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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。

好き貯金箱

作者: kokubo
掲載日:2026/01/24

1話完結の短編です。

 区役所の夜は、昼間とは別の建物みたいに静かだった。空調の音と、誰かがどこかの廊下を歩く靴底の反響だけが、広報課のフロアを薄く満たしている。


 如月澄花(きさらぎ すみか)は、コピー用紙の束を抱えたまま、祈里の机の前で足を止めた。


「……これ、持ってく? 段ボール、もう一つ増やす?」


 朝比奈祈里(あさひな いのり)は、返事の代わりに曖昧に笑って、引き出しの奥をごそごそと探っていた。送別の片付け。来週から祈里は別フロアに異動になる。広報課の人間にとっては、ただの人事異動だ。合理的で、ありがちな出来事で、誰も泣きはしない。


 泣く理由があるのは、たぶん澄花だけだ。


 澄花は「泣く」どころか、言葉にすることすらできない。気持ちを外へ出すと、何かが壊れる気がしてしまう。壊れるのが怖いというより、壊したのが自分だと確定するのが怖い。


 だから今日も、段取りの女として黙々と動く。祈里の段ボールに付箋を貼り、宛名を書き、ファイルの背表紙を揃える。


 その手元を、祈里がふいに止めた。


「……あ、これ」


 小さな木箱だった。片手に収まるくらいの、淡い色の木目。蓋に、小さな札が結びつけてある。


 ――好き貯金箱。


 澄花の指が、コピー用紙を抱えたまま微かに強張った。


「……なに、それ」


「昔、買ったやつ。たぶん、もう動かないと思うけど」


 祈里は軽い調子を装って、木箱を机の上に置いた。置いた瞬間、カタ、と乾いた音がして、箱がほんの少しだけ震えたように見えた。


 澄花は、箱の脇に空いている細い穴に気づく。貯金箱の投入口。中からは、紙の端がぎゅうぎゅうに押し合っているのが見えた。


「……紙、入ってる」


「うん。一日一枚。相手の好きなところを、一文だけ」


 祈里が言い終える前に、澄花の胸が、妙に先へ走った。そんな遊び、知っている。知っているはずがないのに、知っている気がした。


「……冗談みたいに始めてさ。十枚で満杯になるんだって。満杯になったら、開いて……」


「開いて?」


 澄花が訊くと、祈里は目を伏せた。


「……"言えなかった好き"を言わせてくるんだって。占い師のおばあさん、みたいな人に言われた。『ちゃんと言葉にしないと、次は出ないよ』って」


 祈里は笑おうとした。けれど笑いの途中で、喉の奥がひっかかるみたいに声が途切れた。その途切れを、澄花は見逃さない。見逃さないくせに、拾い上げるのが下手だ。


「……十枚?」


「うん。十枚」


「……じゃあ、今いくつ」


 祈里は、箱を指先でそっと押した。中の紙が、ぎし、と鳴った。


「九枚」


 言った瞬間、祈里の指が震えた。ほんの少し。けれど澄花はそこだけを拡大して見てしまう。


「……今日、最後の一枚を入れたら、開くってこと?」


「開くかも、ね。……でも、やめとこ。時間もないし」


 祈里は「時間もないし」と言いながら、机の上の時計を見た。終電まで、あと一時間ちょっと。警備の巡回が、このフロアに来るのはたぶん――あと十分くらい。


 合理的に考えるなら、箱なんて、片付けの邪魔だ。段ボールに入れて持っていけばいい。魔法みたいな話に巻き込まれる意味はない。


 合理的に考えられないのが、澄花だった。


「……入れよう」


「え」


 祈里が瞬いた。


「九枚まで貯めたなら、最後までやったほうがいい。中途半端は気持ち悪い」


 澄花は自分の言い方が、いつもの癖で硬いのを自覚していた。気持ち悪い、なんて。本当は違う。中途半端が怖いのは、箱じゃなくて、二人の関係のほうだ。


 祈里は一瞬だけ何かを言いかけて、でも飲み込んだ。いつもみたいに。いつもみたいに、澄花が楽なほうへ逃げられるように。


「……じゃあ、澄花が最後の一枚、書く?」


