26節 『心に秘めた大きな愛』
「一日だけ、時間をくれませんか」
辺りは一瞬、静まりかえる。
千代子は両の膝に指をつき、食い入るように身を乗り出した。
「日暮れまでに、私が全員連れて戻ります」
全員が、あ、と声を上げた。
それより先を言ってはならないと直感した。
しかし、誰も彼女に追いつけない。
千代子は彼らを薙ぐように見据え、その願いの代償を答える。
「もし期限までに戻ってこなかったら、そのまま船を出してください」
すべてを得ようという強欲が分不相応な願いなら、そのときは私の命を差し上げましょう。
アダムスは慄いて言った。
「そんなことが、できる訳……」
「私は賭けます。皆も、私を賭けてくれませんか」
皆が顔を見合わせる。
初めに口を開いたのはウィリアムズだった。
「乗った。だが、私も連れていけ」
「ウィリアムズ……!?」
動揺したスタンレイたちが立ち上がった彼女を仰ぎ見る。
ウィリアムズは、撫でるように髪をかき上げると、腕を組んで言いのけた。
「ブエナベントゥラも楊逸も私が乗せた、私の部下だ。始末はつけなきゃなんねえだろ」
それから彼女は、ただし、と付け加えた。
「もし説得が通じなくて、争いになりそうならすぐに引き返す。多少は心配も減るだろ」
その提案にアダムスは渋々頷く。
はっとした千代子は屈託のない笑みで感謝を告げた。
「…………ありがとう!」
ウィリアムズは堂々とした態度でそれに応え、そして、デ・ルカを呼びつけた。
「デ・ルカ、お前を船長代理に指名する」
その言葉に、デ・ルカは兎のように注意を払う。
ウィリアムズは彼に船の鍵束を投げ渡し、力強く命じた。
「私が帰ってくるまで、出港の準備は任せたぞ」
「オーケー、キャプテン!」
彼女は必ず帰ってくるだろう。そんな確かな信頼が二人を結んでいた。
それを横目に、ロットナーは一人テントを出ていった。
***
千代子とウィリアムズが準備をする間、ロットナーは黙々と桟橋を直していた。ゴールデン・フリースに上陸したとき、荷降ろしのために作ったものだ。
その傍ら、波間に浮かべた小舟の上で、船長代理デ・ルカが尋ねた。
「いいの? チョコたち、行っちゃうよ」
「お見送りでもしろってか」
ロットナーは鼻を鳴らすと立ち上がり、荷箱に寄りかかって小舟を覗き込んだ。
「お前こそ仕事しなくていいのかよ」
「片付けはスコットがうまく手配してくれるからねー。今のおれがやるべきは自信満々にふんぞり返ることさ」
そう言いながらも、その目は確かに遥か彼方の水平線を見つめている。
嵐の予兆はないようだ。
デ・ルカは気分良さげに身体を揺らす。
それから、おもむろに腰掛けの下からマンドリンを取り出した。
「そして、迷える船員を導くのも仕事かも」
デ・ルカが言葉の端々に合わせてマンドリンを弾くと、ロットナーは怪訝そうな顔で見つめた。
「悩んでるように見えるか?」
「最初から!」
ぴしゃり、と短く言い切られた。
ロットナーは静かに口を尖らせてから、荷箱に背を預けて呟いた。
「まあ、お前の言う通り、船に乗ってから考えることは増えたよ」
「話してみなよ。冒険はもうすぐ終わる。答えを探すなら、今のうちだぜ」
軽やかな音色が波の響きと重なり合う。落ち着く音だ。
ロットナーは少し考え込み、視線を落として答えた。
「何をしたらいいか分からないんだ、ずっと」
戦争は終わり、しかし帰る家もなく、どこにも行けはしなかった。
大学へ行くため勉強する。目前に敵がいたら戦う。
誰かに命令されたことを愚直にこなしてきた。
「望まれたことを、望まれたように。そうしないと、息をするのも許されなくて」
父の死後、糸を切られたように放り出されたロットナーは、ただ、漠然と生きていた。
それ以上の大きな目標、自分自身のやりたいことはいつまで経っても見つからなかった。
だが、スタンレイと出会い、顎で使われ、振り回される中で、ロットナーは段々と欲というものを覚えてきた。
欲しいもの、腹が立つこと、やりたくないこと、それを言って受け入れられたり、受け入れられなかったりすることも知った。
もしかすれば、それはすべてスタンレイの手のひらの上だったのかもしれない。彼は偉大な医者だった。
少しずつ世界の色を知った頃、ハワイに辿り着いた。
それはとても大きな衝撃だった。
調査団で過ごす間、誰もロットナーに「かくあれかし」とは命じなかった。
好きなように選べ、と当然らしく告げられた。
とりわけ、千代子はロットナーに何も望まなかった。
「あの子を見るのが辛かった。光もないのに目が眩む」
それは子どもじみた憧憬なのかもしれなかった。
毎日、暮らす世界の違いを思い知らされた。
生まれて初めて、苦しいと考えた。
ロットナーは問いかけた。
「それでも夜が来る度、朝を待つんだ」
デ・ルカは歌い、答えた。
「だって、それは希望だから」
その輝きは夜ごとに生まれ、夜明けと共に消えるもの。
ロットナーの声が震える。
「身体のすべてが燃え上がるのに、決して火傷をしない」
「だって、それは血潮だから」
その拍動はあなたを鮮やかに生かすもの。
デ・ルカは目を伏せたまま、優しく弦を掻き鳴らした。
「きみの中には黄金よりも貴いものが満ちている。だから深い海に沈むのさ」
空っぽの樽は、嵐が彼を砕くまで、いつまでも水面を漂うだろう。
ずっしりと心を詰めた人間だけが、溺れるように沈んでいく。
それは苦しみかもしれないが、いつか彼らは出会うのだ。その温もりの価値を知る者に。
ロットナーは胸に手を当て呟いた。
「きっと俺はそんなものを持って生まれはしなかった。誰が俺に心をくれたんだろう」
「それは、きみが一番よく知っていること」
そう言うと、デ・ルカはマンドリンから手を離した。
今度は、彼が問いかける番だ。
「それは熱く、そして冷たい。きみに彼女は望まない。その名は一体、何だと思う?」
ロットナーはようやく、自分が欲しかったものの名前を知った。
「ああ、そうか。それは────」
彼の答えは、潮風の中に掻き消えた。
ロットナーは砂に手をつき、膝をつき、駆け出した。
きっと、出発まであと十秒もない。
深い森の前、千代子は二本の足で力強く立っている。
今、ロットナーはその勇気に満ちた小さな身体を真っ直ぐ見つめる。
彼女の髪の奇麗な色は、夜の中の虹色だった。
「チョコ」
「ロットナー?」
千代子は大きな鞄を抱えたまま、曇りのない眼できょとんとして見上げてくる。
これから自分はこの選択を後悔するのだろうか。
するかもしれない。
でも、きっと、それだけの価値がある。
ロットナーは言った。
「俺も行くよ」




