スーパー・オービタル・フライト
友達が死んだ。
◆
僕がバイトを終えて夜遅くに家に帰ると、彼は既に事切れていた。彼はソファーの上で、まるで昼寝でもするような表情をしていた。あまりにも静かな表情をしていたので、初めのうちはまったく気がつかなかった。だが彼の身体に手を触れると、絶対的な冷ややかさが僕の手をすうっと支配した。彼の生命は間違いなく終わってしまっているのだ。
僕はまず困惑して、やり場のない気持ちになった。突然友達が死んだ時、どういう反応をするのが正しいのか、理性的にも感情的にも判別がつかなかったのだ。僕は誰かに助けを求めるように(もちろん僕の家には僕以外誰もいない――今となっては)辺りを見回した。僕の目に入ったのは、いつも通りの僕の部屋だ……電球が切れかかっていることを除けば。ふと目線を下げると、床の上に一枚の紙切れが落ちていることに気がついた。脇にはキャップの閉まっていないボールペンも転がっていた。僕は紙切れを拾い上げて、そこに文字が書かれていることを知った。その文字は乱雑で、力の入れ具合もめちゃくちゃだった。僕は混沌とした気持ちをどうにか抑えて、一つずつ文字を解読していった。ソファーの上には彼がずっと眠り続けていた。
メモ用紙にはこう書かれていた。
「地球の友人として、君に頼みたい。私を宇宙に帰してほしい」
死んだ友達は宇宙人だったのだ。
◆
彼がなぜ突然死んだのか、理由はわからない。ウェルズの『宇宙戦争』のように地球の微生物にやられたのかもしれないし、あるいは地球の水が肌に合わなかったのかもしれない。
いずれにせよ、彼の死は紛うことのない事実だ。そしてそれを知っている――彼が宇宙人であるということも含めて――のは、地球上で僕一人だった。
僕は彼の亡骸を抱えて、床の上に寝かせた。人間と違って、宇宙人の死体は死後硬直もなく、四肢も簡単に動かすことができた。ただ体温が失われ、二度と目が開かないだけなのだ。
彼の死を目の当たりにして、不思議と僕は悲しい気持ちにはならなかった。仲が悪かったわけではない。半年くらいの短い間ではあったけれど、彼とは確かな友情を育んできたと思っていたからだ。彼と過ごした日々も、思い出として昨日のことのように想起することができる。彼は好奇心が強く、僕が地球のことを教えると何にでも楽しそうに反応した。彼は地球のことが本当に好きだったのだ。
あるいは、僕が悲しみを感じなかったのは、彼の今わの願いを聞いて新たな使命感に湧き立ったのも原因かもしれない。僕は、具体的なイメージはまったくないにしろ、彼をどうにかして宇宙へ還してやらなければならないと強く思ったのだ。床に横たわる彼の亡骸を見るたびに、そして柔らかいソファーの上に残った彼の身体の窪みを見るたびに、その気持ちはどんどん強くなっていった。
それに彼の遺言を見たとき、僕は彼と交わした会話の一部を思い出していた。
「母星に帰るための期限がある。だからどんなに楽しくても、地球にずっと一緒にいるわけにはいかないのだ」
「任期があるってわけだね」
「その通りだ。宇宙の中では、地球はまだ若い星だ。宇宙に向けて、地球という星が安全であることを証明しなければならない」
その時はただの世間話だったけれども、今となってはそれなりに大きな意味を持ちつつあった。つまり彼の亡骸が(遺体という形になってしまっているにせよ)母星に帰還しないということは、広い宇宙の中で地球の立場が危うくなってしまうということでもあった。
とはいえ、僕は普通の大学生だ。典型的な文系人間だから、宇宙工学に関する専門的な知識もまったくない。それに現代の地球上の技術で、民間人がそう簡単に宇宙へシャトルを飛ばすことができるとは思えなかった。そうなると必然的に協力者が必要になってくる。宇宙船を建造することができるスキルを持った人間か、もしくは既存の宇宙船を奪取することができる人間か……。
しかも彼との会話の中で、宇宙に還すためのタイムリミットも存在していることがわかっている。だが明確な期限はわからない。今の僕にわかっているのは「期限がある」というただそれだけだ。もしかしたら明日にでもそのタイムリミットはやってくるかもしれないのだ。
絶望的……とまでは言わないが、具体的な道筋は全く思い浮かばなかった。いっそこのまま地球に埋葬してもいいのでは、とすら思った。たとえ地球が壊滅したとしても、その原因を知っているのは僕一人なのだ。誰かから責められるいわれはない。
