エピローグ 『百年前のあなたたちへ』
「あつーい!! 有り得ないんじゃない!? ニンゲンの生存圏として!」
七月半ばの東京駅前。
二人の外国人は殺意の込められた日差しにかんかんと照りつけられていた。
大柄な栗毛の青年は溜息を吐く。
かつてアニメを見て憧れた、日本の夏の蝉は異常気象でとうに死に絶えたらしく、聞こえてくるのは隣でキャンキャン吠える小娘の文句だけだ。
薔薇のような赤い長髪が視界の端でちらついて、それがなおのこと暑苦しい。
青年が待ち合わせの時間にどうにか間に合ったことを確認していると、少女が勝手にどこかへ歩いていくのに気づいた。
「おいルベル、どこ行くんだよ」
「カフェ! こんなところにいたら死んじゃうから」
足を止めずに答えるルベルのトランクを掴み、青年はスマホの画面を見せつけた。
「勝手に動くな、もうすぐ約束の時間だぞ」
日本人は遅刻に厳しい、という話を聞いたことがある。念には念を入れ、三十分前に到着した。
その所為で満員電車に乗せられ、とても機嫌が悪いらしいルベルは、うんざりとした様子で髪を払って答えた。
「知らねーよ、あたし、お母さまが公演やるっていうから来たの! あんたの陰気なオカルト趣味とか興味ない。放っておいてくれる?」
「オカルトじゃない! それに、ローズさんにはお前のことを頼まれてるから放り出すことはできないぞ」
「じゃあまずあたしがここで焼け死なないようにしろよな、イーサン!」
青年────イーサンはその不躾な言い口に思わずきつく彼女の頬をつねりたくなるが、内心だけに留めておく。
決して裕福とは言えない大学生が一か月も日本に滞在できるのは、ひとえに理解あるスポンサーがついてくれているからだ。
問題は、そのスポンサーの娘がこの我儘極まりない女子高生だという点なのだが。
「ハァ、仕方ないな……」
待ち合わせの相手に、近場のカフェに入ることをメッセージで伝え、イーサンはスマホをしまう。
鼻を鳴らしたルベルは目ざとくコーヒーショップを見つけて入っていった。
ヌタバなんてイギリスにも溢れてるだろ、と思いながらも、冷房の効いた店内にはイーサンもつい誤魔化されてしまう。
思い思いに注文して(当然、イーサンが奢らされた訳だが)休んでいると、後ろから日本人の二人組に話しかけられた。
「あの、アダムスさんですか?」
「あ、はい!」
二人組の片方、壮年の男はぺこりと頭を下げて挨拶をした。
「暑いところをすみません。お約束していた三浦です。こっちはアーカイブズ学専攻の日吉くん」
「どうも〜」
男の後ろから、日吉と名乗る若い学生が顔を覗かせる。艶やかな黒髪が目を引いたが、顔立ちはどこかぼんやりした印象で性別もよく分からなかった。
イーサンはおずおずと手を差し出す。
「はじめまして、イーサン・アダムス、です……」
「あたしルベルです、よろしく!」
ルベルは甘味にすっかり機嫌を直して、礼儀というものを思い出してくれたようだ。
三浦たちがドリンクを買ってくるのを待って、イーサンは本題に入った。
「まず、今回はありがとうございました、わざわざ文書を調べてデータにして送ってくださって」
「僕はご相談を受けて現在の権利者を探しただけです。面倒なことは全部、日吉くんが」
「いいんですよ〜、佐伯の倉庫もそろそろ中身を検めないとでしたから。いい機会でした」
日吉はそう言うと、ずるずるアイスドリンクを啜る。
その薄い微笑みを横目に見ながら、三浦はコーヒーを置いてファイルに入った紙束を取り出した。
「送ってくれた調査書、読みました。『大正年間国際調査団』……失敗したとしか知りませんでしたから、ここまで詳細が分かるとは思いませんでしたよ」
日本語もうまいし、と三浦は呟いて、いたずらっぽく笑みを浮かべた。
「カーレッドの曾孫の方が、わざわざ僕の本を読んで声をかけてくれるとは思いませんでしたが」
「すみません。でも、曾祖母の写真のことをどうしても知りたくなってしまったもので」
イーサンが生まれるずっと前に亡くなった曾祖母だが、遺品の机は写真立てと共にいつまでも家に置かれていて、彼にとってそこに写る五十人の面々は下手な親戚よりも親しみがあった。
二十年の時を経て、ようやく彼らの名前を知ることができた。イーサンにとってはそれが何より嬉しいことだった。
三浦はイーサンの言葉に何度も頷くと、それから、ルベルのほうを見て尋ねた。
「ところで、こちらが例の?」
「はい。ウィリアムズ船長の玄孫、にあたるらしいです。今日は、彼女の御母堂のご厚意で日本に来れました」
「その人、お母様のお母様のお母様の……お母様? なんだって」
