第四話 覚悟
剣道場での臭いなどとは質が違う。人間が持つ、怖気、寒気、吐き気。これらを同時に催す、攻撃的な挑戦。
あの日の「ヤツ」に違いない。しかも、三日前よりもはるかに強烈な臭いで、鼻が曲がりそうだ。
――俺たちの掃除の後に現れるだと……なめた真似を!
部室棟の中に入り、階段を駆け上がる。出所は三階。
臭いを頼りに歩を進めた修也は、一つの部室の前で足を止めた。
美術部の部室。普段は美術室で活動をしているのだが、ここの中身は過去の作品を含めた部員たちの私物が大半を占めている。
それを自分と柳澤がほんの一時間前にきっちりと整理したはずなのだ。
「待て、浜岡……」
「委員長、鍵を。この中です!」
ゼエゼエと肩で息をしている柳澤の手から、掃除のために用意されたマスターキーをひったくる。
鍵を開ける動作ももどかしく、扉を壊さんばかりの勢いで、修也は中へと押し入った。
人一人がようやく立てるかという、狭い道幅だが、奥行きのある中央スペース。両脇の棚には、きれいに整列した画板、絵の具、過去作品たち。
自分たちの努力により、それ自体が一つの美術品であるかのように、等間隔に並べられた道具たちは、先刻と変わらぬ表情で修也の来訪を迎えた。
それらに挟まれたど真ん中の空間に、「ヤツ」はいた。早速、修也は準備に取り掛かったが、柳澤が止める。
「落ち着け、浜岡」
「なぜです? 小癪な挑戦を前にして」
「お前が何を言っているのか、俺にはわからん」
「な……臭わないというんですか! 綾野と同じだと! からかってるんですか、委員長!」
「ああ、何も臭わん」
柳澤は首をゆっくり横に振り、続ける。
「考えてみろ。つい一時間ほど前に、俺たちはここを掃除した。あの時点でお前は何も言わなかった。異状はなかったんだろ。それが今、突然臭いが現れた。この鍵がかかっている部室の中に、ひとりでにな」
「何かが、暑さで一時間の内に傷んだとかでしょう? 美術の道具ならありえなくないはず」
「どうしてお前は、この締め切った部室から、その臭いをかぎ取ることができたんだ?」
修也は思わず固まる。
道場からここまでおよそ二百メートルはある。屋内の窓が全開で風向きも味方するのなら、この悪意の塊とでもいうべき臭いが、届かない可能性はなくもない。しかし……。
ゆっくりと部室内を振り返った。
六メートルほど先の壁に取り付けられた、小さな窓。それは今もぴったりと閉じられていて、一分の隙間もない。
修也が扉を開くまで、ここは完全な密室状態だった。
剣道場も強力な臭いだったとはいえ、柳澤が開くまでは扉越しの数メートルですら、無臭といえるほど臭いは目立たなかったのだ。
――つまり、俺は本当は鼻以外の何かで、この存在に気づいたってのか。
物思いにふける修也の肩を柳澤が叩く。彼の潔癖を考えて手袋越しだったが。
「疲れているんだよ、浜岡。清掃日誌は俺が書いとく。早めに帰って休め」
「そんなことありません。俺はやれます! 元気です!」
『つかれている』。この言葉に修也は反応した。
綾野からもらったメールに書いてあった文句。ここで柳澤の言葉に従ってしまったら、彼女の占いが的中していることを証明してしまう気がする。
結局、我を張り続けた修也は、呆れ半分の柳澤が見つめる中、件の臭い相手に戦い出した。
対処は昨日と変わらない。フル装備の利点を生かし、徹底的に臭いを苛めた。
ようやく終わった時、柳澤は腕を組み、部室とは反対側にはめられた壁の窓から外を見ていた。自分の身勝手で十分以上の時間を拘束されたのだ。誰だって不機嫌になるだろう。
「お待たせして、すいませんでした。委員長」
「うん? ああ……」
どうにも気の抜けた返事だった。無視されるか、苛立ち混じりの文句をぶつけられるものと覚悟していたのに。
柳澤は大きな図体をわずかに揺らして、言葉を続けた。
「ちと、気になる人影がいた」
