35節 『ありがとう』
裏口を抜けると、陽は既に午後の傾きへと差し掛かっていた。
ウィリアムズは険しい顔をしてユキに尋ねた。
「人を運ぶなら来たときと同じ道は使えない。海岸側は回れるか?」
『デキル、ケド、トオイ!』
ユキは困ったように飛び跳ねて答える。
思った通り、あの洞窟は山を貫いて島の北と南を繋いでいた。迂回して進むのは、かなりの遠回りになるようだ。
しかし、全員で通り抜けるにはそちらを使うしかない。
「日没までどれくらいかしら」
「ざっと六時間だな」
千代子の質問に、ロットナーが懐中時計を開いて答える。
村に辿り着くまでに五時間ほどかかった。交戦と手当の時間があったことを差し引いても、負傷者を連れて移動するには心もとない制限時間だった。
「ギリギリだな……悪いが休憩はなしだ。死ぬ気で行くぞ」
ウィリアムズの言葉に二人は緊張した面持ちで頷いた。
一行はユキの勧めで西側の海岸線を進むことにした。
しかし、整備などされてもいないその一帯は、当然道なき道を行くことになる。
小柄な千代子が一人で先導し、比較的安全に渡れそうな経路を探す。
「嵐が近いな……急がねえと」
ウィリアムズが舌を打つ。
木々が騒ぎ出している。風も吹いてきた。
遠くの空には薄暗い雲が広がり始めていた。
辺りはどんどんと暗くなっていく。
ロットナーは渇いた息を零しながら、クラウゼヴィッツを支えて歩いた。
疲労から、視線は頼りなくゆらゆらと泳いでいるが、それでも確かに千代子の背を追っていた。
そんなとき、海から横殴りに吹きつける風はいたずらにロットナーの芯を崩し、クラウゼヴィッツごと突き落とそうとする。
「……ッ!」
しかし、ロットナーは咄嗟に右足を踏み込んで堪える。
叩きつけた反動が雷撃のように迸る。
足首が軋み、割れていく音が身体を伝った。
「う、ぐ…………!」
「どうしたの?」
思わず漏れ出た呻き声に、千代子が不安げに振り返る。
しかし、ロットナーは何も答えなかった。
千代子の体格ではクラウゼヴィッツを支えることはできない。
後ろにいるリドフと楊逸にも自力で歩く以上の余裕はない。
これは自分のやるべきことだ。
まだ歩ける。それは折れていないのと同じだ。
否、たとえ脚の骨が無数に砕け、腱がずたずたに裂けたとしても、必ず辿り着いてやる。
「こうなったら、ヤケクソだ……!」
冷たい雨が降り始めた。
運命は未だ、彼らを故郷に返すつもりがないようだった。
***
小雨がちらつき始めた甲板では、アダムスがゴールデン・フリースのほうをじっと見つめ、腕を組んで立っていた。
サンダル号はすぐにでも出港できる状態にあった。
全身が濡れるのも構わず待っているアダムスを見かね、シャルルは船室へ戻るよう勧めた。
「団長、休んでろって。入り江はオレが見ておくよ」
「いや、私も待つ。それが務めだ……」
低い声で答えたきり、アダムスはまた石像のように動かなくなった。
シャルルは頭を掻いてから、黙って並んで船べりに肘をつく。
その後ろで粛々と仕度を進める船員たちも、二人と同じ顔で島を見ていた。
曇天は四方を覆い隠し、もはや斜陽がどこに沈もうとしているかも分からない。
デ・ルカは舵を握って待っていたが、時計を見ると、歯ぎしりをして声を上げた。
「そろそろ出るよ! 帆を張って!」
「待てよ! まだ陽は……」
「もう沈む! このままだと帰れなくなっちゃう!」
シャルルの制止を跳ねのけ、デ・ルカは再び出航を命じた。
彼はウィリアムズから船長の権限を譲り受けている。それは彼女が背負っていた責任を引き受けたということでもある。
彼の判断に、それ以上、誰も異論を唱えようとはしなかった。
アダムスは血が滲むほど拳を握りしめ、頭を振ってようやく中へ戻ろうとした。そのときだった。
「おい、まさか、あれを見ろ!」
マストに登りかけていた船員が大声を上げた。
スコットが双眼鏡を構え、すぐさま確認に走る。
顔を上げた彼は歓喜に満ちた顔で叫んだ。
「小舟です!!」
「全員乗ってるのか!?」
掴みかかるスタンレイにスコットが頷くと、アンドレアスが飛び上がる。
「やった、チョコがやったんだ!」
「縄梯子を下ろせ! 早く!」
もはや、誰も出航の作業など取り組んでいない。
デ・ルカは溜息をつき、満足げに舵へもたれかかった。
***
七人を乗せた小舟は、荒れ始めた海を不器用に進む。
叩きつけるような雨と風と波が、彼らを逃がさず沈めてしまおうと襲いかかる。
「…………!」
ウィリアムズが千代子を抱える。
その瞬間、巨人の手のひらのような波濤が舟を呑みこんでしまった。
小舟は壊れ、千代子たちは波間に放り出された。
「クソ、こんなところで……ッ」
ウィリアムズは壊れた舟の板を掴みながら唇を噛む。
海水はひどく冷え切って、みるみるうちに七人の体温を奪っていく。
とりわけ、海流の寒さと渦がロットナーの脚を痛めつける。
(まずい、意識が…………)
ロットナーにはもはや波から顔を出す気力もない。
木片にしがみつく腕の力が抜けていく。
気を失い沈む間際、暖かい腕が彼を掻き上げた。
何よりも力強い声が嵐の音を裂いて響く。
「よく頑張った、もう大丈夫だ!」
それはアダムスだった。
彼は海へ飛び込み、波浪を越えて仲間たちを迎えにきたのだ。
アダムスは大きな腕で英雄たちを抱きしめた。自分の傷が痛んでも、血が零れても、構わず強く抱きしめた。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう!」
アダムスは何度も何度も礼を述べた。千代子たちは薄っすらと微笑んだ。
迎えの小舟が大手を振ってやってくる。彼らは助かったのだ。
「帰るんだ、みんなで、帰ろう………!」
アダムスの涙が春の海に零れていった。




