29節 『最後の騎士』
滴の垂れる音が林中に響く。
カーレッドは手の中に椎の実を隠しながら、内心で一つ息を吐く。どうにか奇襲は潰したが、第七班の有利な盤面であることには変わりない。
第七班は千代子たちが先回りしようとしていたことに気がつき、焦りに駆られているらしい。
戦意がないのは楊逸だけで、それも籠を構えて震えるばかり、血気盛んな仲間を諫めてくれそうにはない。
緊迫した空気の中、初めに口を開いたのは千代子だった。
「待って! あなたたちを探しに来たの!」
千代子は一生懸命背を伸ばし、語りかけた。
「帰ろうよ! まだ戻れるから……!」
しかし、千代子の言葉に彼らが頷くことはなかった。
ブエナベントゥラのつむじを見下ろし、クラウゼヴィッツは呟いた。
「外したな」
「すみません、気づかれました」
弾を詰め直しながら彼はそっけなく返す。
それ以上咎めることもなく、クラウゼヴィッツは懐から拳銃を取り出し、撃鉄を起こした。
「まあ、結果は大して変わらん。悪いが、彼らにはここで脱落してもらう」
「あんにゃろ……ッ!」
ウィリアムズは千代子たちを背に庇いながら、必死に銃を向けて威嚇する。
しかし、渓流の傍に段々開けた一帯は劇舞台にも似ていて、上を取られてはもう逃げられない。
進退窮まり、千代子たちが身を縮めた瞬間だった。
カーレッドは咄嗟に口を塞ぐ布を手近な枝へ引っ掛ける。
轡が破れた。
はらりと布は舞い落ち、自由になった舌は微かに震える。
カーレッドは肺を広げて息を吸う。
確かにいると知っている、自分の味方に希う。
「もういい、お願い、皆を助けて!」
たちまち、どこからともなく返事が聞こえた。
「分かった。あなたがそう望むなら」
初め、誰の声かとクラウゼヴィッツたちは疑った。
聞き慣れぬ声だった。
風の吹くような音がして、深渓の岩壁を灰がかった影が駆け下りてくる。
蹄は苔を踏み締め、鼻梁は滝の飛沫を掻き分ける。
雄大な大鹿だ。
馬のように鞍を付け、誰かを背に乗せている。
その二本の角の向こう、鏃が煌めき、空を裂く。
一条の光は瞬きの間にクラウゼヴィッツの肩を真っ直ぐ射抜き、彼は拳銃を取り落とす。
鹿の蹄が花を散らす。
風を切り、古びた赤いスカーフがたなびいた。
「イスハーク……!」
矢を引き抜き打ち捨てながら、クラウゼヴィッツは名を呼び、牙を剥く。
「英国人に飼われたか、誇りを捨てたな!」
「否、私の弓は私の個人的な友情と信念のためにある」
イスハークは奇麗な英語で静かに答えながら、鹿の角を引き、鐙を踏んで進路を切り返す。
腰帯に差した刀をするりと抜き、イスハークと鹿は藪を払って躍り出る。
直射、曲射、あらゆる矢雨がたった一人の手から放たれる。
クラウゼヴィッツたちは散り散りになって崖から弾き出された。
藤の回廊を目前に、大混戦が繰り広げられる。
リドフが小銃を抱きかかえるが、イスハークは構わず鹿を走らせた。
抜き身の刀身を肩に担いだまま、器用に弓を引く。
それから違わず銃身を射ち弾いて、その狙いを逸らす。
万夫不当の輝きは如何なる敵をも突き穿つ。
それは歴史の向こうに消えた星、忘れ去られた砂の騎士。
かつては同胞と共に駆けたこともあろう。
かつては自由を求め殺したこともあろう。
今となってはただ一人、誰に仕えることもない。
ただ、異国の友のため、弓を引く。
己と同じ言葉を話し、笑いかけてくれる彼女のために。
クラウゼヴィッツは矢を避けるように崖を下りながら、忌々しげに叫ぶ。
「話を聞いていたなら分かるだろう! 大局を見ろ、やつらばかりが力を付ければ、お前たちもいつか食い尽くされるぞ!」
「人は小さく、すべてを知ることは叶わない。故に全に囚われ一を見落とせば、最後には百を失うことになる」
イスハークは弓を絞り、黄金色の瞳を燦めかせる。
「ともかく、問答は無意味だ。我々の間に善悪はなく、神の望まれた者が勝つだろう」
イスハークの答えにリドフは歯を食いしばる。もう一度狙おうとするが、銃は弾詰まりを起こしていた。
駄目になった小銃を放り捨て、拳銃を抜く。
「戯言を! 転がり落ちろ!」
「!」
咄嗟に身をよじったが、リドフの撃った弾が弓手の腕を掠めた。
イスハークはそのままずり落ち、鞍の向こうに姿が消える。
「よし!」
破れかぶれの一撃が命中し、リドフはつい拳を握る。
しかし、すぐに異変に気づく。
地面に落ちた音がしない。
発砲に驚いた鹿は、頭を振って飛び退いた。
それでも、イスハークの姿はそこにない。
「おいおい、バケモンかよ…………!」
その曲芸じみた光景にクラウゼヴィッツは舌を打った。
鐙に片足をかけたまま、イスハークは鞍にぶら下がって矢をつがえる。
万全と寸分違わず繰り出される万雷の矢に、もはや彼らの打つ手はない。
カーレッドは混乱の隙を突き、千代子たちのほうへ這い寄った。
轡を外したとき、尖った枝が頬を裂いた。
薄い肌がとても痛む。痛むが、生きている。
ブエナベントゥラがカーレッドを引き戻そうと手を伸ばすが、すかさずロットナーが体当たりで退ける。
その反動で、小銃はブエナベントゥラの手を離れ、空を舞う。そのまま川辺を転げ落ち、たちまち水底へ沈んでいった。
「ブエナベントゥラ! 引くぞ!」
このまま墓陵を目指すしかない。
リドフが怒鳴り、ブエナベントゥラも渋々這って立ち上がる。ロットナーはその肩に掴みかかった。
「待て、この……ッ!」
「邪魔をするなッ!」
怒りのままに振り払ったブエナベントゥラの手が傷に当たり、ロットナーはよろめいて後ずさる。その勢いで石を踏みつけ、態勢を大きく崩した。
後ろは崖だ。
「…………!」
「ロットナー!!」
「まだ伏せてろ!」
悲鳴を上げる千代子の頭をウィリアムズが抑え込む。
ぞっとする間もなく、ロットナーは渓流に落ちた。
その光景をちらりと横目に見たきり、クラウゼヴィッツは足を止めることもなく藤棚の奥へ走り去っていった。




