なくさなかったもの
春の駅は、風が少し冷たい。白い息がまだ残る季節の終わり。
改札の向こうで、海斗は切符を握りしめていた。隣に立つのは、幼なじみの蓮。
二人は小学校からずっと一緒だった。野球をして、バカみたいに笑って、進路で悩むたびにどちらかの家で夜を明かした。
だけど今、海斗はこの町を出る。遠い県の専門学校へ行くためだ。
「本当に行くんだな」
「うん。もう決めた」
蓮の声はいつもより低かった。少しの沈黙のあと、海斗が笑って言う。
「すぐ帰ってくるよ。夏休みには」
「嘘つけ。お前、面倒くさがりだろ」
二人は笑った。でも、笑いのあとに何も言葉が続かない。
ホームに入ってきた電車の音が、会話の余韻をかき消す。
蓮がポケットから何かを出した。2つの小さなキーホルダー。ボロボロの野球ボールの形をしている。
「これ、昔いっしょに拾ったやつ。あのときお前が落としたんだぞ」
海斗が受け取ると、指先に土の感触が残った。
「懐かしいな…… 無くすなよ」
「お前が先に無くすだろ」
また笑い合う。でも、笑いながら海斗は気づいていた。蓮の目が少し赤いことに。
「……ありがとうな」
「何がだ」
「ずっと一緒にいてくれて」
蓮はそう言うと小さく息を吸って、不器用に笑った。
「バカ。そんなこと言うなよ。また会うんだからさ」
電車が止まり、ドアが開く。冷たい風が流れ込んでくる。海斗はリュックを背負い直し、最後にもう一度だけ振り返って言った。
「またな」
蓮が片手を上げる。何か言ったけれど、電車の音で聞こえなかった。
発車のベル。ゆっくりと動き出す車両。
海斗は窓の外を見つめた。プラットフォームの端で、蓮がまだ立っている。風に吹かれて、髪が少し揺れている。
小さくなる姿を見ながら、ポケットの中のキーホルダーを握りしめた。少し冷たくて、でも確かにつながっている感触。
その夜、蓮はひとりで校庭にいた。部活も終わった静かなグラウンド。ベンチの上には、もう片方のキーホルダーが置かれている。小さな野球ボールの形。海斗のと対になる、同じもの。
風が通り過ぎる。遠くの街の灯りが、ぼんやりと瞬いていた。
蓮は空を見上げて、小さく呟く。
「元気でいろよ。……ちゃんと無くすなよ」
春の風が、少しだけ冷たかった。
ホームの隅で、蓮はひとりベンチに腰かけていた。数年前、ここで海斗を見送った。あのときの電車が、もうすぐやってくる。
線路の向こうに、白い花びらが舞っている。花なのか、ただの埃なのか、よくわからない。でも、どちらでもいいと思えた。
「無くすなよ」
あのときの言葉が、まだ耳の奥で響いている。無くさなかった。ポケットの中には、今もあのキーホルダーがある。古びた野球ボールの形。泥の跡はもう消えて、代わりに細かい傷がいくつもついていた。
海斗が亡くなったのは、去年の春だった。
事故だった。信号を渡る途中、トラックが急に曲がってきたという。
海斗の両親が言うには、ポケットの中にあのキーホルダーが入っていたらしい。金具が少し曲がって、表面には小さな傷が増えていた。それでも、確かに無くさなかったんだと思った。
知らせを聞いたとき、何も感じなかった。現実感がなかった。ただ、数日経って、洗面台の前で髪を乾かしているときに、ふと、海斗の笑い声が頭に浮かんで、そこで初めて涙が出た。
それから何度も夢を見た。あの駅で、笑いながら「またな」と言って手を振る海斗の夢。目を覚ますたびに、心の奥が静かに痛んだ。
今、ホームには誰もいなくて、風の音しかない。
蓮はポケットのキーホルダーを握りしめる。指先が少し震えた。
ホームのアナウンスが響く。電車が近づいてくる音。
風が吹いて、桜の花びらが一枚、キーホルダーに貼りついた。それがまるで、遠くの誰かが触れたみたいに思えた。
電車が止まり、ドアが開く。乗る人も、降りる人もいない。
蓮は立ち上がらず、ただ窓越しに自分の顔を映した。少しやつれた頬。けれどその奥に、確かにまだ、誰かと笑っていた日々の面影が残っていた。
ドアが閉まり、電車が発車する。ゆっくりと走り出す音が、遠ざかっていく。
ホームに静けさが戻る。春の風がまた吹いて、どこかで誰かの笑い声のように揺れた。
蓮はもう一度だけキーホルダーを握りしめて、小さく呟いた。
「また、どこかでな」
それだけ言うと、彼はベンチから立ち上がり、ゆっくりと朝の光の中へ歩き出した。