 祈里はそう言って、引き出しから同じ種類のペンを一本出した。二人が、いつか、同じペンで書くって決めたらしい、細い黒インクのボールペン。


 澄花はそのペンを受け取れなかった。手が動かない。


「……祈里が書いて」


「え」


「始めたの、祈里なんでしょ」


 祈里の目が僅かに泳ぐ。ばれた、という顔。澄花はその顔で確信した。祈里が始めた。祈里が怖くなって、途中で箱を閉じた。


 祈里は薄く息を吐き、机の端のメモ用紙を一枚ちぎった。ペン先が紙に触れる前に、肩が小さく上下した。


「……一文だけ、ね」


 澄花は、祈里の指先を見ていた。祈里が文字を書くときの癖。少しだけ左の肩が上がる。字が整いすぎないように、わざと崩すみたいに書く。


 その癖が、澄花は好きだ。


 祈里は書き終えた紙を二つに折り、箱の投入口に落とした。


 カチッ。


 想像よりはっきりした音だった。蓋の留め具が、ひとりでに外れた。箱の蓋が、ほんの数ミリだけ浮く。呼吸が止まるほどの静けさの中で、箱が――まるで喉を鳴らすみたいに、コト、と鳴った。


 次の瞬間、蓋の隙間から、折られた紙片がせり上がった。


「……え、なにこれ……」


 祈里の声が震える。澄花は、せり上がった紙片を、指先でそっとつまんだ。引っ張ると、抵抗はなく、するりと抜ける。


 紙片を開くと、そこには短い一文があった。


『歩幅を合わせるとき、肩が安心する』


 澄花は、喉の奥が熱くなるのを感じた。祈里が書いたのか、自分が書いたのか分からない。署名はない。けれど、祈里の歩幅に合わせて、自分が半歩遅れてしまう癖を知っているのは――祈里だけだ。


 澄花は、紙片を持ったまま、祈里を見る。


「……これ、読んだら、次が出るの?」


 祈里は小さく頷く。


「……『好き』って、言わないと」


「……好き」


 澄花は、声に出した。言った途端、箱がスッと静かになり、またコト、と鳴って次の紙片がせり上がった。


 祈里が息をのんだ。


「ほんとに……出るんだ」


 澄花は、二枚目を取って開いた。


『笑う前に目が細くなるのがずるい』


 祈里の目が細くなった。笑いをこらえるとき、確かにそうなる。


「……ずるい、って」


「……好き」


 澄花が言うと、箱はまた次を出す。


『私にだけ声が一段やわらかい』


 祈里の頬が、少し赤くなった。


「そんなこと……」


「ある」


 澄花は短く言ってしまって、自分で驚く。いつもなら「そんなことない」と合わせるのが祈里だ。けれど祈里は黙って、唇を結んだ。


「……好き」


 四枚目。


『名前を呼ぶ前の一拍で胸が鳴る』


 澄花の心臓が、その文に反応した。呼ぶ前の一拍。祈里が「澄花」と言う前に、ほんの少しだけ息を吸う。その吸う音を、澄花は毎回待っている。


「……好き」


 五枚目。


『近いと息が浅くなるの、ばれてる?』


 澄花は、紙片を持ったまま固まった。


 近いと息が浅くなる。ばれてる? ――ばれてる。ばれてるに決まっている。祈里はいつも、澄花が近づきすぎないように、笑って距離を取ってくれていた。


 祈里は視線を落として、机の端を指でなぞっている。いつもの癖だ。飲み込むときの癖。


 澄花は、そこで初めて気づいた。これは、ただの「好きなところ」じゃない。逃げ道を塞ぐ順番で出てくる。


 軽い好意。可愛さ。特別。身体反応。距離。


 次は――もっと痛い。


 箱が、次の紙片をせり上げた。澄花は、指先が冷えるのを感じながら、それを開いた。


『他の人に笑うのを見ると苦しい』


 澄花の中で、何かがひゅっと縮んだ。


 他の人に笑うのを見ると苦しい。


 それは、澄花の気持ちだ。祈里が他の課の人と笑っているのを見るたび、澄花は胸の奥で、小さく爪を立てられるみたいな痛みを感じる。けれど、その痛みを「苦しい」と言えるのは――祈里のほうじゃないのか。


 祈里が、誰かに笑う。苦しいのは、澄花のはず。なのに、この文は、祈里の言葉みたいに見えた。


 祈里に、誰かがいる? 付き合っている人がいる?