だが、僕はその度に何度も思いなおした。彼を宇宙に還すのは地球のためというよりも、僕の友達のためなのだ。彼は自分の愛した地球を、自らの母星によって壊されたくないのだ。僕は彼のために、やれるだけやってみることにした。
◆
とはいっても、僕にも日常というものがある。僕の日常は大学に行って、バイトをして、くだらない人間関係に頭を悩ませるということだ。
「もし仮に、親友が突然自分の部屋で死んでいたとしたら……先輩はどうします?」
「親友が? ……警察に通報するだろうなぁ」
「もし、警察に頼れない理由があるとしたら?」
「自分でなんとかするだろうなぁ」
まあ、僕の考えもそれほど人を外れたものでもないらしいことはわかった。
僕は改めて、真剣に手段を考えてみた。当然、技術力や資金面でいえばNASAやらJAXAやらに駆け込むのがベストだろう。宇宙人の遺体と聞けば、向こうだって喉から手が出るほど欲しいはずだ。しかし何の力もバックも持たない一個人である僕が彼らと対等に渡り合えるはずがない。そうなると僕にもある程度の後ろ盾が必要になり、必然的にマスコミや大衆の力も借りなければならなくなる。すると一連の行動にいくらかのリスクを伴うことになる(宇宙人の遺体はマスコミたちにとっても貴重なサンプルのはずだ)。毒を持って毒を制すという形になるわけだ。
これに関しては、僕はとても頭を悩ませた。要するに、「彼を宇宙に送り届ける」「僕と彼の友情を不変のものにする」どちらを優先するか、という問題なのだ。前者を優先するならば、なりふり構わずにマスコミや大衆を抱きこんで、高い技術力に泣きこめばいい。事件・事故さえ起きなければ、まず確実に宇宙に送り出すことができるだろう。だけど、それにはあまりにも多くの人間が関わりすぎる。僕は常に大衆に渦巻く「他人の感動を自分のものにしようとする」根性が昔から嫌いだった。この件なんて、まさに美談にするにはもってこいだろう。下手をすれば後世まで語り継がれてしまうかもしれない。とてもじゃないが、そういった煩わしさは御免だった。
一方で、狭いコミュニティで方法を模索した場合……僕の望む状況になりそうではあった。ただし、彼を無事に宇宙に還せるのかどうかは未知数だ。少なくとも、技術的な面での確実性は大きく損なわれてしまう。
これは僕と彼の間の、瑣末な物事に過ぎないのだ。
◆
僕がまず最初にコンタクトを取ったのは、大学のオカルトサークルに居る人間だった。僕はオカルトに興味のある振りをして、真に宇宙人と向き合うことのできる(更に言えば、強いコネクションを持っている……使える)人間を探した。僕は興味本位でニセ宇宙を語る彼らに反感を抱くことも少なくなかったが、彼らにしたって宇宙人というのはリアリティーを持って捉えられるものではないのだ。年頃の少女がおままごとをしているようなものだと考えればいい。
一ヶ月もオカルトサークルに通ううちに、一人、少し変わった男がいることに気がついた。彼は一見オカルトサークルの仲間内に溶け込んでいるように見えるが、その実他人とはほとんど会話をせず、時たまボーっとしながら空を見上げていた。僕は話の合わない他のメンバーよりも、口を開かない彼になんとなく親しみを覚え始めていた。
「何を見てるんだ?」
その日はよく晴れた火曜日の昼間で、無口な彼は人混みに紛れてやはり空を見上げていた。彼は初め自分が話しかけられているとは思わなかったようで、若干挙動不審になりながらもしっかりと話し手の僕の顔を見返した。思えば、彼が僕と目を合わせるのは初めてだった。
「上を……オゾン層の向こうを」
「オゾン層ね。向こうには何があるんだろう?」
「地球だ。地球と同じものが、いくつもある」
そういう考え方もあるのかもな、と僕は思った。
◆
想像したとおり、彼は僕の言葉を信じてくれた。彼もかつて、宇宙人と親交を深めたことがあったという。
「お前の友達と同じ星からやってきたのかはわからないし、俺の場合は自分で帰っていったがね」
「宇宙人にもいろいろあるんだ」
「当たり前だ。生物なんだから」
それもそうだな、と僕は思った。
「ところで宇宙人の母星がどこにあるのか、わかってるのか?」
僕は首を横に振った。
