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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

なくさなかったもの

掲載日:2025/10/16

春の駅は、風が少し冷たい。白い息がまだ残る季節の終わり。


改札の向こうで、海斗は切符を握りしめていた。隣に立つのは、幼なじみの蓮。


二人は小学校からずっと一緒だった。野球をして、バカみたいに笑って、進路で悩むたびにどちらかの家で夜を明かした。


だけど今、海斗はこの町を出る。遠い県の専門学校へ行くためだ。


「本当に行くんだな」

「うん。もう決めた」


蓮の声はいつもより低かった。少しの沈黙のあと、海斗が笑って言う。


「すぐ帰ってくるよ。夏休みには」

「嘘つけ。お前、面倒くさがりだろ」


二人は笑った。でも、笑いのあとに何も言葉が続かない。




ホームに入ってきた電車の音が、会話の余韻をかき消す。


蓮がポケットから何かを出した。2つの小さなキーホルダー。ボロボロの野球ボールの形をしている。


「これ、昔いっしょに拾ったやつ。あのときお前が落としたんだぞ」


海斗が受け取ると、指先に土の感触が残った。


「懐かしいな…… 無くすなよ」


「お前が先に無くすだろ」


また笑い合う。でも、笑いながら海斗は気づいていた。蓮の目が少し赤いことに。


「……ありがとうな」

「何がだ」

「ずっと一緒にいてくれて」


蓮はそう言うと小さく息を吸って、不器用に笑った。


「バカ。そんなこと言うなよ。また会うんだからさ」




電車が止まり、ドアが開く。冷たい風が流れ込んでくる。海斗はリュックを背負い直し、最後にもう一度だけ振り返って言った。


「またな」


蓮が片手を上げる。何か言ったけれど、電車の音で聞こえなかった。




発車のベル。ゆっくりと動き出す車両。


海斗は窓の外を見つめた。プラットフォームの端で、蓮がまだ立っている。風に吹かれて、髪が少し揺れている。


小さくなる姿を見ながら、ポケットの中のキーホルダーを握りしめた。少し冷たくて、でも確かにつながっている感触。




その夜、蓮はひとりで校庭にいた。部活も終わった静かなグラウンド。ベンチの上には、もう片方のキーホルダーが置かれている。小さな野球ボールの形。海斗のと対になる、同じもの。


風が通り過ぎる。遠くの街の灯りが、ぼんやりと瞬いていた。


蓮は空を見上げて、小さく呟く。


「元気でいろよ。……ちゃんと無くすなよ」




春の風が、少しだけ冷たかった。


ホームの隅で、蓮はひとりベンチに腰かけていた。数年前、ここで海斗を見送った。あのときの電車が、もうすぐやってくる。


線路の向こうに、白い花びらが舞っている。花なのか、ただの埃なのか、よくわからない。でも、どちらでもいいと思えた。


「無くすなよ」


あのときの言葉が、まだ耳の奥で響いている。無くさなかった。ポケットの中には、今もあのキーホルダーがある。古びた野球ボールの形。泥の跡はもう消えて、代わりに細かい傷がいくつもついていた。




海斗が亡くなったのは、去年の春だった。


事故だった。信号を渡る途中、トラックが急に曲がってきたという。


海斗の両親が言うには、ポケットの中にあのキーホルダーが入っていたらしい。金具が少し曲がって、表面には小さな傷が増えていた。それでも、確かに無くさなかったんだと思った。


知らせを聞いたとき、何も感じなかった。現実感がなかった。ただ、数日経って、洗面台の前で髪を乾かしているときに、ふと、海斗の笑い声が頭に浮かんで、そこで初めて涙が出た。


それから何度も夢を見た。あの駅で、笑いながら「またな」と言って手を振る海斗の夢。目を覚ますたびに、心の奥が静かに痛んだ。




今、ホームには誰もいなくて、風の音しかない。


蓮はポケットのキーホルダーを握りしめる。指先が少し震えた。


ホームのアナウンスが響く。電車が近づいてくる音。


風が吹いて、桜の花びらが一枚、キーホルダーに貼りついた。それがまるで、遠くの誰かが触れたみたいに思えた。


電車が止まり、ドアが開く。乗る人も、降りる人もいない。


蓮は立ち上がらず、ただ窓越しに自分の顔を映した。少しやつれた頬。けれどその奥に、確かにまだ、誰かと笑っていた日々の面影が残っていた。


ドアが閉まり、電車が発車する。ゆっくりと走り出す音が、遠ざかっていく。


ホームに静けさが戻る。春の風がまた吹いて、どこかで誰かの笑い声のように揺れた。


蓮はもう一度だけキーホルダーを握りしめて、小さく呟いた。


「また、どこかでな」


それだけ言うと、彼はベンチから立ち上がり、ゆっくりと朝の光の中へ歩き出した。

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