36節 『また、いつか』
誰一人欠けることなく、五十人の船員が集まった。
雨風の中でも船員たちは明るく船出の用意をする。
海を泳いでキャリバンがぎゅうぎゅう集まって、皆で船を押し出してくれる。
ウィリアムズが大股に船室へ飛び込み、船長の椅子にようやく主人が戻った。
デ・ルカは舵を握ったまま、鼻歌交じりに呟いた。
「ふんぞり返るのも楽しかったけど、やっぱりおれはここじゃなくちゃ」
今度こそ、本当の出港だ。
ウィリアムズはにやりと笑って手を振り下ろす。
「さあ行くぞ、ヨーソロー!」
金の舳先はハワイを指し示す。
キャリバンたちの振るう尻尾に見送られながら、サンダル号のエンジンは再び太平洋へと唸りを上げた。
「怪我人を奥に運べ! 応急処置をする!」
スタンレイの指示で、ばたばたと人々が動く。
重たげな医療鞄を抱えながら、彼は千代子を仰ぎ見た。
「チョコ、忙しくなるぞ。まだ動けるな」
「ええ、勿論」
快く頷きながらも、去り際、千代子は少しだけ遠くを振り返る。
離れゆくゴールデン・フリース。どこまでも不可解な謎に満ちた、素晴らしい島のことを惜しむように。
「あ──────!」
振り返った千代子は目を丸くした。
彼方、つぶらな瞳と視線がぶつかる。
島の周りを囲うように、銀色の蛇が頭をもたげていた。
蛇、否、人はそれを龍と呼ぶのかもしれない。
額の角が雲を裂き、鬣は焔のように暴風にたなびく。
千代子以外の船員は、慌ただしくしてまったく気づいていない。
龍は海中から長い首を伸ばすと、真っ赤な髭を揺らして欠伸をした。
ほう、と甘く吐き出した息は、船を南へ送り出す追い風となり、サンダル号の帆は力一杯に広がっていく。
龍の尾鰭の一振りで、嵐は掻き消え、帰路を示すように雲が開けた。
燃えるような夕焼けの海の上、サンダル号が煌めいて遠ざかるのを横目に、龍がくすくす笑ったような気がした。
それからすぐに、龍はゴールデン・フリースと共に海中へ沈み、水平線のどこにも見えなくなってしまった。
千代子は少しだけ笑って、船内へ駆け出して行った。
***
鴎の声が聞こえる。港は近い。
ロットナーが目を覚ますと、少し懐かしくも感じる、船の医務室の寝台の上にいた。
「起きた?」
軽やかな声が耳をくすぐる。
隣で座っていたらしい千代子が彼の顔を覗き込んだ。
「ああ……」
一体、自分は何をしていたのだったか。
ロットナーは瞬きをしてから、起き上がろうと身じろいだ。
「何が……ああ痛い!」
折れた右脚が悲鳴を上げて、ロットナーは寝台の上で転がり呻いた。
千代子は落ちたシーツを掛け直し、ロットナーの額に触れると、首を傾げる。
「まだぼんやりしてるわね。すごい熱が出て、三日も寝てたのよ」
もうすぐハワイに着いちゃうんだから、と千代子は言った。
秘密めいたその顔を、ロットナーは不思議そうな目で見ていた。
千代子は椅子に戻ると、机に置かれた櫛切りの林檎を食べ始めた。
「自分の名前は分かる?」
「ロットナー……」
ゆっくり身を起こして、答える。この一か月、随分とたくさんそう呼ばれた気がする。
「……第七班はどうなった?」
ぽつりと尋ねると、千代子は安心させるように穏やかに笑って答えた。
「今は監視付きで待機中。ハワイに着いて治療が終わり次第、ちゃんとした裁定が出るはずよ」
スタンレイのおかげで、全員、命に関わる状態は抜け出したらしい。彼の腕前には舌を巻く。
「彼らと何か話したい?」
千代子にそう訊かれ、ロットナーは少し考えてみたが、とにかく必死だったことは覚えていても、何を言ったか言ってないのか、よく思い出せなかった。
「いや、いい……やっぱり、あまり覚えてないな」
「本当? 健忘かしら。私の名前は思い出せる?」
千代子に詰め寄られ、ロットナーはぼんやりしたまま言った。
「────千代子。杉山千代子だ」
「…………」
