31節 『作り物の蓬莱』
もう一度、あの門の前に来た。
「これが入り口か」
ロットナーの言葉に、千代子は静かに頷いた。
醒めるような赤色が、まるで生き物の胎内のようだった。
暗闇と目を合わせる度、何かに胸の奥を掻き立てられる。
畏怖と言おうか、背徳と言おうか。
陽は高く昇ってきたが、未だ穴の行き着く先は見えない。
ただ、暗がりの向こうから、湿った風の通る音が誘うばかりだ。
「行こう」
千代子は唇を震わせて言った。
誰も食われず帰るには、すべての答えを知るほかない。
千代子は慎重に穴の中へと踏み出した。
通路の四方は小さな丸石が積み上げられた壁に囲まれていた。これは、木簡を見つけた遺跡と同じ様式だ。
そして、その上から、あの赤色の根源たる顔料が薄く塗りつけられていた。乾き切った泥は少し触れるだけでも零れ落ちる。
「全部辰沙ね。なるべく壁には触らないようにして」
「それは分かったが……狭い……!」
ウィリアムズが掠れた声で叫ぶ。
彼女はその高い上背のために、小柄な千代子のようには進めなかった。
腰を屈めて膝を曲げ、恐竜の真似でもしているのかという有様だ。
彼女ほどではないにせよ、ロットナーも楽には通れない。何度も頭をぶつけながら、先を歩く千代子とユキを追う。
「本当にあいつらもここを通ったのか?」
『トオッタ! ニオイ、アル!』
飛び跳ねて答えるユキに、千代子は以前から気になっていたことを尋ねた。
「マツもこの先のことは知ってるの?」
『シッテル。ダカラ、アンナイ、デキル』
ユキは鼻先を上げて呟いた。
『コワイオモイ、シテナイカナ』
「心配ね。早く探しましょう」
千代子は足を速めた。
どれほど歩いただろう。
遠くにぽっかりと光の円が見えた。
来た道よりもずっと小さな、獣の掘った穴のような、大人ひとりがようやく抜けられるといったくらいの穴だった。
「外だ。待ち伏せに気をつけろよ」
ウィリアムズの忠告に頷き、千代子は恐る恐る外を覗く。
「…………え?」
千代子は薄く声を漏らし、そのまま外に這い上がった。
続けて飛び出たユキが、ふさふさと尾を振って喉を鳴らす。
『ココガ、ハジマリ。イチバン、サイショ』
それはあまりにも穏やかな空間だった。
膝下丈の草原がどこまでも広がり、風にたなびく。
崩れかけの木材は確かにそこに小屋があったことを物語る。木目が塩を噴き出し、その上を日差しがきらきら遊んでいた。
点々と生えた木は果樹のようで、枝先には花が数輪いじらしく咲いている。
「これ、偽物だ」
花枝に触れ、千代子が呟く。
木は既に枯れていた。珊瑚や貝殻を削って作った造花が、金の針金で結ばれているだけだ。
立ち竦む千代子の後ろから、ロットナーとウィリアムズもやってくる。
ウィリアムズは辺りを見て、感嘆の声を漏らした。
「人が暮らした跡がある。一人二人じゃないぞ」
「いつの間にか山を越えてたみたいだ。こんなところがあったんだな」
当てもなく歩いていけば、家に農具、畦道や水路跡などが壊れかけても残っていた。
すべては若草と塩の欠片に包まれ、まるでそれ以上衰えることがないよう、時間を止めてしまっているようだった。
「ずっと昔に、たくさんの人たちがここで暮らしてたんだ。でも、もう誰もいない……」
千代子は寂しくなった。
ここは鳥の声も虫の音もしない。
不老不死を求めた果てがこの場所だというのなら、それはとても悲しいことのような気がした。
イスハークの話では、第七班は『不死の霊薬』は植物だと考えているそうだ。
しかし、果たして答えはそれほど単純なのだろうか。
何故ここに、最初の人間が眠っているのだろうか。
千代子が考え事をしている間、ロットナーはふらりと離れ、赴くままに辺りを見て回った。
クラウゼヴィッツたちが物陰に潜んでいないとも限らない。警戒するのは自分の役目だ。
とりわけ形を保っている家を見つけ、ふと覗き込む。
にこやかに笑う小さな老爺と目が合った。
「おわァー!!」
「どうした!?」
腰を抜かして転がり後ずさるロットナーのもとへ、ウィリアムズが血相を変えて駆け寄る。
ロットナーは何度も鼻を啜ると、目を凝らして呟いた。
「に、人形か……」
ロットナーを穏やかな微笑みで見上げていたのは、焼き物で作られた老人の人形だった。
背丈は一・三メートルくらいだろうか。細長い白髭を垂らし、薄く目を開けて窺うように首を傾げ、両手で布を差し出している。どうやら、服を持たされているようだ。
「おお、よく見りゃたくさん置かれてんな」
ウィリアムズの言葉に辺りを見渡せば、確かにそれらしい姿がぽつぽつと見える。
種蒔き、機織り、食事に居眠り。
どれもがかつての住人の暮らしを切り取ったような姿をしている。
まるで人形の住む村だ。
ただ、長い年月が経っているのは間違いないようで、人形の中には大きく欠けてしまったものや、色褪せてしまったものも少なくない。
直してくれる人もいなくなり、人形たちは命もないまま、ずっと同じ生活を続けていたのだろう。
「……お前、何年ここで服を抱えてるんだ?」
ロットナーの問いかけにも老爺の人形は首を傾げて笑うばかりだった。
そんなとき、ロットナーの肩をウィリアムズが叩いて言った。
「ロットナー、お前着替えたらどうだ。唇青いぞ」
「あら、本当。寒いんじゃない?」
ロットナーはきょとんとして自分の口を触った。
確かに、川に落ちたあと身体は拭いたものの、森の中で全裸になるという訳にもいかず、服は濡れたままだった。
言われてみれば肌寒いのは事実だが、ロットナーは気が進まないという風に眉をひそめた。
「……勝手に着たら怒られないか?」
「あの世にいても使えないんだから別にいいだろ。人助けに使うほうが持ち主の魂も救われるってもんだ」
ウィリアムズの反論に腑に落ちないところもあるまま、ロットナーはとりあえず納得することにした。
「ごめんなさいね」
千代子は老爺の人形にそっと声をかけ、服を取る。
すると、何千年振りかに荷物を下ろして安堵でもしたかのように、人形は少しだけ傾いた。
ロットナーは服を受け取り、壁の陰でこっそり着替える。三回ほど手順を千代子に大声で尋ね、それでも何とか自力で帯を締めることに成功した。
足首まで覆う長衣のようだ。
黒地に金糸で幾何学模様が織られている。
とても古い物のようだが、襤褸という気はしなかった。
「外套みたいだ」
「似合ってるわよ」
『カッコイイ!』
口々に褒められ、ロットナーは満更でもないという顔で腕を組んでいた。
心配も減ったところで、次に目指す方向をユキが教えてくれる。
『ススムノハ、ズット、アッチ。ズット、ズット』
赤い門が墓陵の入り口なのだと思っていたが、ここを見るにどうもそうではないらしい。
まだもう少しだけ、歩かなければならないようだ。
「先へ進もう。きっともうすぐだ」