 澄花は、馬鹿みたいな疑いを抱いた自分を嫌いになりそうだった。祈里が誰かと付き合っていたとして、それを責める権利が自分にあるわけがない。ずっと黙って、安全な同僚でいるほうを選んできたのは自分なのに。


 澄花の口が、勝手に言い訳の形を作りかけた。


「……それは、たぶん……」


 その瞬間。


 箱がコトコトと鳴り、紙片が、ほんの少しだけ沈みかけた。まるで「違う」と言っているみたいに。喋るなら「好き」だ、と。


 澄花の喉が詰まる。


 祈里が、かすれた声で言った。


「……好きって、言わないと、進まない」


 澄花は、口の中が乾くのを感じながら、紙片に視線を落としたまま言った。


「……好き」


 言った瞬間、箱は静かになり、紙片は沈むのをやめ、次の紙片がせり上がった。


 澄花は、その挙動に救われるような、追い詰められるような気分になった。


 祈里が、七枚目を取った。


「今度は、私が読む」


 祈里はそう言って、紙片を開いた。目が走り、唇が少しだけ震える。


『今日は帰さないって顔をしてほしい』


 祈里の顔が赤くなる。澄花の胸の奥が、どくんと鳴った。終電、施錠。帰さない。時間圧が、言葉の形になって殴ってくる。


 祈里は小さく息を吸った。


「……好き」


 祈里が声に出した瞬間、箱は次を出した。祈里は八枚目を開く。


『触れたいのに我慢してる手が好き』


 祈里の手が、無意識に澄花の袖を掴みかけて、寸前で止まった。


 触れたいのに我慢してる手。澄花の手だ。澄花はいつも、祈里に触れない。触れたいのに、触れない。


 祈里は、唇を噛んでから言った。


「……好き」


 九枚目が出る。


『好きって言ってる口が、いちばん好き』


 祈里は、紙片を読み終えてから、澄花を見た。まるで、これをどう受け取っていいのか分からない顔で。


 澄花は、胸の奥で何かが弾ける音を聞いた気がした。


 ――好きって言ってる口が、いちばん好き。


 好き、と言う口を、好きだと言われる。言えば言うほど、その褒めが成立してしまう。言葉が自己増殖する。


 澄花は、喉の奥が震えて、無意識に口を開いていた。


「……好き」


 箱が静かになる。けれど澄花の口は、止まらない。


「好き。……好き、好き……」


 祈里が目を丸くする。笑いそうになって、泣きそうになって、視線を落とした。


「ちょ、待って……」


 澄花は首を振る。待てない顔で、自分でも驚く速度で言葉を重ねた。


「好き。好き。……祈里が好き」


 箱が、紙片をせり上げる前に、机の上の空気が変わった。


 廊下から、鍵束の音が近づいてくる。


 祈里が顔を上げた瞬間、フロアの入り口の扉が開いた。


「まだ残ってたの? お疲れさま」


 女性警備員の古賀が、巡回のライトを片手に入ってきた。柔らかい声と、規則正しい足取り。澄花は瞬間的に、全身の血が冷えるのを感じた。


 机の上には木箱。紙片。祈里の赤い頬。澄花の「好き」が空気に残っている。


 古賀の視線が、箱に落ちる。ほんの一秒。澄花は、その一秒で、世界が終わると思った。


「……それ、なに?」


 古賀が軽く首を傾げた。


 澄花は、言い訳の言葉を探そうとして、箱の挙動を思い出した。好き以外は無効。今ここで言い訳したら、また止まる。止まったら、終わる。終わったら、祈里は異動してしまう。


