25節 『選択の英雄譚』
千代子は騒然とした気配に目を覚ました。
外はまだ暗い。出港の仕度は始まっていないはずだ。
「…………?」
目を擦っていると、入り口からロットナーが声をかけてきた。
「チョコ、起きてるか」
「……どうしたの?」
いつになく感情の薄い声色だ。
服を調えながら顔を出す。ロットナーはしきりに遠くを気にしながら、騒ぎの正体について答えた。
「まずいことになった。離反者だ」
ロットナーの手には乾いた血がこびりついている。
千代子は医療鞄を抱えて飛び出した。
テントの前で点呼が取られているようだ。
表に出てきた船員たちは、皆一様に不安げな顔をしていた。
千代子は往来の中に見慣れた派手な赤毛を見つけ、急いで駆け寄った。
「ベリル! 一体何が……」
「第七班が裏切った。アダムスが刺されて重傷だ」
「…………!」
千代子が調査本部のテントに行くと、右の脇腹を真っ赤に染めて、アダムスがぐったりとしていた。
既にスタンレイが応急処置を施し、出血は止まっていた。千代子の鞄から薬を出し、急変に備える。
数分後、名簿を抱えたスコットが飛び込んできた。
彼は自分を落ち着かせるように敬礼をすると、全員の点呼が終了したと報告した。
「確認終わりました。居なくなったのは六名。内、首謀者はヴァルター・クラウゼヴィッツ、イワン・リドフの両名だと考えて間違いないと思います」
それから、関係者を集めた緊急会議が行われた。
混乱の中で行方をくらませたのは、クラウゼヴィッツ、リドフ、ブエナベントゥラ、楊逸、イスハークの五人。そして彼らに連れて行かれたのがカーレッドとキャリバンのマツだ。
夜明け前、カーレッドに危害を加えようとした第七班とアダムスが交戦。
初めこそ圧倒していたが、カーレッドとキャリバンを人質に取られ、攻め切れなくなった隙をブエナベントゥラにナイフで刺された。
そんな中、騒ぎに気づいたシャルルが狙撃を図ったところ、離反組はカーレッドを盾にして北へ逃走したのである。
「目的は『不死の霊薬』か。早まりやがって」
ウィリアムズが舌打ちをして苛立ちを露わにする。
アダムスはゆっくりと身を起こし、ゆっくりと口を開いた。
「ハァ……一人だけ違う班の人間を引き込んだのもそのためだろうな、楊逸なら木簡の内容をすべて知っている……」
「それに、ブエナベントゥラはリドフに気に入られてた。甘言に乗ったか、馬鹿なやつ」
ウィリアムズが吐き捨てるように言った。
自分が乗せた船員の暴挙に責任を感じているのか、彼女の顔色は最悪だ。
アダムスの身体を支えながら、スタンレイが眉を下げて辺りを見回した。
「だが、何か勝算があってのことなのか? 場所の手がかりもないだろう」
「ごめんなさい、私の所為だわ」
吐き気を堪えるように、千代子が口元を押さえて言った。思い出していたのは、ブエナベントゥラとの会話だった。
「私、昨日の真夜中にキャリバンと森に行って……変な遺跡を見つけたの。多分、彼はそのことに気がついてた」
違和感はあった。
医療班を探していたと言ったが、ロットナーを起こさず、わざわざ千代子だけを探して森まで入ってくるはずがない。
彼は千代子が森へ行くのを見ていたのだ。
だから、帰ってくるのを待っていた。
そして、問答を経て、千代子が『不死の霊薬』のあるところについて心当たりがあると確信を得た。
キャリバンが案内できる、藤の花が咲いている場所。
たったそれだけのことだとしても、一週間をかけて島内を探索してきた彼らには、宝の在処を示す地図として十分だ。
千代子は知らずの内に、彼らの背中を押してしまっていたのかもしれなかった。
「無断で拠点を離れたのか」
「……本当にごめんなさい」
ウィリアムズが忌々しげに眉間を押さえ、千代子は深く頭を下げる。
誰も何も言わなかった。
