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5節 『なんて多くの素敵な人たち』

 後々のことに比べれば、ゴールデン・フリースまでの船旅は概して平和なものであった。


 言葉が通じないこともよくあったが、そういう船員は人を集めて伝言ゲームのようにやり取りをしたり、身振り手振りを交えて語り合ったりした。


 酔ったノルウェーの銛打ちや物静かなアラブの弓撃ちが夜な夜な語る異国の冒険譚は、空に瞬く星々のように雄大で、神秘的だった。


 多少の揉め事はあれど、人々は紳士的であり、穏やかな時間が過ぎていた。千代子は最終会議の悪い空気を忘れつつあった。


 旅中、千代子は「チョコ」という愛称で呼び親しまれた。


 その遠因はロットナーにある。

 彼は千代子の名前をうまく発音できず、チョコ、チョコと繰り返していたのだが、それを千代子は咎めることなく呼ばせていた。


 するとデ・ルカが気に入って真似を始め、結局ハワイにいる内から全員に広まったのである。


 乗船後にカーレッドから「日本人はファーストネームが後に来るんですよ」と聞いたロットナーは、半日もの間、船の医務室の毛布の中から出てこなかった。


 ロットナーは大概強かな男だったが、妙なところに限っては繊細だった。


「馴れ馴れしく名前を呼んでスミマセンでした……」


 非礼を詫びる彼を、千代子はにっこりと笑って励ました。


「いいのよ、私は嬉しかったもの! 千代子なんてどこにでもいる名前だけど、みんなが呼ぼうとしてくれるのは何だか特別な感じがするの」


 そういう訳で、敬意と親愛を込めて「チョコ」が彼女の呼び名となった。


 とはいえ、ほかに困ったことが全くなかったという訳でもない。


 サンダル号が港を出た夜のことである。千代子とカーレッドに宛てがわれた部屋の扉が壊れた。


 ともかくおんぼろの輸送船は、騙し騙しに見た目を取り繕っていただけで、初めの大波で蝶番が歪み、扉がうまく閉まらなくなったのである。


「波で船が傾いたら勝手に開いてしまいそうですね」

「縄か何かで取っ手を結べば何とかなるかしら……」


 まず、千代子たちは医務室をあたってみることにした。

 消灯直前の客人を出迎えたのはロットナーだった。


「縄? あるにはあるが……」


 どこにしまったかな、とあちこちひっくり返し始める。

 彼が仕切りのカーテンに手をかけると、患者用の寝台の上には、本とランタン、それから寝間着なのかハイビスカス柄のハワイシャツが見えた。


「失敬」


 すぐさまカーテンを閉め直すロットナーに、カーレッドは呆れた顔で尋ねた。


「もしかして、ここで寝てるんですか」

「ここにベッドが二台もあるのに、わざわざ船倉で寝ろと?」


 千代子はきょとんとしていたが、カーレッドは半目で彼を見つめた。


 船室の不足から、男の船員の大半は船倉に吊るされたハンモックで寝ていた。団長のアダムスでさえもだ。

 当然、ロットナーの一人だけが上等な寝台を得ることは彼らが許さないだろう。


 ロットナーはばつが悪そうに躊躇ってから、千代子とカーレッドに対して口止めの交渉を持ちかけた。


「夜間の患者は全部俺が診る。それでいいだろ」

「やった! ラッキー!」

「まあそれでいいなら構いませんが……」


 それはともかく、縄か、スカーフか何かを探さなくては。目的を思い出した千代子たちが額を突き合わせていると、徐ろに医務室の扉が開かれた。


「何してんだ、そんな狭いとこに集まって」

「ウィリアムズ船長」


 そこではウィリアムズが未だ消灯の気配がない医務室を、怪訝そうな表情で覗き込んでいた。

 彼女は千代子たちに起きた問題を聞くと、しばらく考えてから千代子とロットナーを交互に指差した。


「お前ら仲いいし相部屋で良いんじゃねえか?」

「えっ」

「良い訳ないよな、良い訳ないよな」