 古賀は、澄花の顔を一度見てから、祈里の顔を見て、そして何かを察したみたいに、視線をそらした。


「……この階、あと五分で施錠ね」


 それだけ言って、古賀は踵を返した。扉が閉まる直前、古賀は振り向きもしないまま、少しだけ声を落とした。


「屋上、風強いから気をつけて」


 扉が閉まる。


 沈黙。


 澄花は、古賀が「見逃した」のだと理解するのに、二秒かかった。規則を盾にして、二人きりの時間を作った。覗くんじゃなく、守るほうへ回った。


 祈里が、机の上の箱を見た。箱は、まだ最後の紙片をせり上げていない。澄花が「好き」を言い終えるのを待っているみたいに、黙っている。


 祈里が、喉を鳴らした。


「……澄花。さっき、止まらないって言った」


「……言った」


「……ほんとに、止まらない?」


 澄花は答えられなかった。止まらないのは言葉じゃない。今まで止めてきたもの全部が、止まらなくなりそうだった。


 祈里が箱を両手で持ち上げた。


「……屋上行こ。ここ、誰か来る」


 終電。施錠。五分。


 二人は段ボールも何も持たずに、箱だけ抱えて廊下を走った。薄暗い非常階段を上がる。靴音が急いで跳ね、息が乱れる。


 屋上の扉の前で、祈里が立ち止まった。鍵は――開いていた。古賀の「気をつけて」は、ただの注意じゃなかったのだろう。


 扉を押すと、冷たい夜風が頬を叩いた。街の光が遠くに散って、空は濃い紺色で、雲がゆっくり流れている。非常灯が一つだけ点いていて、二人の影を長く伸ばした。


 祈里は箱を、風除けの壁の陰に置いた。澄花も隣にしゃがむ。


「……最後、出すよ」


 祈里がそう言って、蓋の隙間からせり上がるのを待つみたいに手を添える。


 箱は、コト、と鳴って、最後の紙片をゆっくり押し上げた。


 澄花がそれを取る。指が冷えて、紙が少しだけ湿った。


 開く。


『好き。言えない分、貯めてた』


 澄花は、その一文を読んだ瞬間、胸の奥に溜めていたものが、堰を切って溢れるのを感じた。


 言えない分。貯めてた。


 澄花だけじゃない。祈里も、言えない分を貯めていた。貯めて、箱に入れて、それでも足りなくて、最後の一枚で震えていた。


 澄花の喉が震えた。


「……好き」


 箱がスッと静かになる。役目を終えたみたいに。


 でも澄花の口は、もう箱に縛られていないのに、止まらない。


「好き。好き、好き……」


 祈里が、目を見開いたまま、笑おうとして、うまく笑えずに眉を寄せた。


「そんなに言ったら……」


「言う」


 澄花は、祈里の言葉を遮るみたいに言った。自分でも驚くほど、はっきりと。


「好き。好き。……祈里が好き」


 祈里の喉が鳴った。祈里は、澄花の袖を掴んだ。もう止めない。もう我慢しない、みたいな掴み方。


「……じゃあ、私も。好き」


 その「好き」で、澄花の理性が切れた。


 澄花は祈里の顎に手を添えた。指先が冷たい。祈里の肌が温かい。その温度差で、自分がどれだけ震えていたか分かる。


 祈里が「ま、っ」と言いかけた口を、澄花の唇が塞いだ。


 短いキス。確認みたいな、触れただけの。


 離れた瞬間、澄花が息のままに言う。


「好き」


 祈里が、少し怒ったみたいに眉を寄せた。怒っているのに、目が潤んでいる。


「……好きって言うたびに、するの?」


 澄花は真面目に頷いた。


「うん。止まらない」


 今度は、長いキス。風の冷たさが、二人の間だけ避けて通るみたいに、熱が増える。


 祈里は唇を離して、息が乱れたまま、負けじと言い返した。


「好き」


 それが合図になって、澄花がまた重ねる。笑い混じりのキス。祈里が小さく息を漏らして、肩をすくめる。


「……ずるい、澄花」


「ずるいのは、祈里」


「なにが」


「……貯めた」


 澄花は祈里の目を見て言った。言葉にするのが怖かったはずの言葉を、今は投げるみたいに出してしまう。


「私の知らないところで、好き、貯めてた」


 祈里は一瞬、言葉を失ってから、笑った。笑う前に目が細くなる。その「ずるい」が、今は救いだった。


「だって……澄花、言ってくれないから」


 祈里の声が、少しだけ湿っている。


「私、迷惑かけたくないって思ってた。職場だし、澄花、段取り崩れるの嫌いだし……」


