第六話(完) 永訣の時
ヒールの音を聞き、修也は背骨につららを突っ込まれたような感覚に襲われた。
身体が直感する。
喪服の女。あの日、自分をあざ笑うかのように、辻占の結果をかき回し、柳澤曰く美術部における自分の「暴走」を見守っていたという、クラブのジャック。
足音が徐々に近づいてくる。修也はもはやガラスを必死に拭きながら、じっとボードをにらみつけていた。
動くわけにはいかなかった。あの「辻占」もカラスの加護があったとはいえ、足音相手に業を煮やして、禁を破るきっかけを作ったことに違いはないのだから。
耐える。
耐えなくてはならない。
きっと、それが自分に与えられた試練。
コツコツコツ……。
近づいてきている。しかし、どれほどの歩幅で歩いているのか、一向に通り過ぎる気配はない。あの時と同じだ。線香の臭いが、鼻の奥をくすぐり出す。
コツコツコツ……。
耳元からと言っても過言ではない。近過ぎて、出所すらわからない。ひたすらガラスをこする手の感触が、自分が生きていることを伝えてくれる。
コツコツコツ……。
肉体を越えて、脳みそに達した。そう感じるほどの響き。もはや外からなのか、内からなのかもさっぱりだ。でも動くことはできない。声を出すこともできない。
もし、わずかでも顔を動かしたりして、声を出してしまったりして。
奴の顔がそばにあったとしたら。
奴が自分の顔を覗き込んできたとしたら。
その瞳を見つめ返してしまったとしたら。
自分は二度と戻ってこられない。そんな気がするから。
――やばい、やばい、やばい。どうすればいい?
思わずぎゅっと目をつぶってしまい、次の瞬間には後悔した。
つぶったということは、開かなくてはいけないということ。
開くということは、奴の待ち受ける、地獄の門のうちに飛び込むということ。
それを防ぐただ一つの方法は、ひたすら目をつぶり続けるということ。
そしてそれは、生きている者には、とうてい不可能だということ。
あの時代劇の大将のように、完全に自分は追い詰められた。しかも大将のように別れを告げる人もなく、介錯をする者もなく、この炎天下の中を、自分が何より嫌った汗と汚濁にまみれて、最期を迎えるのだ。
――嫌だ。そんなの絶対に嫌だ! 誰か、誰か助けて! 助けてくれ!
垂れ落ちる汗が、閉じた瞼の間から内側に入り込み、眼球が悲鳴を上げる。その猛攻に耐えかねた神経が、ついに閉じられた壁を開放しようとした刹那。
「おかピー!」
救い主の声がした。間違いなく、彼女の声だ。
しかし、これが彼の冷静さを急激に取り戻させることになった。
「綾野か! 本当に綾野だろうな!」と思わず聞き返す。
ここで油断した自分を容赦なく絡めとる。怪異によくある話だ。ヒールの足音は消えたし、瞳は限界に近いが、どうにか耐える。
「綾野だよ! 綾野誠子だよ!」
「俺たちがここでしていたことは?」
「辻占!」
「俺が引いたカードは何だ?」
「クラブのジャック!」
「俺の頭を汚したのは?」
「カラスの糞!」
「ラストだ。辻占で五番目に通ったのは、どんな奴?」
「そんなのわかんないよ! だって自転車で七人一緒に通ったもの!」
間違いない。修也はようやく瞳を開いて、声の出所へ顔を向ける。
目にクマができているが、セルフレームの眼鏡と、やや赤みがかった茶髪のショートボブ。そして、ジャージ姿の、あの日と同じ、だがこの上なくありがたい女神が、すぐそばに立っていた。
先ほどまで感じていた、喪服の女の気配は、文字通り霧散している。線香の香りも、もうしない。
「助かったあ」と修也は路上であるにも関わらず、その場にしりもちをついてしまった。
潔癖だの、汚れるだのと、今は関係ない。ひたすら、安心した。
「ごめんね、おかピー。今まで連絡ができなくって、どうしても占いの結果を信じたくなくって、色々な占いに集中してたの」
「いいって、いいって、……良かった、本当に良かった」
安堵からか、涙がボロボロ流れた。親友が転校した時も、小学校を卒業した時も、小さい頃から飼っていた犬が死んだ時も流さなかった雫が、ジャージの胸を濡らす。
誠子は黙って、ウェットティッシュを取り出して修也に渡した。遠慮なく修也はウェットティッシュで涙と、真っ赤になった顔を拭う。
ようやく、落ち着いた。
「ありがとう。マジでありがとう。助かった、綾野」
「や、やだなあ、おかピー。照れ臭いよお」と誠子は顔を赤らめながら、両手を顔の前でぶんぶんと振った。
「『耐えがたい苦痛』。現実になっちゃったんだよね。ごめん、おかピー」
再三、頭を下げる誠子。
「もう、勘弁願いたいぜ。でも来てくれたってことは、何か策ができたんだろ? 聞かせてくれ」
「それは……」
「おお、この炎天下に掃除か。ご苦労なことじゃ」
二人が声のした方を向く。腰が曲がり、杖をついた老人がそこにいた。
「なんと、掲示板の掃除とな。じゃが、もう必要ないぞい」
「必要ない……?」
「そいつは七月中に撤去されるでな。もう数日しかそこにいないんじゃ。じゃが最期に身を清められて本望じゃろう。ありがとうな、お前さんたち」
老人は悠然と去っていった。
「撤去される、か。初耳だったな」