「でも、彼は宇宙に還してくれとしか書き残してないんだ。たぶん僕たちがやるべきなのは、彼の遺体を宇宙に送り出すことだけで、後は母星の人が何とかしてくれるんじゃないのかな」
「そんな都合よくいくのか?」
「いってくれないと困る」
後は彼の星の技術力に賭けるしかないのだ。
そして都合のいいことに、彼には宇宙開発に関係する知り合いが大勢いた。彼はどのコミュニティにおいても無口で寡黙だったが、その確かな人格と思想に惹かれる人間がいたのだ。
「君がヤマザキくんだね」
最初に会ったのは民間宇宙船の開発をしている工場の所長だった。工場といっても、一見宇宙とは縁のなさそうな無骨な外見(それはまるで自動車の修理工場のようだった)や肩身の狭そうな立地(住所上は東京だったが、高層ビルに囲まれて見かけの落差が激しくなっていた)から、コウジョウというよりもコウバといった方が正しかった。
「ヤマサキです、正しくは」
「これは失敬。人の名前を間違えるとは」
所長にしても、その外見は下町の労働者といった感じで、オイルまみれの額を肩にかけたタオルで拭う姿からは、僕が想像する宇宙の壮大さを感じることはできなかった。
「話は聞いているよ、ヤマサキくん。宇宙に飛ばしたいものがあるんだってね」
「はい」
「宇宙人の遺体についてはまだ話してないからな」
彼が小声で僕に言った。
「ま、こんな油臭い場所で立ち話も何だな。奥の事務所まで来てくれよ」
「わかりました」
「なるほど、宇宙人ねえ」
僕と寡黙な彼、そして所長さんは向かい合って(彼は僕の隣に座っていた)、死んでしまった友達の宇宙人について話した。当然といえば当然だが、彼の話を進めるたびに何度も彼の顔が僕の脳裏に浮かんだ。それでも悲しいという気持ちは一向にやって来なかった。
所長さんはうんうんと頷きながら(時々腕を組んでううんと唸った)、僕の話をじっと聞いていた。彼は相変わらず無口だったが、自分しか知らない話題が出てくるとすかさずフォローに回ってくれた。
僕が、友達を宇宙に還す計画までを話し終えたところで、長い沈黙がやってきた。これが選挙の演説や学校の発表なら拍手が湧き上がるタイミングだ。所長さんは拍手の代わりに、僕に質問を投げかけた。
「それは確かに宇宙人なんだね? その、頭のおかしい人間とかじゃなく」
「だと思いますね。いくら頭がおかしくても、死後硬直がないとは思えませんから」
「一応人間でも時間が経てば死後硬直は解かれるが、ヤマサキの言う時間軸が確かならば、宇宙人の遺体を発見した時にはまだその時間には至っていないはずだ」
「それに、彼の遺体は未だに腐敗が始まってません。特別な処理はしていないのに。ただ冷たいだけで、異臭もしない。ミイラとも死蝋とも違う現象になっているみたいです」
「ふうむ」
所長さんは唸って、近くにあったメモ帳を手繰り寄せてボールペンで何かを書き込み始めた。すさまじい走り書きで、僕には何が書いてあるのか判別することはできなかった。
「結論から言えば、宇宙に還すだけならそう難しくはない」
しばらくすると、所長さんはメモを書く手を止めてそう言った。
「我々が苦心しているのは、宇宙に飛ばした後に大気圏再突入させるための技術の確立だからね。地球に戻す必要が無いのなら、まあある程度の準備は必要ではあるけれど、そんなに時間もかからない。……ただ、いくつか懸念がある。一つは天候だ。君も知っているだろうが、宇宙船の打ち上げには天候がとてもシビアな問題として付きまとっている。雨が降っていなくても、ちょっと風が強ければ打ち上げを延期する場合だってある。次は宇宙に打ち上げるシャトルの問題だ。あいにくだが、先月我々は新たな宇宙船を打ち上げたばかりだ。新しい宇宙船を建造するにはそれなりの時間がかかる」
「どのくらいですか?」
「規模にもよるが、最短で一年近くは見てもらうことになる」
「一年……」
「恐らくヤマサキ君の……いや、友達の言う期限が本当に存在するのであれば、一年というのは博打が過ぎるだろう。もっと速やかに、宇宙に還してやる必要がある。そこでだ。宇宙に打ち上げるだけ……つまり、さっきも言ったが再突入の必要のないシャトルならば、そこまで時間もかけずに建造することができる。まあ一ヶ月くらいだろう」
「一ヶ月……早いですね」