 固まる千代子と、大慌てのロットナーを前に、ウィリアムズは大きく笑ってからロットナーの背中をべしべしと叩いた。


「冗談だ。お前をアダムスのハンモックに詰め込んでベッドを空けたほうが早い」


 それから振り返ると、彼女は快く解決策を提案した。


「船長室にベッドの余りとソファがある。三人で交代な」

「本当? ありがとう、船長!」


***


 ウィリアムズの船長室は、窓から外を窺える上等な位置にあり、来客に応えるためのセットが揃えられていた。


 とはいえ、夜には海が荒れるそうで、窓の鎧戸は閉め切られ、ソファと机はボルトと縄できつく固定されていた。


 彼女の好意に甘えて荷物を運び込むと、千代子は机の上に置かれた写真立てに気がついた。


 揺れる船旅でも倒さないようにか、重たい鉛か何かで作られた容れ物に、夫婦と子ども二人の家族写真が挿し込まれていた。


「船長のご家族?」


 何の気なしに尋ねると、ウィリアムズは軽く答えた。


「ああ、夫と子どもだよ。娘が十で、息子は六つ、いや、もう七つだったかな。駄目だな、長く海にいると感覚が馬鹿になる」


 千代子はふと言った。


「それって浦島太郎みたいね」

「なんだそりゃ」

「お伽噺よ。ほんの少し海の底にいたつもりなのに、陸に帰ったら何十年も過ぎていたの」


 それを聞いてウィリアムズは「ほんの少し。確かにそうだ」と繰り返し呟いた。

 その横顔はどこか苦々しさを滲ませていて、カーレッドは彼女の迷いを察した。


「お子さんもまだ小さいのに、この調査へ?」

「金が要る。珍しくもない話さ」


 アルゴノーツ計画の参加者には、その成否に関わらず給料が支払われることになっている。ウィリアムズのように役職を持っていれば手当も加算される。


 報奨目当ての乗船はロットナーもそうであるし、大半の一般船員も同じだった。


「うちのガキどもは親に似ず出来が良くてね。……親の欲目を抜いてもだ。勉学でも、手習いでも、好きなようにさせてやりたい」


 ウィリアムズはソファに背を預け、深々と溜め息を吐いた。


「夫は軍人だったが────先の戦争で片腕失くしてきやがった」


 傷痍軍人には年金が出るが、四人家族で余裕が出るような額では到底ない。

 夫の治療、娘の習い事、息子の進学。どれを取っても大金が必要だった。


「あんたらはどうだ? 何のため、この船に乗った?」


 ウィリアムズは悲嘆を掻き消すように、嘲笑うように尋ねた。

 同じ英国に生まれ、しかし貴族として育ったカーレッドは眉毛を寄せて、左手で肘を引き寄せる。


「仕事です。それが国王陛下及び英国議会の決定ですから」


 それもおかしな話ではない。アダムスを筆頭に、軍人として参加している人間は、誰しもそれが命令だから来ている。


 では、千代子は?

 千代子は少しだけ慄いて、口籠った。


「私は……」


 裕福な家に生まれ、金に困っている訳ではない。

 誰かに仕え、その意を受けて動いている訳でもない。

 千代子は故郷の景色、家族の顔を思い出し、それから師の姿を頭に思い浮かべた。


「私は、私と恩人の誇りのために」


 着物の袖を掴みながらも、はっきりと言葉にする。

 すると、ウィリアムズは少し俯いたあと、膝を叩いて褒め称えた。


「そりゃあいい。そりゃあいいぜ、東洋人」


 大きな片手で顔を抑え、笑いを堪えきれないと言った風に、ウィリアムズは滔々と言った。


「金を求める連中はどっかで必ず日和るもんだ。生きて帰らなきゃ意味がねえからな。だが、名誉や誇りで動くやつは違う」


 いつだって、偉業を成し遂げるのはそういう人間だ。

 ウィリアムズはそう言った。


 外は嵐夜だった。予想通りだ。

 黒ぐろとした雨が鎧戸を打ち、波は鯨のように深く口を開いている。

 小船はただ北を目指し、見えない星を追って進む。


 これより先は、ああ、素晴らしい新世界。

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