7節 『旅の無事を祈る室』
「信仰用の部屋が欲しい?」
「はい。ほぼ全船一致の意見です」
四日目のことである。
医療班とアダムス、カーレッド、ウィリアムズは船長室に集まり、航海会議を開いていた。
その中で、真っ先に議題に上がったのが船員たちの宗教問題だった。
朝晩に礼拝をする教徒たちは、同じ船倉で寝泊まりしているのでどうしても互いが気になるし、寝ている船員にとっては邪魔である。
未だ大事にこそなっていないが、今後のトラブルになることは容易に想像がつく。
カーレッドがまとめた船員たちの意見を聞き、アダムスは息を吐いて首を振った。
「確かに場所を分けたほうが互いのためか」
「私たちの部屋が空いてるから、そこを使ったらどうかと思ったのだけど」
千代子が言うと、カーレッドも同調して頷いた。
「いいですよね? アダムス」
「俺としては構わないが……扉が壊れてると聞いたぞ」
アダムスが尋ねるように視線をやったのは船長であるウィリアムズだった。船の采配については、最終的には彼女が決めることだからだ。
ウィリアムズは海図に印を残しながら答えた。
「蝶番が馬鹿になってるだけだからな、鍵が要らないなら扉ごと外しちまえばいい」
それ以上、特に反対する理由もないということで、一時間後には船員たちの手で客室一つの扉が外された。
部屋には時計が移され、時間帯によって使い分けるように決めた。
管理の責任者に、第五班のイスハークが任命された。テュルク系のアラブ人で、ほとんど喋らないが敬虔で穏やかな若者だった。
彼は祈りの場ができたことに大層喜び、目を細めて部屋の入り口を見つめていた。
「よかったですねえ、イスハーク」
アラビア語を解するカーレッドは、船内の非中東出身としては唯一、イスハークと会話ができる人間だった。
二人が部屋の中で話していると、少年が一人顔を覗かせた。
ギリシャ人の少年、アンドレアスだ。齢十五とまだ子どもだが、英語が達者で、耳の悪い写真家の祖父の世話人として乗船した。
「なあ、ここって余所の神さまお断り?」
少年らしく大袈裟に首を傾げながら、アンドレアスは何かを掲げてみせた。
「もし場所が空いてるなら、これを飾らせてもらえないかと思って」
「タペストリーですね。これは……アテナですか?」
「そう。婆ちゃんが縫って持たせてくれたんだ。でも、ハンモック暮らしじゃあ飾るところが無くってさ」
伝説に伝わるアルゴー船は女神アテナの加護を受けて造られたという。アンドレアスの祖母はその逸話になぞらえ、夫と孫の乗る船の無事を祈ったそうだ。
カーレッドがその是非をイスハークに訊くと、快い返事があった。
「構わないそうです」
「やったぜ! ここに結んでおくよ」
少年は早速、タペストリーを寝台の柵に結びつけた。
イスハークは管理人として、信仰に真摯である限りどのような神でも否定しないことをこの部屋の規則にした。
すると、ちらほらと船員たちがやってきては、預けたい物を持ってくるようになった。
イスハークと仲良くなったアンドレアスは部屋に入り浸るようになり、見たこともないような世界中のお宝が集まるのを楽しみにしていた。
「これも吊るしておいてくれ」
「八レアル硬貨?」
メキシコ銀で作られた古い銀貨を突き出したのはウィリアムズだった。
デ・ルカが興味津々に首を伸ばして尋ねると、ウィリアムズは自信ありげに鼻を鳴らす。
「家に代々伝わる航海安全の護符だ」
「そうかな。船と一緒に沈みそうだけど。海賊のお宝みたいに」
「沈むまでは本物」
ともかく、今ここにある以上、効果は覿面のはずである。
イスハークは神妙な面持ちで銀貨を受け取り、しっかりと寝台に括り付けた。
「私の御守りも置いちゃお」
「おれも何か探す!」
そう言って飛び出ていった千代子とデ・ルカが荷物を漁って戻ってくると、丁度ロットナーも何かを持ってきていたところだった。