「だがそれにしても問題はある。再突入の必要がないということは、その構造は極めて単純になる。有り体に言ってしまえば、長距離弾道ミサイルともほとんど変わらない。火薬が入っているか入っていないかというレベルの違いしかない。そうなると世界中の国の防衛システムに打ち落とされる危険性が出てくる。本来なら、国の宇宙センターにかけあって安全性を保証してもらうのだが、中身が宇宙人の遺体だというのであれば、そういうわけにもいかないだろう」
「つまり、結局は賭けになるってわけですね」
「それにもし……仮に、宇宙人の遺体を載せた船が撃墜されたとなれば……その宇宙人の言っていた通り、地球はかなり具合の悪い立場に立たされるかもしれない」
「地球人が殺したとも勘違いされかねないな」
「そういうことだ」
「確実に宇宙に送り届ける方法はない、というわけですね」
「手厳しい意見だが、そういうわけだね。私としてもできる限りの協力はしてあげたいが、宇宙への民間人の進出という点では、地球はまだまだ発展途上なのだ」
「地球人の意識の違いという点でもな」
「ヤマサキ君が真に……確実に、彼の遺体を宇宙に届けたいというのであれば、やはりもっと技術力の高い組織に接触するべきだ。……私が言うまでもないだろうがね」
「はい。その上でこちらに来ました」
「だから俺も手伝ってるんだ」
「……少し、考えさせてくれないか。私にも時間をくれ」
「それは構わないが、期限があることも忘れるな」
彼が所長さんに釘を刺した。
「わかっているよ。三日後にまた連絡させてもらうよ」
◆
「これでよかったんだな?」
その帰り道、いつも寡黙だった彼が初めて自分から口を開いた。
「不確かな技術で、何もかもが賭けの状況で、それでもお前は宇宙人とのプライバシーのために地球を危機に陥れようというのだな?」
「ああ」
僕は短くそう答えた。彼はそれ以上何も言わず、僕の隣をずっと歩いていた。
所長さんから電話が来たのは土曜日の夕方だった。その時僕は早めの夕食のためにパスタを茹でていた。
「待たせて申し訳なかった。君の友人を宇宙に還す件だが……協力させてもらうよ」
僕は感謝の言葉と共に、今後の予定について聞いた。現在進行しているプロジェクトに人手を取られているらしく、打ち上げるロケットの完成は早くても三ヵ月後になるらしい。
「この件は身内にも迂闊に話せないからね。そこは留意してほしい」
「一年かかるよりは遥かにマシですからね」
「そういうことだ」
先日、会った時も所長さんは「そういうことだ」と言っていた気がする。どうやら所長さんの口癖のようだ。
「ところで、宇宙人の遺体はどうやって保管しているんだね?」
「部屋に寝かせてありますよ。前にも言った通り腐りも異臭もしないですから」
「寝かせて……?」
「布団に入れてあげてます。もしかしたら、彼が言っていたように仮死状態なのかもしれませんから。ひょっこり生き返って文句を言われたくないですからね」
「じゃあ、君は今、宇宙人の遺体と一緒に生活しているのかね?」
「え? そうなり……ますね」
僕は所長さんに言われて、ようやくその事態の異様さに気がついた。僕は、人の遺体と一緒に生活しているのだ。所長さんは僕の声色の変化を聞いて、はははと笑った。
「彼も言っていたが、君も相当変わってるね」
「いや……改めて考えてみると変ですよね」
「まあ、な。でもそれは我々地球人が改めて考え直さなくてはならない常識でもある。腐らない肉体……法律的にも宗教的にも、どうやって扱うのか興味があるところだ」
「それはたぶん、ずっと先の話ですね」
「だろうね」
所長さんからの電話が終わる頃には、パスタはすっかり伸びきってしまっていた。試しに一口食べてみたが、とても人間の食べる代物ではなくなっていた。
◆
それから三ヶ月、僕はいつも通りの生活を続けた。普通に大学に行き、普通に講義を受け、普通にバイトに行き、普通にご飯を食べて、普通に睡眠を取った。変わったのは、学校で無口な友人が一人増えたことと、家に宇宙人の遺体があるということだけだった。
宇宙人はその三ヶ月もずっと死に続けていた。僕は週に一度、濡れたタオルで遺体の身体を丁寧に拭いた。見た目は変わらなかったが、身体の重さと冷たさは死者のそれだった。僕は地球人とこれっぽっちも変わらない宇宙人の肉体の手触りを感じながら、彼の故郷の星のことを思った。そういえば、彼は故郷についてはほとんど何も話さなかった。何か理由があったのだろうか?
