試供品
買い物のために地元のスーパーに来ていた。
店内は、夕飯前の買い物のために老若男女問わず行き交い、ほどよくにぎわっている。
ベーコンの塊、生乳百パーセントの生クリーム、そして、生のフェットチーネ。
そのみっつを買い物カゴへ放り込む。
他に必要な材料はすでに家に準備できている。
これで今晩はおいしいカルボナーラが食べられる。
このままレジまで直行してもよかったが、冷やかし程度に店内の順路に沿って歩いてみる。
軽く流すように見ていたが、目をひくようなものはとくになかった。
そうして歩いていくうちに通路前方で人波が乱れている。
なにかをよけているようだ。
徐々にその場所が近づいてくる。
そこは飲料品スペースだった。
そして、割烹着に三角巾という姿の若い女性販売員が試供品を配っている。
ちいさな紙コップに入れた炭酸飲料を手渡ししてまわっている。
慣れた感じの鼻にかかった甘ったるい声で、
「新商品の試飲をしていただいておりまぁす」
近くを通る買い物客全員に声をかけている。
前を通ると「どうぞぉ」という台詞とともにボクにも紙コップを手渡して来た。
受け取り中身を見ると、なかに小さな仔ウサギが入っている。
フワフワとした真っ白なウサギが、真っ赤な瞳でこちらを見ている。
おどろきを悟られぬように視線だけで周りの人を確認すると、他のコップにはすべて普通の炭酸飲料が注がれていた。
販売員に確認を取ろうと思ったが、試飲のジュースが置かれた台から半径五メートルの範囲内を忙しそうに配りまわっている。
話しかけるタイミングが、隙がまったくない。
販売員の手が空くのを待つあいだにコップの中を覗き込む。
ウサギもこちらを見つめ返してくる。
ボクから見て、コップを右に回すと左に動かされたウサギが右にチョコチョコ移動し、コップを左に回すと右に動かされたウサギが左にチョコチョコ移動し、前へ傾けると後ろへ身を引き、後ろへ傾けると前へ登り、常にボクの真正面に向いている。
――もしかしたら飲めるのかもしれない。
突然の思いつきに従って、クチを開いて紙コップを傾ける。
途端にウサギが跳ねてボクのヒタイの上に乗った。
おどろきで小さくうめき声を上げてのけぞると、ウサギが落ちそうになる。
それに気づいて、ボクはウサギが落ちないようにバランスをとった。
安定した頭をウサギがのぼっていき、ウサギは頭頂部におさまった。
安心で一息つくが、いつまでもそうしておけるものではない。
頭の上のウサギに向けて、からっぽの紙コップをふる。
ウサギは微動だにしない。
すこしだけ頭を前に傾けて戻るようにうながす。
バランスが悪くなった結果、ウサギは半強制的に紙コップへと戻っていった。
そのとき、
「いかがでしたかぁ」
販売員が、気持ちの悪い声で話しかけてきてくれた。
ちょうどよかった。
「今日は車できているから飲めないよ」
咄嗟の思いつきで出たウソをつき、ウサギのはいった紙コップを販売員へと突き返す。
「そうですかぁ」
貼り付けたような営業用の微笑を浮かべたままコップを受け取り、そのコップをすでに注いであるコップたちと一緒に並べた。
きっと、次の人に渡されるのだろう。
ウサギは、コップの底で丸まりこちらへ背を向けている。