表情であることをアンジェラはようく心

得ていた。


では。

全く未知の分野ではあるけれど、新しいお楽しみも出来たことだし。

「今夜こそはゆっくり眠りたい気分なんだけど・・・」

あの少女について想像を巡らせると、なんだか幸せな夢が見られそうだった。

「そうねぇ、会議の後夕食を摂って、集まったデータの集計をして、それからならば」

「データの集計くらい僕じゃなくても出来るでしょ」

「あらあら、珍しく人任せなのね?」

「人じゃなくても機械任せでもいいよ。さっきちょっとだけ転寝したけど、そろそろちゃんと眠りたいから、もう

今夜こそは邪魔しないでよ」

「承知いたしました」

にっこりと微笑んで、アンジェラは「では」と付け足した。

「明日にでも私も休暇を頂いてよろしいでしょうか」

「いいんじゃないの?」

理由もなくアンジェラが休暇申請などするのは初めてのことなので、驚いたものの即答するローレンス。

「アンジェラこそ、なんか悪巧みしてるんじゃないの」

肩をすくめて見せる主に、うふふと艶のある笑いを返す美人秘書兼ボディガード。

「たまには若い子を誑かしてみようかと」

うわ、その相手可哀相にと、本気で目を見張ってしまうローレンスだった。




取り敢えずFin.?




































読んでいただいてありがとうございます! 前作と続編がありますので、ご要望があれば投稿したいと思います。

ブログで毎日連載しているのですが、試みにこちらの方に先に完結品をUPしてしまいました(笑)

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