◆
そしてその日がやってきた。打ち上げは夜。時間が来れば僕の家に、所長さんが車で訪ねてくる。宇宙人の遺体は所長さんの車で運び出す。そして誰にも気付かれないようにして、片道切符の宇宙船に積み込んで宇宙へと還してやる。その間、僕が出来ることはほとんど無い。僕が宇宙人と一緒に居ることができるのは、誰かが扉を叩くまでの間なのだ。
僕は缶ビールを二つ持って、彼の居る部屋にやってきた。一つは僕の手に、もう一つは彼の前にお供え物のように置いた。ビールは生前、彼が口にしたいと言っていたもののうちの一つだ。僕は飲みたいなら飲めばいいと言ったのだが、なかなか機会が無くて結局飲まずじまいだったものだ。
僕は両方のタブを開けて、立てた缶が倒れないようにそっと乾杯をした。
「今日でお別れだ」
僕はビールを飲んでからそう呟いた。もちろん答えが返ってくるわけはない。彼は安らかそうな顔をしたまま(地球人の目からして、ということだけれども)、僕の独り言を静かに聞いていた。
「最初は驚いたよ。宇宙人が実在することもそうだし、ましてや僕の前に現れるなんて考えもつかなかった」
僕はビールを一口飲むたびに、一言ずつ彼に語りかけた。彼と初めて出会った日、ほとんど信じられないような体験をした日、何の変哲もない日常を喜び合った日。僕は写真というものを撮らなかったから(日常を写真に撮りためておくことに特に必要性を感じなかった)、彼との記憶は不完全なものばかりだった。それでもなお思い出すような記憶といえば、どれも印象深いものになってしまう。僕は初めて、いつもの日常をいとおしく感じた。
「あと一日だけ……君の目が覚めたら、どんなに楽しいだろう」
彼はずっと僕の話を聞いていた。
「お別れは済んだかな」
所長さんが僕の家にやってきたのは、夜の、日付が変わる直前だった。所長さんは喪服を着て、僕の前に現れた。
「その服装は?」
「宇宙人とはいえ、相手は仏さんだからね。実際、お葬式みたいなものなのだろう?」
確かにな、と僕は思った。僕はいつも他人に気付かされてばかりいる。こんな大事な時でさえ。
「さて、そろそろ運び出そう。時間の余裕もあまりないからね」
「所長さん一人なんですか?」
「ここに来たのはね。彼はシャトルの前で待機しているよ」
僕と所長さんは二人がかりで宇宙人の遺体を運び出した。宇宙人の遺体は思っていたよりも重く、車に載せるだけでも一苦労だった。
「中身がぎっしり詰まっているんだね」
僕は後部座席に、宇宙人の遺体と並んで座った。下手に隠すよりも、不自然じゃないと思ったのだ。車が揺れるたびに、宇宙人の身体が僕の肩によりかかってきた。
「バックミラー越しに見ていもヘンな気分だな。本当に死んでいるんだろうね?」
「だと思います。地球の感覚では、ということですけれど」
「なるほどね」
◆
シャトルは多摩川の河川敷にある小さなグラウンドに設置されていた。シャトルと言っても、そんなには大きくない。3メートルあるかないかといったところだ。
「ここですか?」
周りには民家もあったので、少し不安になった。シャトルを打ち上げる時の音や衝撃は知らなかったけれど、それにしてもあまり適した場所には思えなかったからだ。
「意外にね。人っていうのは、自分の想像以上のことは考えられないものなんだよ。だから、自分が寝ているすぐ近くで、宇宙に向けて宇宙人が飛び立とうとしているなんて思ってもみないのさ」
「そういうものですか?」
「私だって、こんな形で宇宙人と接触するなんて思わなかったさ」
「……ああ」
シャトルの隣には彼が立っていた。あまりに不動だったので、遠くから見ている分には案山子とそう変わらなかった。
「絶好の打ち上げ日和だ。雲もない、風もない、音もない」
「出来うる限りの条件は揃ったというわけだ。後は、運だけだね」
「信じますよ」