「嫌いじゃない」


 澄花は即答した。


「崩れるのが嫌いなんじゃない。……私が崩したって、思うのが嫌」


 祈里が目を瞬いた。澄花がそんな言い方をするのは、珍しい。


 澄花は、自分の胸に手を当てた。心臓が、跳ね続けている。


「……祈里が異動するって聞いて、平気なふりした」


「うん」


「平気じゃない」


 祈里の唇がわずかに開く。澄花は、その隙間に言葉を押し込むみたいに続けた。


「会えなくなるのが嫌。……同僚のまま、終わるのが嫌」


 祈里の目が、きらりと光った。涙が落ちる寸前みたいな光。


「……澄花」


 澄花は、最後の紙片を握りしめたまま、祈里に言った。


「異動しても会いに行く。……隠れない」


 言い切ると、喉の奥が痛い。声が震える。けれど言葉は崩れない。


「周りがどう思ってもいい。噂が出てもいい。……私が、祈里を選ぶ」


 祈里は、しばらく息を吸えなかったみたいに見えた。胸が小さく上下して、言葉を探して、でも最後に出てきたのは、たった一つ。


「……好き」


 澄花の口が、また勝手に動く。


「好き。好き、好き……」


 祈里が顔を赤くして、投げるように連打した。


「好き、好き、好き……!」


 澄花も返すように囁く。


「好き。好き。好き」


 言葉の合間に、短いキスが挟まる。好き、キス。好き、キス。言葉が先なのか、身体が先なのか、もう分からない。全部が同時で、全部が本音だった。


 遠くで、階下の扉が鳴った。施錠の音。終電の時間が、容赦なく迫る。


 祈里が慌てて離れようとする。でも澄花の指が離さない。


「……最後にもう一回」


「だめ、もう時間――」


 澄花が息のままに言った。


「好き」


 祈里は負けた顔で目を閉じる。


「……好き」


 最後のキス。今度は短いのに、確かに「これから」を含んだキスだった。


 離れたとき、箱は完全に黙っている。役目を終えたみたいに。けれど二人の口は、箱がなくても止まらない。


「好き」


「好き」


 澄花は祈里の手を握って、屋上の扉へ走った。指先だけ繋いだまま、笑いながら、息を切らしながら、現実の時間へ戻るみたいに。


 非常階段を降りる途中で、祈里がふいに言った。


「ねえ、澄花」


「なに」


「……帰さないって顔、して」


 澄花は足を止めて、暗い階段の踊り場で祈里を見た。祈里は、今までみたいに飲み込まない。欲しいものを欲しいと言っている。


 澄花は、ちゃんと顔を作った。帰さないって顔。たぶん、不器用で、真面目で、少し怖い顔。


「する」


 祈里が笑った。笑う前に目が細くなる、そのずるい笑い。


「……好き」


 澄花は返す。


「好き」


 箱はもう要らない。けれど、貯めた分だけ、言葉は溢れる。溢れても、今度は怖くない。壊れるのが怖いのではなく、壊さないために言うと決めたからだ。


 区役所の出口で、古賀警備員が鍵束を揺らしながら待っていた。二人を見て、何も言わずに、ただ「お疲れさま」とだけ言った。


 澄花と祈里は、同じタイミングで頭を下げた。


 外へ出ると、夜風がまた頬を叩く。冷たいのに、さっきより優しい。


 祈里が小さな声で囁いた。


「……澄花、明日も一枚、書く?」


 澄花は一瞬、答えに迷った。貯める必要は、もうないかもしれない。でも――言葉にする練習は、これからも必要だ。


 澄花は、祈里の手を強く握って言った。


「書く。……好きなところ、増えるから」


 祈里は、泣きそうな顔で笑った。


「それ、ずるい」


「ずるくない」


「ずるいよ。……好き」


「好き」


 終電へ向かう道のりは短い。けれど、二人の「同僚」の距離は、もう戻らない。沈黙よりも、選び取った言葉のほうが、ずっと強いと知ってしまったから。


 木箱は、祈里のバッグの中で静かに眠っている。


 次に開けるのは、いつだろう。


 でも――開けなくても、言える。


 澄花は、祈里の歩幅に合わせて半歩遅れそうになり、慌てて肩を寄せた。肩が安心する。胸が鳴る。息が浅くなる。全部、ばれてる。


 だから、声に出す。


「……好き」


 祈里が、夜の街灯の下で、同じ言葉を返した。


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