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第一話 異変は夏休みと共に

※この作品には、つぶらや独自の解釈が含まれています。現実にそぐわぬ点もございますので、リアリティを何よりも大事とされる方は、ご注意ください。

「うわ、くっせえ!」


 中学一年の浜岡修也は、校舎の三階に上ろうとした時、その一言と共に鼻をつまんだ。

 夏休みの中学校。「学校をきれいにしよう! 過ごしやすい環境をみんなで作ろう!」などという、一世代間違えたかのようなスローガンを掲げる修也の学校は、美化委員会に召集をかけたのだ。

 長期の休みの間、定期的に登校して学校の美化に努めること。このようなことを言われたがために、休み前で委員を抜けた奴は、一人や二人ではない。そして、残ったのは仕事と割り切って動ける連中か、掃除が心底大好きな連中。ようするに、「指示待ち」か「変態」だけというわけだ。


 修也は「変態」の部類だった。潔癖の目覚めと言っていい。中学生になったとたん、自分のものを誰かに汚されることが気に食わなくなったのだ。今日着ているジャージも、洗濯機に入れずに、わざわざ手洗いしたものだ。加齢臭のする親父やお袋の下着などと一緒に洗われたりなぞした日には、「おお」と身震いする。

学校という共同生活の場は、同時に不潔の集合でもあるので、修也との戦いが避けられないのも当然だった。

 休みに入る前、学校と修也はほぼ互角の実力。修也にとっては必要とあらば、そこがたとえ女子トイレだろうが、消毒の対象に違いなく、有象無象の女子どもに叩きだされようともためらいはなかった。

 修也の立ち去った後は、チリ一つ残らない聖域。修也のいない場所は汚れにまみれた腐海。彼と学校はイタチごっこを繰り返しながらも、仲良く一学期を終えたはず、だった。

 しかし、夏休み初日の本日正午。修也は学校からの激烈な先制パンチを、鼻先に叩き込まれたのである。


「マスクしてんのに臭うとか、どんだけだよ」


 思わず愚痴ってしまったが、退くわけにはいかない。ワックスこそ持たせてもらえなかったものの、ほうきにちりとり、モップ、クレンザー、重曹、消毒用アルコール、バケツに雑巾を装備しているのだ。武器を満載しての敵前逃亡ができるほど、浜岡修也はヤワじゃない。

 階段を一段一段上るたび、臭いがどんどん強くなってきた。単なる刺激臭と断じることはできない。この臭いは、体育の後の更衣室の臭い。台所のシンクに溜まった生ごみの臭い。いくつもの「おみやげ」によって祝福を受け、何日も放置されたトイレの臭い……その他、もろもろを絶妙にぶち込んだスメルなのだ。悪意あるエッセンスの塊なのだ。


 修也は三階の踊り場に着いた。どうやらここが臭いの発生源らしい。とっとと鼻がばかになってしまえば楽なのだろうが、悲しいかな、修也の鼻はびんびんに猛っていた。

 彼のノウズレーダーによれば、踊り場の向かって右上の隅が、最も臭った。踊り場の正面は掲示板を兼ねている。臭いの源の真上には「持続可能な社会へ! 明日への一歩を見据えよう!」という、不自然に目の大きい漫画チックな美少年と美少女が、同性同士で肩を組んているポスターが貼られていた。

二ヶ月ほど前に、美術部が校舎のあちこちに掲示したものだ。腐った臭いは、絵の中だけにしてもらいたい。

 ひとまず、修也は目の前の不快のもとを取り除くために、道具を広げ始めた。源と思われるところには、直接重曹をぶちまけ、丹念に雑巾で拭き、臭い消しのスプレーも吹きかける。いくつかシミもついており、そこも重曹とクレンザーとアルコールを駆使して、拭いとっていく。モップをかけて空ぶきが終わる頃には、三十分が過ぎていた。