「人影、ですか」
「学校外のフェンス越しに、たたずんでいた。距離があって定かじゃないが、たぶんこっちを見ていたぜ。お前が掃除を始めてすぐ、本当についさっきまで微動だにせず、じいっとな」
修也も柳澤の見つめる方向を見たが、フェンスの向こうには、車がようやくすれ違えるくらいの幅の車道を挟んで、見慣れた民家が立ち並ぶばかりだった。
「ちょいと目を離した隙にいなくなっちまった。目の錯覚じゃないと思うんだが、やけに黒かった」
「委員長……服装はわかりましたか」
修也の頭に一抹の不安がよぎった。クラブのジャック。あれが導き出したものを。
「たぶん、喪服だな。葬式帰りなのか……どうした、浜岡? 顔色が悪いぞ。やっぱ疲れてんじゃないか」
「い、いえ、何でもないです。あがります」
首を傾げる柳澤を尻目に、修也は足早に階段を降りていく。
――疲れているどころじゃねえ。まさか、本当に……。
綾野の携帯電話は、まだつながらない。
四方を警戒しつつ、家に戻った修也は、洗面所に飛び込んだ。
ジャージに「ヤツ」の臭いが染みついている。こいつをこそぎ落とさねば、寿命が何年あっても足りない。断言できる。
――ちくしょう……ちくしょう! 一体何なんだよ!
直に石鹸をこすりつけ、予め溜めておいたぬるま湯に袖を浸しながら、修也は心の中で毒づいた。
誠子も柳澤委員長も、臭いはしないと言っていた。
二人の様子を見る限り、グルになって修也を出し抜こうなどという下劣さは感じなかった。「指示待ち」と「変態」の差はあれど、二人の清掃にかける働きと情熱が自分に劣っているとは思えない。修也をはめたところで、何のメリットもない。
そして、自分の異常な嗅覚――いや、この際、第六感といった方がいい――は物理的な壁と距離を飛び越えて、美術部の部室にはびこる「ヤツ」を感じた。誠子のメール通り「つかれている」が「憑かれている」ことを指すのなら。
――あの、喪服の女。
修也が止め、誠子が引いた運命。クラブのジャック。
それによって、「召喚」されたあいつが、この事態を引き起こしたというのか。
だが、待てよ、と修也は思う。
自分はあいつを目にする前から、学校内の「ヤツ」の臭いに気づいた。当然、あの喪服の女が予め仕込んでいたのなら、大変にご苦労なことだ。
修也の憶測に過ぎないが、あの喪服の女は「兆し」。きっと、「原因」が別にあるのだ。それを追求した先に、この事態を収束させる何らかの答えがあるはず。
――綾野。
修也はジャージ洗いを終えて、その上下をハンガーにかけると、携帯を取り出す。
通じなかった。
――く、肝心なところで役に立たない奴!
思わず、携帯を放り捨てようとしたが、すぐに思いとどまる。
――待て、落ち着け。元はといえば、俺が起こした事態じゃねえか。あいつは本来、見捨てたって構わない俺にわざわざ忠告してくれた。底抜けのお人よし。それを自分にとって都合が悪いだけでカス呼ばわりなんて、俺の方がカスじゃねえか。
自分のケツは、自分で拭う。あの時、決めたことだ。
――まだ、綾野は頼れない。それどころか、あいつも俺とは別の形でおかしな目に遭っているかも知れねえ。大丈夫だ、俺はまだ身体は動くし、頭も働く。明日をも知れない命ってわけじゃない。あいつに頼るのは、俺自身が策をひねり出して、それが全て破られてしまった時だ。気張れよ、浜岡修也!
修也は薄気味の悪さを振り払うべく、気合を入れた。
最近は個人情報保護が叫ばれたせいもあり、修也は誠子の住所はおろか固定電話の番号すら知らない。携帯しか連絡手段はないのだ。
彼女の現状がわからない以上は、自分で何とかしてみせる。次の自分のシフトは二日後だ。
本日は、この投下で終了です。
続きは、近日中にアップ予定。
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