僕は車に戻って、後部座席に寝かせていた宇宙人の遺体を背負った。そして土手の階段を踏み外さないようにして、ゆっくりとシャトルの前まで運んだ。その間に、二人はシャトルの腹の扉を開けて待っていた。
「けっこう重たいですけど、大丈夫ですか?」
「さっき私が持った感じでは、せいぜい八十キロといったところだろう。問題ないよ」
僕は宇宙人の遺体を降ろして、シャトルの中に入るように身体を小さく折りたたんだ。まるで古代人が行っていた屈葬のように。
「俺のところに来た宇宙人とは毛色が違うみたいだな」
「え?」
「こんなに静かな顔をしていなかったからさ」
僕はそこで思い出した。ああ、彼もまた宇宙人との別れを経験していたのだ。
「別の星から来たのだろうね」
「意外に人気があるんだな、地球は」
そう考えると、わけもなく誇らしい気持ちになった。僕はこの地球に、何にも貢献できていないのに。
宇宙人の遺体をシャトルの中に納めた後、所長さんと彼はシャトルに繋げたノートパソコンを弄りながら、何か専門的なことを話していた。その間に僕が出来ることはないので、土手の芝生に寝転がって夜空を見上げていた。考えてみれば、あの星の一つ一つに、僕らと同じような生命が宿っているのかもしれないのだ。そう思うと、子供の頃に見上げた夜空とはだいぶ赴きが違って見えるような気がした。あの光の粒の星から見える地球も、同じような粒に過ぎないのだ……。
「知り合いの宇宙人がいなくなった後でな」
いつの間にか、彼が僕の隣に座っていた。
「よく夜空を見上げるようになったんだ。あの光の中に、どのくらい地球と同じような星があるんだろうって。もちろん、肉眼じゃ判別なんてつかない。緑に溢れた星だって、荒涼とした土の塊だって、同じように光っているだけだからな」
「探してるのかい? その、いなくなった宇宙人を」
「そうかもしれない。でも、どこにいるのかなんてわからない。いま見えている星空のどこかにいるのかもしれないし、ぜんぜん違う場所にいるのかもしれない。それに、もしその宇宙人の星がわかったとしても、今の地球の科学力じゃあ、そこにたどり着くなんてできやしない。結局のところ、空を眺めることで自分を慰めているのさ。果てのないことだ」
「僕もそうなるのかな」
「どうだろうな。ただ一つ言えるのは、俺がずっと心残りにしているのは、いなくなってしまった宇宙人にきちんと別れの言葉を言えなかったことだ。向こうにも都合があるんだろうし、そういう湿っぽいのは嫌いそうなやつだったからな。つまり、自分の中でケリがついてもいないのに居なくなってしまうってのは、ずっと心に引っかかり続けるんだ。やり直せることならいいが、俺の場合はそういうわけにもいかない。お前は……」
◆
打ち上げの準備ができたのは、それから二十分ほど経った後のことだった。所長さんは草むらに寝転がっていた僕らをシャトルの近くまで呼んた。シャトルの噴出口からは少しずつ煙が噴き出していて、次第にグラウンドの地面を覆い始めていた。
「けっこう簡素なんですね」
「まあね。前にも言ったと思うけど、戻ってこない宇宙船を作るくらいならアマチュアでも十分にできるのさ」
「むしろ打ち上げだな。今日の気候なら問題はないと思うが、何にでもイレギュラーってものは存在する」
「それに、撃ち落とされる可能性もね」
「それは二人の運次第だな」
「二人?」
「君と、友達の宇宙人だよ」
そう言われると、突然、僕の中に口惜しい気持ちが湧き出してきた。たった一言で、僕と死んでしまった宇宙人の日々が一気に蘇った。たぶんそれは走馬灯のようなものだったのだろう……僕ではなく、宇宙人の。言い足りないことがたくさんあるような気がした。やり足りないことがたくさんあるような気がした。
「もうすぐ扉は開けられなくなるよ。やり残したことはないかな?」
