第二話 不穏は足音と共に
二人が職員室に待機している美化委員長に報告を出した時には、すでに時計は三時を回ろうとしていた。
「やけに遅かったな」と委員長はけげんそうな顔をしたが、修也が臭いの件を話すと、いちおう納得はしてくれた。修也の潔癖は、美化委員のなかでは少なからず共有されているものだからだ。
校門を出ると、修也は約束通り学校前の自販機で誠子にジュースを買ってやった。
修也は極薄のビニール手袋を手にはめている。少し前は事あるごとにウェットティッシュで拭きまくっていたが、親にティッシュ代は出せないと言われ、しかたなく、普段は使いまわせる手袋で我慢していた。
プルトップが開けづらいので、自分が飲む時にはもっぱら蓋を回すタイプのビンを選んでいる。
「おかピー、大丈夫? 犬みたいだよ」
サイダーを一気飲みして、あたりをはばからない大きなゲップを出した誠子が、まだ鼻を動かしている修也に声をかけた。
長い髪は仕事の邪魔だといって、彼女の髪型は入学当初からショートボブだ。
「どうやら、臭いがついちまったみたいだ」
袖をくんくん嗅いでいる修也のそばで、誠子もすんすんした。
「あたしはそんなに気にならないけど」
「実を言うと、綾野も臭うぞ」
「うそぉ?」と誠子は自分の腕を嗅いでいたが、あんまりしないよ、と少しむくれた。
「おかピーはデリカシーが足りないんだから」ともブツブツ言っている。
二人は入学してから、同じクラス、同じグループ班、同じ部活に同じ委員会と来ている。帰り道も途中まで同じだ。一部では付き合っているんじゃないか、と噂もされるが、当の二人にその気はない。
修也の関心は潔癖にあり、誠子の関心はというと――。
「それじゃ別れる前に、綾野誠子の占いタイム!」
サイダーの缶をくずかごに放り込んだ彼女は、高らかに宣言する。目が輝いていた。
「相変わらず、唐突だな」
「いいのいいの、最近は絶好調なんだし。あの交差点でやるよ」
誠子が前方の交差点を指さす。彼女がハマっているものは、占いだった。それも手軽にできるやつが好きなようで、一学期の中頃くらいまで、手相占いとかお天気占いとかをしていたが、七月に入ってからは「辻占」に凝り始めた。
日本古来よりある占いの「辻占」は、本来は黄昏時に「辻」、つまり交差点に立って、そこを行き交う人々の言葉から、吉凶を占うというものだ。
だが綾野誠子のものは、時間を問わない。そして言葉ではなく、行き交う人の、服装、荷物、連れの人などから判断するものだ。
「きりのいいところでストップをかけて」
歩きつつ誠子は通学用カバンから一組のトランプを取り出し、シャッフルを始めた。出た札で何番目の人を見るかを決めるのだ。
修也がストップをかける。誠子がその時の一番上の札をめくると、クラブのジャックだった。
誠子流の解釈だと、「十一番目に、視界を右から左に横切った人」ということになる。
ほどなく、二人は十字路に差し掛かった。彼女の辻占は信号機のない十字路で行う。
修也たちは幅が約三メートルの歩道に並んで立った。
正面はまっすぐ道が伸び、五十メートルほど先に車用の信号機が見えた。交差する道はどうかというと、二人のいる道路に対して、やや斜めに交わっている。ちょうど上から見ると、道路が「メ」の字になるような形だ。斜向かいはそれぞれ民家になっており、しっくいの塀と家が立ちはだかっている。
誠子流の辻占には、あと二つルールがある。
一つ。視点を一度決めたら、固定して動かさないこと。左右はもちろん、上下に動かすのもだめ。
一つ。どのようなことがあろうとも、決めた人数が通るまで、体を動かしたり、声を出したりしないこと。
このルールを守らないと、占いの結果が芳しくないものになるか、直接的な不幸に見舞われるそうだ。同行者にもこのルールは適用されるらしいので、しぶしぶ修也も従うことにする。
以前占った時には、開始直後に自転車の兄ちゃんがベルを鳴らしてきたことがあったので、二人は自然と歩道の隅に寄った状態だ。
「おかピー、始めるよ?」
誠子が合図する。彼女の辻占は何を占えるのかが安定しないのが難点だ。今までの一番の収穫は、三日後に地震があると言われ、実際に震度二の地震があったことだろう。
二人は、じっと正面を見据えて動かなくなる。三人ほど通った後、七人の少年たちが自転車でまとまって、目の前の道路を横切っている。これはすぐに終わるかと思ったが、そこから、ぱたっと人が通らなくなった。
夏の太陽は四時近くても暑い。照り付ける光が二人の肌を刺す。修也は自分の汗がじわじわ服に染み込み、生地が肌に張り付いてくる感触に、必死に耐えていた。
一刻も早くこの場を離れたい。だが、実行すれば明日以降の誠子との付き合い方を考えねばならないだろう。
今まで距離感が近かった男女が、唐突に離れたと聞けば、ゴシップに飢えたクラスメイトどもの邪な視線にさらされることは間違いない。不快だ。
そのような考えがよぎった時、ふと先ほどから鳴き続けていたアブラゼミたちが、一斉に黙り込んだ。代わりにヒールが、アスファルトをこする甲高い音が聞こえる。右手からだ。
音はだんだん大きくなってきた。だが、何かおかしい。
確かに近づいてきているのに、一向に姿が現れないのだ。すでに音が聞こえ始めてから、五十歩以上は歩いている。
六十歩、七十歩……まだ姿は見えない。気配は感じるのに、その主は現れない。だが、視線は動かせない。我慢比べだ。
もう百歩を越えた。おかしい、おかしい。どこを歩いているんだ。早く、早く。
その時、「あっ」と修也の声が、禁と拮抗を破って漏れた。
頭の上で跳ねる粘体。とろみを帯びた生臭さ。遠ざかっていく、聞きなれた黒き翼の喚声。
こともあろうに、凶兆の印が修也に切なる加護を垂れたのだ。思わず手を伸ばしかけたところで
「おかピー!」誠子の必死の叫びが、どうにか彼を押しとどめた。が、
コツコツコツコツ……。
足音のテンポは突然、上がった。そして次の瞬間には足音の主は二人の目前を横切って行ったのだ。とても歩きのスピードとは思えない。
女だ。長い黒髪。葬儀の帰りなのだろうか、極力、肌をさらさない黒のアンサンブルをまとっている。距離があるにも関わらず、線香の香りが漂ってきた。手荷物はなし。
十一人。これですべてが通り終わった。大して時間は経っていないはずなのに、先ほどまで強烈に照らしていた太陽は、どこからか湧いた雲に隠れて見えなくなっていた。
途端に辺りの妙な暗さを感じ、修也は身震いする。夏の四時とは、これほど暗いものだっただろうか。
「わりい、綾野」と修也は謝りながら誠子に振り向いたが、彼の言葉をかき消すほどの声で彼女が言った。
「――帰って!」
普段の彼女とは、別人のような鋭さだった。紙さえ切れそうな気さえする。
「だから、悪かったって……」
「帰ってよ! 早く!」
「な、なんだよ。人が謝ってんのに」
「おかピー! 帰れ!」
「う、うっせーな! 帰ればいいんだろ、帰れば! この占いバカのバカ綾野!」
付き合っていられなかった。修也はそのまま十字路を突っ切ると、まっすぐに家に向かう。彼女の方を一度も振り向くことなく。