「ね、おかピー。試してみる?」
誠子がいつの間にか、トランプを取り出していた。
「また占いか? それより策を……」
「これが、その策だよ。一発勝負。またストップをかけて」
誠子は少し距離を取ると、ヒンズーシャッフルと、リフルシャッフルを繰り返す。
なぜ回りくどいことをするのかわからなかったが、誠子の占いは侮れないものがあるのは立証済み。
「ストップ」
修也が止めると、誠子は一番上のカードをめくった。そして、かすかに微笑み、修也に見せてくれたのだ。
スペードのエース。トランプゲームによってはオールマイティになり得るこのカードは、誠子の占いでも特別な意味を持つ。これが辻占だった場合の解釈はこれだ。
「このカードを引く直前に会った者は、真実を語る者である」
「綾野? それに浜岡も。休むんじゃなかったのか?」
学校の昇降口に来た二人は、柳澤と鉢合わせした。
「すいません、委員長。確かめたいことがありまして、マスターキーを借りられますか?」
「急ぎの用か? なら、俺も一緒に行くぞ。掃除が終わって時間があるし」
三人は校舎の中を歩きだす。目指すのは、修也と臭いが出会った、最初の場所。
三階の踊り場。そこにたどり着いた時、修也はすぐに変化に気づいた。
掲示板に貼られていた美術部のポスターが、はがされている。
続いて、三年一組。修也が「即消毒」。綾野が「問題なし」と判定した教卓。
それが影も形もなくなっていた。
そして、部室棟の美術部部室。
柳澤がマスターキーで開けたところ、一昨日に柳澤と二人で作った美術館は、ウソのように空っぽとなっていた。
柳澤がつぶやく。
「用務員のおっちゃんがな、きのう全部かたしちまったらしい。せっかく掃除したのにもったいない気もするが……すがすがしい、新学期のためってわけかねえ」
――そういうことか。
修也はようやく腑に落ちた。
あの臭いは、決して自分を苦しめようとして、発せられたものではなかった。処分され、この世に永遠の別れを告げる、ちょうど「死刑」を申し渡された者たちの、最期の未練や慟哭だったのだ。
清い身体。それが叶わないなら、清い場所、清い空気に包まれて逝きたい、という最期の願い。
修也に与えられた「耐えがたい苦痛」とは、自分に対する痛みではなかった。
捨て去られる道具たちの介錯の手助けをすること。その最期を看取り、彼らの思い出を心に刻むこと。それに伴う痛みを指していたのだろう。
修也は胸が詰まった。自分が掃除をするのは、あくまで自分の潔癖のためだった。穢れたものに存在してほしくないから、自分の視界から消え去ってほしいから、戦い続けてきた。
しかし、それで救われていたのは自分だけではなかったのだ。結果として、きれいにしてもらったものたちも救われていた。
彼らは修也を宿敵と思うどころか、無二の恩人であると、そう感じてくれていたのだ。
そして自分たちのこの世で最後の晴れ舞台を、かけがえのない友に飾ってもらうために、修也を呼び寄せたのだ。たとえ彼に嫌われてでも、最期まで彼に構ってもらおうと思って。
その思いに、自分は「つかれていた」のだ。
「だから、あの時、もう一度俺だけを呼んだんだな。俺に最後に触れてもらいたくて……すまねえ。お前らの気持ち、わかってやれなかった。ただ俺にとって気に入らない奴を片づけようとしか考えてなかった。ごめんな」
修也は鼻をならして、そう、ひとりごちた。
「なんだか、ようわからんが、吹っ切れたようだな」
柳澤が頭をかいた。
「ま、解決したなら何よりだ。うしっ、二人ともラーメン食いにいくか!」
「ゴチになりまーす、委員長!」と誠子。
「ちょっ、自分で払え! おごるとは言ってねえぞ!」
「いいでしょう、ならトランプ一発勝負。黒のスートを引かれたら、諦めましょう。赤のスートを引かれたら、おごってもらいます」
「おい、どう考えても、何かおかしいんだが!」
「あー、女の子の頼みを断るんだー。へー、ふーん。泣きますよ。恥も外聞もなく泣きわめきますよ。『委員長に泣かされたって』わめき散らしますよ」
「今日ほど、お前が女で憎たらしいと思った日はないぞ……」
柳澤と誠子が、漫才をしながら階段を降りていく。その後ろに続きながら、ふと修也は美術部部室を振り返った。
黒のアンサンブル。線香の臭い。その双方をまとった女性が、部室の前に立っていた。
長い髪に隠されて表情は伺えない。だが、修也に向かって小さく、その右手を振っていた。あたかも、お礼をするかのように。
きっと、あれは修也にどうしても構ってもらいたかったものたちの、負の感情の塊。自分を何が何でも呼び寄せるという強い意志。おそらく、予定通りに自分が来なかったことで、それが学校の外に漏れ出して、あの掲示板に……。
修也は軽く手を挙げて、応えた。
これから先、また、あの「臭い」たちに出くわす時が来るかもしれない。
でも、自分は逃げずに、それの向かっていこう。
今度から憎悪ではなく、愛情を持って。
この「臭い」は、自分にその大切さを伝えるために、死を前にしたものたちが起こした、一つの奇跡だったと思うから。
(了)
全六話にお付き合いいただきありがとうございました!