30節 『少しだけ』
一転、山間に谺するのは鹿の荒い吐息ばかりだ。
鹿を駆り、千代子たちのもとへ戻ってきたイスハークは、その背から飛び降りると小走りで走り寄ってくる。
「すまない、逃げられた」
「いえ、助かりました」
カーレッドはそう応えると、どっと息を吐いた。
へたり込む彼女の背を千代子が支える。
「カーレッド、大丈夫!?」
「ええ、私は平気です、それより彼のほうを……」
カーレッドはロットナーが落ちた谷のほうへ視線を向けた。
深さは五メートルはあるだろうか。ぱっくりと巨人が口を開いたような裂け目の底に、さらさらと水が流れている。
ウィリアムズは身を低く乗り出して大声で叫んだ。
「おい、生きてるか!」
何度も呼びかけられて、ようやくロットナーはまだ自分が生きていると分かった。
偶然にも崖下は深い淵だった。
気を失い、浮きつ沈みつ流れていくところを、運よくすぐ傍の枯れ木に襟が掛かり、丁度顔が水面に出るような格好になっていた。
ロットナーは我に返ると何度も咳き込んで、水を吐き出した。
「ああ、何とか……」
そう答えて、手近な岸まで泳ぎ、陸に上がる。時間がない。早く千代子のもとへ帰らなければならない。
「いっ…………」
立ち上がろうとすると、鈍い痛みで力が抜けた。
身体が再び放り出され、砂利に転がったまま右脚を触る。
少し熱い気がする。
(…………でも、完全に折れてる訳じゃない)
落ちたときの衝撃で、骨が少し剥がれたか、ひびが入ったのだろう。
ロットナーは川砂に手を突き、自分に言い聞かせるように呟いた。
「それなら、まだ歩ける」
再び膝を立て、骨を軋ませ、歩き出す。
冷たい川の水が、血液のように滴った。
崖の上では千代子がうろうろと歩き回っては、下る道を探していた。
「ロットナー? どこかぶつけた?」
「何ともない! すぐに上がる」
不安げな千代子の声を掻き消すように喚き、ロットナーは岩場を登り始めた。
天を見上げ、ひたすら上を目指し続けた。
ようやく地上に顔を突き出し、這い上がると、ロットナーは五体を投げ出して呼吸を整える。
額に張りついた前髪をそっと除けて、千代子がロットナーの顔色を窺う。
「びしょ濡れね」
「ああ、今すぐ誰かに温めてもらわないと……」
「タオルを持ってきてあるの。これで拭いて!」
ロットナーはそれきり黙り込んでタオルを受け取った。
幸運なことに、ロットナーの撃たれた傷はそう深くなかった。
彼を乾かしている間、千代子はカーレッドやイスハークの手当てをしていた。
ウィリアムズは大きな岩に腰かけ、その様子を眺めていたが、ふと溜息をついて言った。
「これでカーレッドは取り返した」
「でも、まだマツが捕まったまま」
「その通り。これからどうする」
すると、腕に巻かれた包帯を弄りながらイスハークが答えた。
「私はカーレッドを連れて入り江に戻る」
「それなら、こっちはもう一度彼らを追いかけてみるわ」
千代子がそう言うと、イスハークは小さく頷いた。
「向こうの銃はすべて使えなくした……はずだが、油断はするな」
そう言いながら、イスハークは落ちた矢を拾って集める。
そんな彼の姿を、ウィリアムズは腕を組んでじっと見ていた。
「何だ」
不快そうに眉をひそめたイスハークに、ウィリアムズはのしのしと詰め寄った。
「やっぱオメー喋れるんじゃねえか! 面倒くせえことしやがって!」
「無口は生まれつきだ」
イスハークはぶっきらぼうに答えると、それに、と続ける。
「言葉が分からないと思われていたほうが都合がよかった」
意味深長な彼の言い方に、ロットナーは首を傾げる。
タオルを首にかけながら、大きく振り返って尋ねた。
「なあ、二人はどういう関係なんだ?」
「以前、私が中東調査に同行したとき、彼の一族にお世話になったんです。そのときからの知り合いですよ」
十年弱の付き合いになりますかね、とカーレッドは言った。
「私とアダムス団長だけでは調査団の隅まで目を行き届かせることができません。ですから私は全ての班に対し、それぞれ信頼できる協力者を入れました」
協力者は通常の仕事を済ませつつ、もし気がかりなことがあればカーレッドに報告する。
今回、イスハークは第七班の離反計画に気づき、取り決め通りカーレッドに報せた。今朝の騒ぎは、彼女がその確認をしていた際、偶然見つかってしまったためという訳だ。
カーレッドの情報網は各班に広げられている。
ウィリアムズは恐る恐る手を挙げて言った。
「……九班にも?」
「スタンレイ博士」
「ああ〜…………」
千代子たちは三人で顔を見合わせ、得心が行ったと唸り合う。
しかしカーレッドは眉間を摘まむと、疲れた様子で肩を落とした。
「とはいえ、監視というよりは、些細ないざこざや不満を把握するだけのつもりで……まさかこんなことになるとは」
自分が下手を打たなければ、ここまでの事態にはならなかったものを。
項垂れるカーレッドの手を取り、千代子は宥めるように微笑みかけた。
「大丈夫よ。精一杯頑張ったのだもの。船に戻ってゆっくり休んで。みんなも安心すると思うわ」
カーレッドたちと別れ、千代子たちも再び第七班の後を追うべく、立ち上がる。
ふと、ロットナーは千代子の肌が擦り傷だらけになっていることに気がついた。
さらによく見れば、その指先は微かに震えている。
無理もない。今まで何の心配もなく生きてきた人間が、初めて剥き出しの暴力に晒されたのだ。
ロットナーは少し迷って、それでもやはり千代子の手を取った。まだ拍動の収まりきらない彼の熱が、白い肌と融け合った。
「怖かったな」
千代子は答えた。
「少しだけ」
それから、千代子はロットナーの左手を握り返した。
「痛かったでしょう」
「まあ、少しだけな」
ロットナーは目を逸らした。
日没まで、あと八時間。




