34節 『不老不死』
史記に曰く、秦始皇帝は至上の君主たる我が身の朽ちることを嫌い、不老長寿の術を探していたという。
皇帝は自ら山東半島を巡り、仙人を探した。しかし、それらしきものは見つからなかった。
また、地方府に書簡を送り、官吏に不死の仙薬を探させた。しかし、それらしきものは見つからなかった。
いつしか皇帝のもとには、怪しげな方士たちが集まるようになっていた。
その内の一人に、徐市という者がいた。
徐市が皇帝に見え奏上することには、以下のような話であった。
「遠い東の海中には仙人の棲む山があると申します。私にお任せくだされば、船を造り、人を従え、ひとつ神仙の秘薬を探してまいりましょう」
皇帝は調査を許し、彼に大金を与え、数千人の童男童女を従えさせた。
初め、徐市はあれこれ弁明を申してなかなか出立しようとしなかったが、いよいよ皇帝の堪忍がならないと察して海に出ると、それきり帰ってこなかった。
こっそりと戻って来たとも、どこかで王になったとも、日本に移り住んだとも伝わるが、本当のところは分からない。
その間、皇帝は別の方士の進言を受け、水銀から作られた薬を飲むようになっていた。
皇帝は四十九歳で崩じた。
その陵には無数の水銀の河が造られたと伝わるが、その痕跡が科学的に証明されるのは二〇世紀の後半を待たねばならない。
***
銀の夢に魅入られたのは何も始皇帝に限らない。
東西を問わず、多くの人々がその神秘的な振る舞いに欺かれてきた。
何千年を経ても、その美しい銀色の液体は万能薬として人を殺し続けた。
それらはまったくの無意味な行いだったという訳ではない。
武器、採掘、農薬、照明、温度計、水銀から生まれた技術は人を発展させてきた。
それでも、その偉大な功績よりも、そこに在るだけで振り撒く害のほうがずっと大きい。
そして、人はそれを毒と呼ぶのだ。
徐市は帰らず、真人になろうとした始皇帝は死んだ。
死者を蘇らせる薬を作った医者は神の怒りに触れて殺された。
メソポタミアのギルガメシュは不老をもたらす草を蛇に食われた。
老いと死はいつでも人の領域の外にあった。
「結局、どんな病気も魔法のように治してしまう薬なんて、世界のどこにもないの」
隠し通路から姿を現した千代子は、白魚のような指先でリドフを抱き起こした。
「それでも人は、夢を見るのをやめられないのね」
帰りましょう、と呟いた。
ロットナーがクラウゼヴィッツを背負い、ウィリアムズはブエナベントゥラを抱え上げる。
それを見た楊逸はようやく微笑み、謝りながらキャリバンの入った籠を壊して自由を与えた。マツは毬のように転がり出ると、駆け寄ってきたユキと嬉しそうに何度も鳴き合った。
ブエナベントゥラを背中に背負い直しながら、ウィリアムズは千代子に尋ねた。
「こいつらは助かるのか」
「やり方は幾らかあるわ。とにかくまずはハワイに戻らないとだけど」
千代子の答えに頷くと、ロットナーもクラウゼヴィッツへ肩を貸して歩かせる。
去り際、ウィリアムズは井戸をちらりと見てから、誰にともなく呟いた。
「不老不死、そんなにいいもんかね」
「私、思うのだけど」
千代子は前を向いたまま答えた。
「きっとあれこれ欲しいものを考えているときが一番楽しいのよ。本当は、手に入らなくても構わないの」
「そうか?」
「竹取物語っていう話があってね。竹から生まれたとても奇麗なお姫様のお話よ」
世に名高きかぐや姫にはたくさんの求婚者が現れたが、そのどれもが彼女の出す難題に応えることができなかった。
時の帝が姫を一目見たいと仰せられたが、それさえも彼女は断った。
そして、月の人であったかぐや姫は育ての親と帝に不老不死の薬を贈ると、月に帰ってしまう。
「でも、帝はかぐや姫に貰った薬を山の上で焼いてしまった」
姫のいない世界では死なずも老いずも意味がないと帝は答えたという。
彼女を育てた老夫婦も薬を飲むことなく、娘がいなくなった悲しみのために床に臥せてしまう。
「誰もが探し求めていたものを、予期せず手に入れた人は自分の意思で捨ててしまうの。それって、本当に大切なものはほかの部分にあるからじゃない?」
それを聞いて、ウィリアムズは愉快そうに笑った。
「それじゃあ、次は月に薬を探しに行くのかもな。飛行機にでも乗ってさ」
七人は裏口を辿って地上に戻る。二度と振り返ることはない。
井戸に寄り添う人骨は彼らを穏やかに見送る。その懐から、朽ちた木簡が転がり落ちた。
***
どこから話そうか。
愚かな我々の過ちを。
若き私は夢見がちで、野心に溢れ、自信があった。
何千もの仲間を率い、大海を渡り、この島に来た。
この島は不思議な場所だった。
掘れば掘るほど、銀の泉が湧き出でた。
これこそが不老長寿の答えに違いない。
我々は井戸を作り、銀の水を汲み上げ続けた。
何年も、何年も。
それがどうやら人の手には余る神仙の領域らしいと気づいたのは、仲間が半分に減ってからのことだった。
残った者たちで小さな船を造った。故郷に帰ることは叶わなくとも、どこか陛下の目の届かぬ場所で、ひっそり暮らすことはできるだろう。
老いた私と僅かな者たちは島に残ることを選んだ。
井戸を埋めることにしたのだ。
再びこの島に人間が訪れたとき、私と同じ過ちを繰り返さないように。
ここに至り、私は答えを得た。
すべては大きな川の流れのようなものだ。
いつでもゆったりと流れていて、何人にもそれ以上の変化は許さない。
いたずらに小石を投げ込んでも、それは流れの中の小さな飛沫でしかない。
けれど誰かが無理やり堰き止めようとすれば何もかも台無しになってしまう。
我々は山から湧き出でる一滴の水だ。
雫は寄り集まって川になり、いつかは海に届くだろう。
海はやがて雲を生み、雫は雨となって山に帰ってくる。
不死とはまさにこのことである。
それは血であるかもしれないし、文字であるかもしれない。
あなたが植えた木、あなたが蒔いた種かもしれない。
不変であることはできない。ただ、あなたの魂が、姿形を変えて残っていく。
喜びも、善意も、過ちも、後悔も、あなたの選んだものすべてが大きな川の流れの一部となってどこまでも生き続ける。
案ずるな。
あなたはあなたの百年を自由に生きるがいいだろう。
いつかまた、私たちが出会うときを、徐市は心から楽しみにしている。