僕は考えた。宇宙人――彼が、母星に戻るとき、必要としているものはなんだ? どうすれば、僕のことを忘れないでいてくれる? 僕は迷いながら、コートのポケットに手を突っ込んだ。すると手に何かが当たる感触があった。それは押し花のしおりだった。
◆
僕と彼が駅前でやっていた地元の産業祭りに行った時のことだ。それは屋台が立ち並ぶだけの祭りとは少し毛色が違い、地元の商店街が、自分たちの仕事を祭りにやってきた人間に知ってもらうための体験教室も多く開かれていた。案の定というか、彼はそういった教室を片っ端から指差して、僕にその説明を求めた。
「あれは何だ?」
「ん? 押し花教室のこと?」
「オシバナというのか? まるでドライスリープのようだが……地球では、こんな小さな頃から教育されているのか」
「ううん、たぶん想像してるのとは違うと思うな。あれは後で蘇生させるためにやっている作業じゃないよ」
「なんだと? では、植物の遺体をいたずらにもてあそんでいるというわけか」
「まあ、ある側面からすればね。でも地球では、一般的に、枯れた植物を遺体とは呼ばないんだ。たとえそれが、生きている茎から引きちぎったものだとしてもね」
「なるほど……」
彼はそこで初めて足を止めた。
「興味がある?」
「少し、な。私の星では、植物はあのように使えるほど豊富に育っていなかった」
「じゃあ体験してくりゃいい」
「そうしたいのはやまやまだが……」
「何を遠慮してるんだい。君の仕事なんだろ?」
「しかし……私のような姿の者が行って、警戒されないだろうか? 見たところ、女性か子供しかいないぞ」
「大げさだな。別に捕まりはしないよ」
◆
僕のポケットに入っていた青い花のしおり……それは、彼がその押し花教室で作ったものだった。「ちょうど二つ作ったのだ。一つ、君に渡しておこうと思ってな」……確か、そんなことを言っていた。それは、僕が彼からもらった唯一の品物だった。
「それを入れるのかい?」
所長さんが僕に聞いた。
「いえ、これは宇宙人からもらったものです。これは……」
そこで僕は思い立って、辺りを見渡した。僕たちはグラウンドの、整備された地面の上にいる。僕は急いで土手の雑草がぼうぼうに生えている場所まで駆け出して、指で雑草を地面ごと掬い出して両手いっぱいに抱えた。そして土や草をなるべくこぼさないように、シャトルのもとまで走って戻った。
「これを」
僕は息を切らして、手に抱えた土と草を二人に見せた。
「それは何だい?」
「俺には土と雑草に見えるが」
「その通りです。これはただの土と草です」
「それを、シャトルの中に入れるのか?」
「彼の星には、植物がほとんどないそうなんです」
「なるほどね」
それで二人は納得した。僕はシャトルの中にいる、身体を折りたたんだ宇宙人の履いているズボンのポケットの中いっぱいに、土や草を詰め込んだ。パラパラと、うまく詰められなかった土がシャトルに当たる音がした。改めて考えると、とても滑稽なことをしているように感じる――でもその時の僕には、それが正しいことだという確信があったのだ。彼が地球にやってきた理由の一つでも、叶えてやりたかったのだ。
◆
そして扉は閉じられ、僕らは土手まで退がった。シャトルの発射まで、あと三十秒。
「宇宙、か」
僕はそう呟いて夜空を見上げた。地球から見える星は、相変わらず嫌になるくらいキラキラと輝いていた。
「お前、これからどうするんだ?」彼は僕にそう尋ねた。
「宇宙人が居なくなった後で、お前はどうやって生きていくんだ?」
「僕が、生きていく?」あと十五秒。
「そうか、僕は生きていくんだ」
僕の命は、物語のように終わったりしない。これからも続いていくんだ。
「ようやく泣いたな」
僕は彼に言われて初めて、自分の頬を涙が伝っていることに気がついた。シャトルの発射まで、あと五秒。