空気は重々しく、爽やかな朝の日差しも今は鬱陶しいばかりだ。
そこへ、ロットナーが手を上げた。
「いや、状況がややこしくなったのは俺の判断ミスだ、悪い」
全員の視線が彼へ移る。
ロットナーは注目にも臆することなく、はっきりと言った。
「俺は日没の時点でクラウゼヴィッツに誘われて、企てを知ってた」
千代子の単独行動はよくなかったが、それ以上に、離反自体を止められなかったのは自分の失敗だ。
ロットナーがそう言うと、アダムスが目を丸くして聞き返す。
「それは本当か、ロットナー」
「ああ。すぐ断ったし、その時点では切り札がないようだったから諦めると思って放っておいたんだが」
ロットナーは首を傾げて腕を組む。
その胸倉をシャルルが掴み、指で額を何度も弾く。
「じゃあお前の所為じゃねーか!」
「だから悪かったって言ってるだろ!」
ロットナーはシャルルの鼻をつねり返す。
少し空気は和らいだが、二人が取っ組み合いになる前に、スタンレイが引き離して遮った。
「落ち着け、今さら誰の責任か考えても仕方あるまい。決めるべきは今後のことだ。アダムス、今朝の出港はどうする」
本来であれば、もうすぐ出港の準備を始める予定だった。多少のアクシデントはあったが、団長が頷けばすぐに作業は再開できる。
アダムスは少し俯き、腹の傷を押さえて答えた。
「……彼らを置いていく訳にはいかん」
全員で帰る。アダムスの望みは初めからそれだけだった。
しかし、最早そんなことを言っている余裕はない。
頑迷な態度にスタンレイは肩を竦めて言い聞かせる。
「そう言うとは思ったが、中毒の症状が悪化している船員も少なくない。時間はないぞ」
「う……」
「それにお前さんの傷だって、きちんとした治療が必要だ。命に関わるぞ」
今でさえ、こうして会話できているのが不思議な傷だ。第一に彼こそ文明的な医療が必要なのだ。
ウィリアムズが溜め息をついて、アダムスの正義感を窘める。
「アダムス、お前は甘すぎる。先に裏切ったのは向こうだろ。こっちが心配してやる義理はないんだ」
「待てよ、カーレッドは巻き込まれただけなのに、見捨てるのか?」
シャルルはそう言うが、いい顔をしないのはデ・ルカも同じだ。
「おれは出港に賛成。共倒れになるよりはいいよ」
いよいよ、選択のときが近づいていた。
かつての伝説に曰く、ギリシアのオデュッセウスはその帰還の最中、シケリア島の付近で困難に阻まれた。
そこでは、三日に一度すべてを呑み込む渦がある航路と、六つの首を持つ人喰いの怪物が棲む航路のどちらかを選ばなくてはならなかった。
怪物を選べば、必ず人死にが出るが、人数は少ない。
渦を選べば、運が良ければ全員で通れるが、そうでなければ全滅だ。
オデュッセウスは選び────六人の仲間を怪物によって喪った。
ここに来てアダムスもまた、選ばなくてはならなかった。
彼は自分の無力さに呆然としていた。
***
一方、千代子は考えていた。
頭の中でぐるぐると思考の渦が巻いている。
カーレッドも、マツも、千代子にとっては大切な友だちだった。
離反した第七班も、このまま置いていかれれば水銀で不可逆な被害を受ける。それを認めてよいものだろうか。
自分の所為で、彼らが傷つく。
けれどサンダル号の船医として、既に水銀で苦しむ仲間に、我慢してくれとは間違っても言えない。
死者を許容してでも負傷者の治療を優先するか、リスクを抱えてでも全員での帰還を目指すか。
二つに一つだ。
だって、どちらもなんて強欲だろう?
「それでも、私は全部欲しい」
千代子は呟く。
皆の命は差し出せない。
ならば、ほかに賭けられるものがあるではないか。
「…………あるんだ」
金も、名誉も、恐怖も、怒りも。
いつだって、本物の英雄は想像を超えていく。
「一つだけ、全部掴む方法があるんだ」




