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23節 『素晴らしい幸運』

「そこで何をしているんですか」


 ブエナベントゥラは淡々とした表情で問うた。

 赤みがかった瞳にランタンの光が交じり、焔のように揺らめく。その姿は真夜中の異端審問官にも似ていた。


「ご、ごめんなさい」


 ハンチングの鍔を摘まみ、千代子が震える声で謝りながら顔を背ける。

 暗闇の中、青白い項がぼうっと浮かんで見えた。


 ブエナベントゥラは身じろぎをすると、それ以上問い詰めることなく、踵を返して言った。


「鎮痛剤が必要で。探していたんですよ」

「分かった。すぐに用意する……」


 彼の表情はもう窺うことができない。千代子は額に汗が滲む感覚を覚えていた。

 ユキは不安そうに鳴きながらも洞窟のほうへ帰っていき、二人だけが残される。

 ブエナベントゥラは先を歩きながら、振り向くことなく呟いた。


「みんなには黙っていてあげますから」

「……ありがとう」


 潮風に木々が擦れ、ざわざわと騒いでいる。

 千代子は彼の背を眺めながら訊いた。


「私を探していたみたいだけど……スタンレイ博士はいなかった?」

「……まだアダムス団長と話し合っているようです」


 ブエナベントゥラはそつなく答えた。千代子は僅かに歩く速度を落とす。


「忙しそうね。あとはロットナーも薬の場所を知っているわ」

「……見かけませんでしたね。寝ていたのかも」

「そう。最近よく眠れていなかったみたいだから、それはそれでいいのだけれど」


 テントに戻ると、千代子は鞄から薬を出して手渡した。

 水銀中毒の船員の看病をしに戻るのだろうと思ったが、ブエナベントゥラはすぐには立ち去ろうとしなかった。渡された薬の瓶をじっと見たあと、彼は口を開いた。


「あなたは『不死の薬』のことは気にならないんですか」

「気になるって?」


 そう尋ね返す千代子の視界を影が覆う。

 彼は強く踏み込んだ。

 二人の肺を、藤の惑うような匂いが満たす。

 ブエナベントゥラは千代子の細い手首を取り、引き寄せる。


「あの木簡を見つけたのはチョコさんじゃないですか。そんなものが本当にあるのか、知りたくはないんですか。自分の手柄にしたいと思いませんか」


 それは持たざる者が持つ者へと深く抱いた、嘆願するような疑問だった。

 少し前までの千代子なら、迷い、答えられなかったかもしれない。

 千代子はたじろぐことなく、真っ直ぐに彼を見つめ返した。


「────確かにそう思う心がないと言ったら嘘になる」


 ブエナベントゥラの視線が揺れた。

 千代子はさらに言葉を続ける。思い出すのは、ロットナーたちと出会ったときのことや、船でウィリアムズとした会話のことだった。


「私は恩師の代わりにここにいて、今のところ胸を張れる成果はなし。誇りだ名誉だって大口叩いていた分、やっぱりちょっと恥ずかしい。……でも」

「でも?」

「それでも、帰るわ」


 千代子が何を選んだとして、家族も佐伯もそれを馬鹿にはしない。

 期待外れだったなどと言うはずがない。そう信頼するに足る人々だ。

 だから、千代子が真に向き合うべきは、最初からずっと自分だけだった。

 そんな簡単なことに気付くにも、長い時間がかかったけれど。


「つまらない自尊心のためにみんなの命は賭けられないって分かったの。私は臆病な医者だから」


 誰かが隣にいてくれる限り、きっと自分は歩き続けられる。

 今は、このアルゴノーツの人々が千代子の道を示してくれる。

 この出会いに比べれば、自分の恥ひとつ、なんと安いものだろう。


 千代子の穏やかな微笑みを見て、ブエナベントゥラはふっと彼女の腕から手を離した。

 それから、その薄い肩に乗った花弁の一枚を手に取り、ぽつりと言った。


「奇麗な花ですね」


 千代子は花の房を持ち上げ仰ぎ見た。

 儚い青紫の花々が小さく身を寄せ、咲き誇る。


「藤よ。西のほうにはないのかしら」

「そうかもしれません。でも、東の人に似あう花だと思います」


 ブエナベントゥラは俯いてそう呟いた。

 千代子はくすりと笑って、気に入ったならあげる、と言った。


 ブエナベントゥラは花を黙って受け取ると、立ち去り際にもう一度千代子を呼んだ。


「チョコさん」


 月はもう沈み、彼の表情は伺い知れない。

 彼は肩越しに見返り、千代子をじっと見据えて確かめるように尋ねた。


「向こうで何か、見つけたんじゃないですか」


 千代子は答えた。


「────いいえ、何も」

「……そうですか」


 ブエナベントゥラはそう言ったきり、黙って自分のテントに戻っていった。


***


 手の中に残る藤の花を何度も見た。

 ブエナベントゥラは長く息を吐きながら垂幕を持ち上げ、中へ這入る。


「フラれたな」


 顔を上げたブエナベントゥラの前には、リドフがくつくつと笑って座っていた。その隣ではイスハークが弓の手入れをし、また楊逸が不安げに膝を抱えている。


 中央には轡を噛まされたキャリバンが一人、小さな鳥籠に入れられていた。


 ブエナベントゥラは眉をひそめながら彼らの向かいに腰を下ろした。


「……からかわないでください」

「何、ハナから抱き込める(・・・・・)とは思っていなかったよ。彼女の能力は魅力的だったがね。しかし────」


 リドフは流し目にブエナベントゥラの持つ藤の花を見た。


「思いがけない発見はあった」


 素晴ら(ブエナ)しい幸運(ベントゥラ)だな。

 リドフはそう言って微笑んだ。

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