「おかピー、終わったー?」


 階段の下からの声に振り返る。ジャージにマスク、三角巾。掃除装束に身を包み、セルフレームの眼鏡をかけた小柄な少女。同じ美化委員の「指示待ち」、綾野誠子だ。

 仕事が早い女で、今回も自分の担当が終わったのだろう。


「まだ。ちょっと手ごわい奴があって」

「おかピー、熱心だもんねー。手伝おっか?」


 いつもなら「断る」と切り捨てるが、時間を食い過ぎたのも事実。もしも、また同じ臭いに出くわしたりなどしたら、担当区域が終わる前に日が暮れてしまう。


「頼めるか?」

「ほいほーい」


 気の抜けた返事と共に、誠子は上履きの裏の部分を雑巾で拭くと、階段を一段飛ばしで踊り場まで上がってきた。修也の性格を考え、接触面積を少なく、かつきれいな状態に保とうとしてくれている。よく心得ていた。


「あとどんくらい?」

「三階の廊下と階段全部」

「へいへい、おかピーはだいぶ踊り場がお気に入りのようで。んじゃ、階段の残りからね」


 誠子は手近なほうきを取り、最上段まで駆け上がると、ほこりを落とし始めた。彼女としてはとっとと終わらせて、早く帰りたいといったところだろう。美化委員の活動は、全員が終わるまで続くものだからだ。

 二人で掃除をしながら、修也は先ほどの臭いを発している場所がないか探る。あれほどの臭いだ。蓋でもしていない限りはすぐに気づく。

 窓から見えるグラウンドでは、野球部がとんぼがけをしているところだった。この中学校はとんぼがけに厳しく、どの部活でもその動きは、軍隊を思わせる一糸乱れぬ大儀式だ。そのグラウンドに対する敬意の表し方、修也は嫌いではない。

 彼の今日の担当区域は三階の廊下と階段だけで、室内やトイレはやらなくていい。どの教室も締め切っているが、修也は少し戸を開けて臭いをかぎ、異状がなければ閉めるということを繰り返しながら、誠子のあとを追っていた。

 誠子のペースは早い。ほうきと水拭きだけでも三人分の働きをしている。足跡をつけないように、尻を振りながら後ろ向きに水拭きする姿は何とも無防備だ。しかし、修也の興味はそちらにはない。


 廊下の端まで来た時、彼はついに見つけた。三年一組の戸を開けた時、あのマスク越しに臭ったのだ。夏の暑さで存分に蒸された教室の空気と共に、修也の鼻孔に飛び込んだ無遠慮な臭気たちは、瞬く間に彼の肺の中で暴れ始めた。胸がむかむかして、胃の中身さえ逆流しそうだ。

 修也は鼻をつまみ、誠子を手招きする。巻き添え半分と、手助け半分だ。ちょうどバケツの水で雑巾を絞っていた彼女は、すり足で修也のもとに寄って来た。

「嗅いでみ?」と修也が教室の中を指さし、誠子はすんすんと鼻を動かすと、やがて眉をしかめた。


「何がおかしいの?」


 不思議そうな口調で、誠子が言う。


「冗談で言ってんのか? 嗅いでてきつくね?」

「床の木の臭いならプンプンするけど、おかピーが気にするほどかなあ」


 誠子はマスク越しに鼻をこすった。

 ともかく、この悪臭を見逃すわけにもいかず、二人は教室の中に入り込んだ。黒板のチョーク入れや後ろのロッカーも、夏休み中は主のいない休暇状態。時々、主のいない間にゴキブリを始めとする生き物が占拠していることもあるが、すべては知らぬが仏といったところか。

 臭いの出どころは教卓に違いなかったが、修也の評価は「即消毒」、誠子の評価は「問題なし」だった。彼女は修也ほど臭いが気にならないようだ。面倒だから早く帰りたいだけだろうが。

 二人がかりで取り掛かろうと言ったところ、やはりというべきか、誠子は「ほっといていいんじゃない?」と言い出した。修也としては満足できずに、丹念に水拭きを重ねる。最終的に二十分くらいかかり、誠子は文句こそ言わなかったが、腕を組んで不満げな表情だった。


「帰りにジュース一本」


 修也が清掃報告を書いている時に、誠子が要求した対価がそれだった。


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