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3節 『スヴェン・ロットナー』

 千代子はびっくりして男をじっと見た。


 西洋人であるが、年はまだ若く見える。

 背は五尺八寸(一七六センチ)に少し足りないほどで、目立つ印象はない。

 黒い短髪と涼やかな目元が、古びたビスケットカラーのベストに映えている。革靴は草臥れていたが、手入れはよく行き届いていた。


 男は返事を待っているようだったが、千代子は顔を赤くして黙り込むばかりだった。


 何せ見知らぬ男に突然話しかけられたのは初めてのことで、千代子は緊張して、あれほど堪能な言語の一つも口にすることができなかったのだ。日本語さえもである。


 男は言葉が通じていないと思ったのか、指で鞄を示した後に上か下かと指差しでもう一度尋ねた。


 少し落ち着きを取り戻した千代子は、このまま甲板へ上がっても今度は降りられなくなるだけだと思い、鞄を下に戻してもらった。


「あ、ありがとうございます」


 おずおずと千代子が日本語で礼を言うと、それを感謝の言葉と判断したのか、男は気にする素振りもなく短く答えた。


お気に(Nichts)(zu)さらず(danken)


 それでようやく、千代子は彼がドイツ語を話していると分かった。


「あ! ドイツ語だったのね! ありがとう、本当に助かったわ」

「……驚いた、日本人だよな?」


 千代子の口から聞き慣れた言葉が飛び出てきたことに驚いて、男は怪訝そうに彼女の爪先から頭まで眺め回した。


「杉山千代子です。よろしく」

「ああ、俺は……」


 しかし、そこへ通路の向こうから恰幅の良い老人が怒鳴り、男の言葉を遮ってしまった。


「ロットナー、荷物を客室まで運んでくれ! こんなことで儂の腰を悪くしたら歴史に残る世界の損失だぞ!」


 山のような荷物を指差し、老人は手招きをしていた。男はうんざりしたように眉間を摘むと、千代子に別れを告げた。


「……もう行かなきゃだな。また会えるといいが」

「ええ、またどこかで」


 同じ船に乗っていれば、そのうちばったり顔を合わせるだろう。

 千代子は会釈して男と老人を見送った。


***


 しかし、再会は存外早かった。

 その晩、夕食のために食堂に向かったところ、メニューを手に言い争う二人と遭遇したからだ。どうやら酒を頼むかどうかで揉めているらしい。


 窘めに入った千代子だったが、異邦人たちは彼女の正体を知ると、思わぬ邂逅に大層喜んだ。実のところ彼らもまた、調査団に任じられた英雄たちなのであった。


 この素晴らしい出会いには乾杯をするべきだという老医師の主張によって、高級酒は無事に頼まれた。


「なんだ、君もアルゴノーツの参加者だったのか。それも……俺たちと同じ医療班の」

「サエキの弟子なら腕は確かだな。フフ、何かあったら儂の名前も出していいぞ」


 若い男は名をスヴェン・ロットナーと言った。

 ドイツ北東部の農村生まれで、村で一番に頭が良かったために、大学に行かされて獣医学を学んだという。


 大戦が始まったのはその在学中のことであった。

 間もなく、ロットナーも戦地に向かうことになった。西部戦線だった。唯一の幸運は、塹壕の中で銃を抱えているより、軍馬の面倒を見ている時間のほうが長かったことだ。


 戦況が悪化してくると、ロットナーは人間も診ることになった。軍医の助手として、呻く兵士の頭を縫ったり、膿んだ手足を切り落としたりする仕事である。銃弾大砲の飛び交う前線と、どちらがマシかは言うまでもなかった。


 そうして何年かを生き延びると、ついに戦争は終わった。

 問題はその後だった。

 どうにかミュンヘンまでは帰ってくることができたが、そこで路銀が尽き、故郷どころか大学のあるベルリンにも戻れず、ロットナーは途方に暮れるしかなくなった。


 そこに偶然通りがかったのが、ロットナーの大学時代の講師だった。定年で退職した後、ミュンヘンに住む息子夫婦のところへ身を寄せていたのである。


「それで、仕事を探してると言ったらこの爺さんを紹介されたんだ」


 老医師、ジョン・スタンレイはイギリスの著名な外科医である。

 そのとき既にイギリス政府からアルゴノーツ乗船の打診を受けていたスタンレイは、旧知の学者に意見を聞こうとドイツを訪れていたのだった。


 ロットナーの来歴を気に入ったスタンレイは、即座に彼を調査中の助手として採用することに決めた。

 以来、彼らはハワイを目指し、二人旅をしてきたのである。


「でも欧州から来るのなら、大西洋を渡れば済んだのではなくて?」


 千代子は紅茶に入れたスプーンを回し、そう尋ねた。

 ハワイに着くことが目的であれば、わざわざスエズ運河を越えたりせず素直にアメリカへ渡ったほうが早いはずだ。


「それが吝嗇(けち)な名医もいたもんでな。客船のチケットを取るより船医として商船を乗り継いだほうが安いと抜かしやがった」


 船員の病気を安く診るのと引き換えに、現地の船舶に乗せてもらうということをトリエステから香港まで繰り返したようである。

 ロットナーに溜息を吐かれ、スタンレイは大袈裟な手振りで反論した。


「頭の固い若造に、貴重な症例を診る経験を積ませてやったんだ」

「ああ、あんたには感謝するよ。風邪引いた山羊に薬を飲ませる方法はもう……完璧だ」


 そう言うと、ロットナーはワインを一気に呷った。


 天候や港の都合でハワイまではおよそ二週間ほどの旅程を見込まれていた。

 その間、千代子はロットナーたちと夕食や討論を重ね、この先の任務に向けて交流を深めることとなった。

 そんな訳で、ハワイがオアフ島に船の到着する頃には、三人はすっかり仲良くなっていたのである。

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