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2節 『いざハワイへ』

「杉山くん、ハワイに行ってみないか」


 佐伯の問いかけに、千代子は首を傾げて鸚鵡(おうむ)のように繰り返した。


「ハワイ、ですか」

「うむ。初めに言った、呼びつけられた用事というのも実のところはそれについてなのだ」


 それから佐伯は己の分かっている限り詳しく、事の次第を千代子に語った。


 北太平洋に未知の島が見つかったこと。

 それに対し、国際的な調査団が計画されていること。

 佐伯は航海経験のある医者として、乗船を請われていること。


 まるで流行りの怪奇小説の勧めでも聞いているかのようだった。

 千代子は目を輝かせて身を乗り出した。


「では、それに私をお供させてくださるのでしょうか」

「いや、いや。そうではないよ」


 佐伯は重ね重ねに否定すると、少し考え込んでから、ぽつりぽつり語りだした。


「これまでの苦労の甲斐あって、お上の覚えも誠にめでたく、私はこうして誘われている。それは本当に嬉しいことだ。だが────」


 しわがれた手が、膝を擦った。

 三月も終わりといえど折につけ吹く寒風は老体にひどく堪えていた。


「今や私も耄碌してしまった。老いたこの身では、厳しい航海には耐えられない」

「先生」


 立ち上がろうとする千代子を佐伯は片手で制した。


「憂うことはない。人は永遠を生きることはできないのだ。いつかは衰え、朽ちるものだ。それでも我が身は息子たちを通じて残り、我が心は医学の内に残るだろう。私の存在証明はそれで充分だ」


 学問とは、世界を紐解く道具である。

 しかし、この広い天に比べれば、一人の手で明かせる真実は砂粒よりもずっと小さい。

 故に人々は繋いできた。知識という名の旅人を、命という名の船に乗せてきた。

 この長い、永い、旅路のために。


「だが私とて、この一世一代の大偉業をみすみす逃すのは口惜しい。これまで私が私の持つあらゆる知識や経験をすべて君に預けてきたのは、このためだったのかも知れん」


 佐伯は茶を置いた。

 息を詰める千代子の前、膝をつき、深々と頭を下げた。


「杉山くん。お願いだ。是非、その奇妙な島の真実を君自身が解き明かしてはくれまいか」


 千代子は佐伯の願いを承諾した。


 佐伯の熱心な推薦に加え、名店『廣鳳堂』の娘で薬学にも見識があること、既に医師免許を持っていたことなどが功を奏し、千代子はすぐに船員名簿に追加されることになった。配属は医療班であった。


 佐伯の来訪から一週間後、旅の支度を終えたという一人娘の姿を見て、杉山夫人は悲鳴を上げた。


 鮮やかな青色の着物には林檎の花が散りばめられ上品な印象だが、千代子の艶めいた黒髪は、顎の長さですっぱりと断ち切られてしまって見る影もない。

 毛先は顎から項にかけて斜めに切り詰め、美しいシルエットを顕にしていた。


「まあ、千代子ったら! そんなに短くしてしまって……」

「船に髪が引っかかると危ないのですって。それに島だってどれくらい藪が深いか分からないし、何より虫がついたら嫌だもの」

「けれど……」

「大丈夫よ、お母様。帰ってくる頃にはまた伸びているわ」


 そう言うと、千代子は父から譲られたハンチングを目深に被った。


 一九二〇年、四月三日。

 家族に惜しまれながらも、千代子は東京を発った。


***


 ハワイ行の旅客船が出るのは横浜港である。

 かつては多くの移民が新天地へと旅立ち、近頃は移民に呼び寄せられた家族が南国行の船に乗る場所だ。


 ブーツを鳴らしてタラップを上がると、既にたくさんの乗客が出港を待っていた。ほとんどはハワイに向かう日本人だが、ちらほらと外国人の姿もある。

 荷物を置きに行く前に、景色を一目見ておこうと千代子は甲板に向かった。


 しかし、そこで早速事件が起きた。


「やだ、ちょっと詰め過ぎたかしら……」


 大きな旅行鞄はずっしりと重く、一段を持ち上げるのにも息を切らす。さらに間の悪いことに、金具が外れて持ち手が取れてしまったのである。

 たちまち千代子は甲板に上がる階段の途中で立ち往生してしまった。


 力持ちの船員でも通りがかってくれないかと首を伸ばして探していると、そのとき、後ろから男が一人、すれ違い様に声をかけてきた。


「Geht das?」

「ごめんなさい!」


 邪魔だと言われていると思い、咄嗟に謝罪を口走ったが、すぐに、彼はただ手伝ってくれようとしているだけなのだと気づいた。

 顔を上げた千代子の視線の先には、青い目をした男が目を丸くして立っていた。

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