ルベルは指折り数えて首を傾げる。
三浦はほうと息を吐いて感心した。
「なんとまあ、よく見つけましたね」
「そこはまあ、SNSで……」
イーサンが恥ずかしそうに答えると、ルベルは面白がって手を叩く。
「そうそう、いきなりメッセージ送ってきてさあ! めっちゃキモ! って思ったぜ!」
「うるさいな、お前んちが一番辿りやすかったんだよ!」
「ああ、今どきだなあ……」
言い争う二人を三浦は微笑ましく見守る。
その視線で我に返ったイーサンは慌ててリュックサックを引っ張り上げると、中から大量のコピーを取り出した。
「ほかにも何人かの船員の親族と連絡が取れて、日記や手紙の提供をしてもらいました」
それらをつなぎ合わせ、調査団に何があったのか、イーサンはずっと調べてきた。
テーブルに広げられた書簡の数々を眺めながら、三浦は言った。
「凄いねえ、これ、趣味なんでしょう? 研究者だってあまり手を付けない話ですよ」
「まあ、趣味といえば趣味なんですが……」
口ごもるイーサンに、三人は不思議そうな視線を向ける。
彼は自分の夢を告げた。
「俺はいつか、ゴールデン・フリースという島をこの目で見てみたいんです」
イーサンは真っ直ぐ三浦たちを見据えて言った。
「俺にはこれがみんなの言うように『無意味な調査』だったとは思えなかった。その島があったことで、変わったこともたくさんあったはずだから」
例えば、ゴールデン・フリースがなければアダムスとカーレッドは出会わず、自分はここにいなかったのかもしれない。
そう思うと、奇妙な繋がりが自分とその島の間にあるような気がして、その感覚は心を惹きつけて止まないのだ。
そう語るイーサンを、日吉は相変わらずの薄ら笑いで見つめていた。
***
「着きましたよ」
コーヒーショップを出たあと、四人は数駅離れた場所にある民家を訪れていた。
葉桜が陽光を遮り、少しだけ熱気が和らぐ。気づけば蝉の声も木陰に響いていた。
「ここは?」
「佐伯家の旧邸です。今は遠縁の私が管理してるんですけど」
旧式の鍵をがちゃがちゃと回して、日吉は民家の戸を開ける。
奥からほんのりと甘ったるい煙の匂いがして、今もよく人が入っていることが窺えた。
「杉山家の書簡もここに保管してあります。気になるものがあれば複写していただいて構いません」
日吉は段ボールに詰めたたくさんの手紙やノートを持ってくる。
それを見て、イーサンは肩を小さく丸めた。
「やっぱり、杉山家の屋敷はもう無いんですよね」
「アメリカさんが焼いちゃいましたからねえ」
「…………」
冗談なのかよく分からない返事だ。日吉はずっとこんな調子でニコニコするばかりで掴みどころがない。これならまだ、機嫌が分かりやすいルベルのほうが付き合いやすいのではないか。
イーサンは居心地の悪さを誤魔化すように、気になっていたことを尋ねた。
「実は、千代子さんの子孫は見つからなかったんです。彼女自身、どこにいたのかもよく分からなくて……」
曾祖母が最後まで気にしていたのは杉山千代子だった。
結婚してアメリカに渡り、そして日本と戦争が始まると知ったとき、彼女は何を思ったのだろう。
何度出しても届かない手紙に、何を感じたのだろう。
調査を続けても、千代子の足跡は追えなかった。
もしかしたら、どこかで彼女の系譜はふっと途絶えてしまったのだろうか。いつしかそんな考えがイーサンの頭を過ぎるようになっていた。
すると、日吉はその青みがかった目を細めて、箱を抱えたまま座布団に腰を下ろした。
「まあ、そう気に病まずとも、それなりに幸せに生きてたんじゃないですかねえ。私が聞く限りですが」
「えっ?」
三人が思わず聞き返す。
日吉は自分を指差して言った。
「私、杉山千代子の子孫ですよ。ちゃんと直系」
「えーーーっ!?」
身を乗り出して叫ぶイーサンに、日吉は動じず言葉を続ける。
「追えなかったでしょう。名字違うんです」
「これがトウダイモトクラシ…………!」
何でもっと早く言ってくれなかったのかとイーサンが項垂れると、日吉はくすくすと笑って答えなかった。
「でも、アダムスさんの話を聞いて、なんだか腑に落ちました」
日吉は段ボールの中から一枚の写真を取り出した。
それは、イーサンが見慣れたあの集合写真だった。
「確かに見てみたいですね、ゴールデン・フリース」
巡り巡った夏風に吹かれて風鈴が歌う。
今もどこかの海の中に、あの奇妙な島はあるのかもしれない。
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