千代子がぽかんとしてこちらを見ている。
何故だろう。間違えてなどいないはずなのに────。
ロットナーは急速に頭が冷え始め、代わりに汗がだらだらと垂れてきた。
「いや、違う、そういうことじゃないな、チョコ! チョコだ! そうだろ?」
夜な夜なこっそり練習していたことがバレたかもしれない。
途中で、自分は今もしかして大変に気持ち悪いことをしているのではないかと気づいてやめた練習を。
慌てふためくロットナーに対し、千代子はすんとした顔で言った。
「あなたっていじわるね。本当はちゃんと言えるのに、ずっと隠してたの?」
「いや、その、違くて……」
ロットナーはもはや何の弁明もできずに口ごもる。
しかし、すぐに千代子は吹き出した。
「なんてね! 何もかも忘れてなくて安心した。今はまだ混乱しているだけみたいね」
カルテに数文書き付けると、千代子は林檎を一欠片、ロットナーの手のひらに置いて立ち上がった。
「また来るわ、ゆっくり休んで。────スヴェン」
柔らかな唇が甘く弾ける。
千代子が出ていった後も、ロットナーは数分もの間、呆気に取られたまま林檎の欠片を手に乗せていた。
林檎が温くなった頃、後ろの寝台のカーテンが開き、祖父を看ていたアンドレアスが顔を出す。
「悪いけど、おれたちもいるからね」
「ああ、何も聞かなかったことにしてくれ」
***
ハワイに帰ってきたサンダル号の船員たちは、すぐに病院に運ばれ治療を受けた。
幸い、それ以上症状は悪化することもなく、全員が快方に向かっているという。
二週間ほど経ち、軽症だった千代子たちは退院を許可された。
「これでみんなともお別れなのね」
オアフ島のホテルの前で、千代子は旅行鞄を手に空を仰ぐ。
未だ膨大な書類仕事が残っていてとても帰れそうにないというカーレッドは、トロピカルジュ―スを片手に見送りに来てくれた。
「チョコはこのまま日本に帰るんですか?」
「そうね。名残惜しいけど、お父さまたちも心配なさっているでしょうから」
「それなら、横浜までまた一緒に……」
松葉杖をついたロットナーが嬉しそうに言いかける。
すると、その袖を引いてスタンレイが反対側を指差した。
「何を言っとる、儂らはあっちだ」
「え?」
「南米行きに乗るの?」
千代子が尋ねると、スタンレイは胸を張って頷いた。
「そうだとも。来た道をそのまま戻って何が楽しい」
近頃できたというパナマの運河も通ってみたいものだ、とスタンレイはほくほくしている。
ロットナーは少し深く息を吸ってから、落ち着きを保とうと努めて笑い返した。
「いや、そうだな、じゃあ爺さんとはここでお別れだな。ありがとう、俺は一人でまた乗り継いで帰るから」
「ならん!」
踵を返そうとするロットナーをスタンレイは一瞬で後ろから羽交い絞めにし、信じられないほどの力で引きずって歩く。今この瞬間だけ、二十歳は若返ったようだ。
彼はロットナーの頭をごつごつ叩きながらわめき立てた。
「ともかくお前には見聞が足りん! 故に、儂の弟子として、世界を見せてやらねばと思っておるのだ! さあ、地球一周じゃあ!」
「ふざけるなよクソ爺ーーーッ!!」
松葉杖を振り回しながら、ロットナーは珍獣のように連行されていく。
千代子は口を押さえてそれを眺めていたが、船の汽笛に急かされて反対側へ歩き出す。
その背中に向かって、ロットナーは大きく口を開けた。
「チョコ!」
千代子が微かに振り返る。ロットナーは問いかけた。
「俺たち、また会えるよな!」
いつの日か、同じことを言ったような気がする。
あのときはただの決まり文句に過ぎなかった。だが、今は。
今は、ただ、心から思っていた。それは決意にも似て、そして、誓いでもあった。
彼女はくしゃりと笑った。少し伸びた黒髪を初夏の風になびかせて。
「ええ、きっと」
千代子は言った。
「また、いつか!」