「ロットナー、それは?」
重たげな鉄の塊は傷だらけだったが、曇ってはいなかった。
それを見て、アンドレアスが身を乗り出して言う。
「蹄鉄だ! 幸運の御守りだぞ」
「ああ。軍にいた頃、何度か脚の治療を任された馬がいて、釘を打ち替えたときに一つ譲ってもらった」
ロットナーはそう言いながら鉄の端に紐を通し、タペストリーの横に並べて吊るす。
千代子はくすりと笑った。
「少し意外ね。そういう物は要らない人かと思ってたけど」
「あれだけ無防備に懐かれれば情くらい湧く」
「ふふふ、あなたが優しいから慕うのよ」
ロットナーはそれ以上返事をせず、千代子の御守りを引ったくると、同じように寝台へ結んだ。
夕方頃に様子を見に来たアダムスは、古今東西のアイテムが揃った一画を見て、感心したように喉を鳴らした。
「うむ……色々と集まったな。聖書に聖母像のブローチ、アメジスト、象の置物…………女の写真?」
「シャルルの婚約者」
彼はすっかり元の調子を取り戻したようだ。通りがかりのインド人船員が補足して去っていく。
口を結ぶアダムスの背中をウィリアムズが機嫌よく叩いて言った。
「これだけあれば御利益は確実だな」
それから、廊下に身を乗り出すと、忠実な部下へ命令する。
「デ・ルカ! 入り口に看板つけとけ。使い分けの時間帯を書いてな」
「分かった」
そういう訳でこの部屋は、デ・ルカによって『旅の無事を祈る室』と名付けられることになった。
***
そんな『旅の無事を祈る室』の効果か、それから数日の間サンダル号は天候に恵まれ、昼間は雲一つない晴れやかな青空が続いた。
「ここ数日は随分と天気がいいですね」
「本当にね!」
悠々と進む船の横腹、海風の通る通路で千代子とカーレッドは談笑していた。
景色は金剛石めいて美しかった。
陽光は水面に揺蕩い、波間に魚鱗が煌めいている。
穏やかな正午の風景の中、二人の髪は静かにたなびいていた。
そんなところにデ・ルカが、堪らないといった様子で飛び込んできた。
「チョコ! 副団長! 甲板に来てよ、アンドレアスの爺さんが皆で写真を撮ろうって言ってるんだって!」
誘われるままに出ていくと、甲板にはもう多くの船員が集まって、何事かと話しているところだった。
「集合写真?」
「記録になるものはあったほうがいいな」
「航行は大丈夫か?」
「今日は少しくらいなら離れても平気だよ」
団長アダムスや副団長カーレッドを中心にして、船員たちは、座ったり屈んだりで身を寄せ合う。
乗船してから仲良くなった船員たちも、肩を組んで今か今かと待っている。
「撮るぞ〜!」
祖父の合図に合わせて、アンドレアスが高らかに叫ぶ。
天に向けて突き上げられた三本の指が、皆の掛け声に合わせて減っていく。
「笑って!」
シャッターが切られた瞬間、サンダル号は歓声と笑顔に包まれた。
この一枚の写真が、今、この太平洋の真ん中に、夢幻ではなく、確かに五十人の英雄たちが集まっていたことを証明してくれるはずだ。
作業に戻るため、そそくさと解散していく人波の中、千代子はロットナーを見かけ、にこにこと話しかけた。
「ハワイに戻ったら現像してくれるって」
「でも、これじゃ四十九人しか映らない。爺さんはどうするんだ?」
「とっておきの魔法があるのさ」
いつの間に後ろにいたのか、アンドレアスは軽妙に答えた。
少年と祖父は示し合わせたかのように歩き出した。
人が居なくなった甲板に、今度は老人が一人で立つ。入れ替わるようにアンドレアスがカメラを押さえ、祖父を手早く撮った。
少しの間のあと、アンドレアスは大人たちをいたずらっぽく見上げ、ニヤリと歯を見せる。
「これで、現像した写真を切り貼りすれば完璧な集合写真だろ?」
「成る程。確かに魔法だな」
ロットナーは喉を鳴らして機嫌よく笑った。