33節 『井戸の底』
ずっと気分が悪かった。
ずれた眼鏡を直す気力もない。
胃が、肺が、脳さえも、ぐずぐず溶けていくような気がする。
延々、喉を垂れ流れているのは、涎なのか血液なのかも分からない。
色のない猛毒が全身を蝕む。
どんどん視界が暗くなって、もう目の前のことしか感じ取れない。
もしかすれば、そう感じるものさえ、虚像なのかもしれないが。
それでも、ひたすら下へ下へと降りていく。巡り巡って降りていく。
地の底へ。暗がりの果てへ。片道切符の冥界行。
ぐるぐる。ぐずぐず。ぐるぐる。ぐずぐず。ぐるぐる。ぐずぐず。
自分の形も忘れそうだ。蝶が見ている夢のようだ。
手足の感覚がなくなってきて、まるで蛞蝓にでもなったみたいな気分だった。
のたりのたりと歩いていて、ちっとも前に進めやしない。
これじゃ駄目だよ。追いつかれちゃうよ。
そうは言っても、どこに行けばいいのか分からないよ。
誰も正しい道を教えてくれやしなかったんだから。
ぐるぐる。ぐずぐず。ぐるぐる。ぐずぐず。ぐるぐる。ぐずぐず。
さむい。あつい。おなかがいたい。
きっと悪いことをしたから、ばちが当たったんだ。
でも、いったい、何をしたんだっけな。
そもそも何がしたいんだっけ。
町で子どもを見かける度に、あの子のことを思い出すんだ。
誰も殺したことがない、きれいでみにくいアヒルの子。
いつも小さく俯いていて、星を見上げたことがない。
もしもぼくが、きらきら素敵なものを見つけたら、みんなは幸せになれるかな。
あの子みたいな人たちがやっと自由に生きられるなら、そんな嬉しいことはほかにない。
***
重たい水溜まりを踏みにじり、息を切らして辿り着く。
クラウゼヴィッツは壁にもたれながら、呆然と呟いた。
「ついた」
壁面が何かで燦めいて、辺りはぼんやり光っている。
無数の銀色の筋が血液のように滔々と流れ落ちていく。
銀の滝、銀の雨、銀の川。
絶景だ。
だが、それだけだ。
花も木も虫も鳥もない。ぴかぴか光るあの毒が何もかもを殺してしまった。
ここには不老不死の答えなど有り得ない。
あらゆる生命が無い故に。
おかしな話。無いものをどうして永らえさせようというのだろう。
突然、クラウゼヴィッツを突き飛ばすように、後ろからリドフが駆け出した。
しかし、すぐに足をもつれさせ、泥の上を転がった。
「はは、ははは!」
リドフの悲しげな笑い声が大穴の中に響き渡る。彼が顔を掻きむしる度に、血肉が涙のようにぼろぼろ落ちた。ブエナベントゥラは楊逸に抱えられ、朦朧とした様子でその姿を眺めていた。
「こんなもの、こんなものが真実か! こんな、分かり切った、何の意味もない答え合わせのために、私は! すべての可能性を失うのか!?」
リドフが絶望を嘆き、うずくまるのを横目に見ながら、クラウゼヴィッツはよろよろと進み始めた。
「おえっ、ごほ、ごほ」
未だその瞳には熱と光が宿っていて、それだけが今にも溶けてしまいそうな心を人の形に留めている。
楊逸は霞む目を凝らし、彼が向かおうとしている物を見た。
「────井戸?」
それはどこにでもあるような古ぼけた井戸だった。
傍らには、一人分の人骨が、縋るように寄り添っている。
骸骨の守る横を抜け、クラウゼヴィッツは井戸を覗き込んだ。
冥府に惹かれて垂れ下がる、釣瓶に溜まった水銀の上、何かがぷかぷか浮かんでいる。
枝だ。黄金色の木の枝だ。
根は白銀、実は真珠のように美しい。
この世のものとは思えない、完全無欠の宝物。
クラウゼヴィッツは釣瓶の綱をぱっと流れ星のように掴んだ。
「あ」
ぷつん。
井戸が役目を果たすには、あまりに時が経ちすぎていた。
綱は蜘蛛の糸より脆く千切れた。
金の枝がひゅうと遠ざかる。
クラウゼヴィッツは地獄へ転げ落ちるように右手を伸ばす。
底なしの古井戸が、馬鹿な男をつるりと呑みこむ。
墜ちる。
その間際、左の手首を誰かが掴んだ。
「要らないだろッ! そんなもの!」
つんざくような怒鳴り声が、クラウゼヴィッツを引き戻す。
青い、青い、輝く目が、怒り、悲しみ、こちらを見ている。
「……ロットナー?」
尻もちをついて彼の名を呼ぶと、ロットナーは鼻を鳴らし、クラウゼヴィッツの手を放す。
クラウゼヴィッツは頭が痛くなってきて、ぐしぐしと額を擦った。
「何で、こんなところにいる」
「何で? 全部お前の所為だろが!」
そう言うと、ロットナーは血が付くのも構わずに、クラウゼヴィッツの胸倉を掴む。
「あんたが後悔してるのは、自分が正しいと思って選んだことが、ひどい間違いだったからだ」
戦争は過ちだったかもしれない。大人たちが決めたことで、たくさんの若者や、子どもたちが割を食った。今も、取り戻せない傷が世界中に残っている。
それでも、とロットナーは口を開く。
「それでも、過去の失敗を取り返すのに、俺たちを使うな。お前なんかに与えられなくても、俺たちは、いつか自分だけの一番星を探しに行く」
我々は、糸を紡ぐように脈々と、世界に招かれ生まれてくる。
どんな絵になるか、織り上がってみるまで分からない。
それは百年後かもしれないし、千年後かもしれない。
時間という雄大な流れの前には誰しも等しく無知な旅人に過ぎない。
願われなくとも初めから、自由に、必死に生きている。
ロットナーは顔を苦しげに歪めて呟いた。
「……俺は一度止めたのに勝手なことして、また俺に人を殺させる気か」
それから、ロットナーは力なく膝をつき、深く項垂れた。
その顔は泣いていた。
クラウゼヴィッツは目を見開き、しばらく口を動かしてから、小さく、小さく答えた。
「ごめん」




