6節 『真夜中の暗がり』
千代子が初めて医療班としての仕事をしたのは、三日目の夕方だった。
シャルルという名の若いフランス軍人が、熱を出したと医務室に運び込まれてきたのだ。
ぐったりするシャルルを、その大柄な身体で運んできた団長アダムスは、青い目を心配そうに泳がせて言った。
「関係はないと思うが……一昨日の夜、ほかの船員とかなり揉めたようでな。傷から何か入ったかもしれん。一応、診てくれないか」
「そうね。そちらの手当てもしておきましょう」
千代子は頷いて、カルテに事の次第や症状の経過を書き取る。その横では、ロットナーがつまらなさそうな様子でシャルルの金の蓬髪を突いていた。
「この短期間で喧嘩に発熱って、阿呆か」
「うるせー仏頂面! 敗北者! 噂は聞いてるぞ、衛生兵上がりの藪医者! 田舎に帰って牛の蹄でも切ってやがれ!」
何倍にも言い返すシャルルはどうもドイツ人にあまり良い思い出がないようだった。
彼は火照った顔をくしゃくしゃにしてロットナーに思いつく限りの罵詈雑言をぶつける。
ロットナーは黙ってそれをじっと見下ろした後、彼を指差して千代子に尋ねた。
「元気じゃないか?」
「高熱で変に浮ついているのよ。ちょっと不安ね」
これでは喧嘩をしたというのも発熱の予兆だろう。
千代子が器具の仕度をしている間、ロットナーが体温計を片手にどっかりと腰掛ける。
「おい、熱測るぞ」
「その体温計、馬のケツに突っ込んだやつじゃないだろうな!」
「黙って咥えろ! 手遅れで死にてえのか!」
ロットナーが怒鳴ると、シャルルはぎょっとした顔で千代子のほうを窺った。
「俺死ぬの?」
「ロットナー、あまり脅かさないであげて」
「こんな患者、ちょっと怖がらせるくらいで丁度いい」
ロットナーがそっけなく答えると、シャルルは渋々と硝子の棒を口に咥えた。
水銀計の赤い直線はするすると登り、千代子はそれを覗き込む。
喉の奥を見たり、耳の下に触れたり、数分の診察が終わると、千代子は首を振ってアダムスに言った。
「普通の風邪ね。船内に広まる心配もないわ。でも体温が少し高すぎるから熱冷ましを飲ませましょう」
気を張っていたらしいアダムスが少し息を吐く。
しかし、それを聞いたシャルルは寝台に身を起こして口を尖らせた。
「薬は嫌いだ」
「む……そうは言ってもだな」
息子に言い聞かせる父親のように、アダムスは腕を組みながら嗜める。
ロットナーはアダムスの肩を叩くと、自分の言う通りにするよう伝えた。
「顎を掴んで口を開かせろ」
「こうか」
アダムスがそのようにすると、ロットナーは更に続ける。
「薬を放り込んで」
「うむ」
「頭を叩け」
「痛え!」
頭を抑えて苦言を呈するシャルルに、千代子はそっと水を差し出す。
無事、錠剤は患者の胃の中に収まったらしい。
アダムスは少し考え込んだ後、思い出したかのように呟いた。
「実家の犬にやったことがある」
「それと同じだ」
「どつくぞてめえ!」
それからシャルルはまた医務室の寝台に寝かされ、毛布と氷嚢(氷は船長室の冷凍庫から強奪した)を載せられた。
「口が悪くて済まないが、しばらく休ませてやってくれ」
アダムスは重ね重ね頼み込むと、次の仕事へと去っていく。その背中を見ながら千代子は、少し笑みを浮かべた。寡黙な軍人だが、きっと誰よりも優しく、船員たちを大切に思っているはずだ。信用が置ける。
アダムスが居なくなったあと、ロットナーは椅子を引きながら千代子に言った。
「看病は俺一人でいい。先に戻ってくれ」
千代子はすぐに首を振った。
「気にしなくていいのよ。私、悪口の意味はよく分からないし」
すると、ロットナーは顔を背けて答えた。
「俺が嫌なんだ」
千代子は僅かに口を結んで、彼の様子をじっと見て、それ以上は聞かないことにした。
「そう……じゃあ、おしぼりの替えだけ準備してくるわ」
「頼む」
千代子が廊下に出ると、角からデ・ルカがこちらを覗いていた。騒ぎになって気になったのだろう。
「チョコ、何か手伝うことあるか?」
千代子は微笑んで、布巾を載せた桶を見せた。
「ありがとう、一緒に水桶を運んでくれると助かるのだけれど」
「お安い御用!」
***
夜半、薄い瞼が開く。
シャルルの長い睫毛の向こうで褐色の目が動く気配を感じ、ロットナーは仮眠を止めて静かに尋ねた。
「少しは楽になったか」
初めの頃に比べれば、汗を拭く頻度も減った。
彼の身体は快方に向かっているはずだ。
しかし、病気の若者は口を何度か開けたあと、額を抑えて歯を食い縛る。
「その、話し方をやめろ。耳鳴りがする」
「耳鳴り?」
怪訝そうに聞き返したロットナーが、千代子かスタンレイを呼びに立ち上がろうとすると、シャルルがその腕を掴んで引き止めた。
「俺の手足はまだあるか? 気を失ってた、ライフルは────」
「おい、まだ寝ぼけてるのか? どこか痛むか」
高熱で悪夢でも見て、まだ目覚めきっていないのだろうか。
ロットナーは暗い部屋の中でシャルルと向かい合った。
シャルルは何かに怯えるように忙しなく周囲を見ては、必死に耳の辺りを指し示した。
「頭を下げろ! お前、聞こえないのか、大砲の音が。嵐の夜の船みたいだ。ずっと揺れて、気持ちが悪い……」
「…………」
二日前とは違い、今日は随分静かな晩だ。海の歌がよく聞こえる。
小さな船は砂浜の貝殻と似ていて、じっと耳を澄ませれば、深海の低い囁きが響いていた。
ロットナーはもう一度椅子に腰を下ろし、返事をした。
「そうだな。聞こえないよ」
彼に聞こえているのは過去の呼び声だ。
現実では、海の飛沫が船を叩き、舳先が波を割り、地面はうねりに揺れているだけだ。
それらすべてが、かつて彼の見た何か恐ろしいものを想起させているに過ぎない。
真夜中の暗がりに、子どもが怪物を見つけるように。
「お前が後悔してるのは、自分が正しいと思って選んだことが、ひどい間違いだったからだ」
冷えた濡れ布巾で額を拭ってやると、シャルルは段々と落ち着き、再び眠りに落ちていく。
ロットナーは誰にともなく呟いた。
「俺は一度だって自分の意志で進んだことはない。いつだって、望まれたことを、望まれたようにしただけだ」
他人に言われたからやっただけのことを、自分の責任として認めるには特別な才能が要る。
難しいのは、その才能を持つことが、果たして幸運なのかどうかということだ。
何一つ選ばなかったロットナーにとって、すべては一枚の絵を眺めているのと同じことだった。
そこでは砲撃の轟音も、血肉の泥濘も、彼に何の痛みも与えない。
自分で選んでいないことに罪も責任もあるはずがない、と思っている。
無責任である以上、その結末に不満を持つ権利もない、とも思っている。
それでいい。
空っぽのまま、目の前にあるものを掴んで生きる。そんな単純明快な人生だ。
ロットナーはまた目を閉じた。