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22節 『藤花中に眠る』

 月は随分膨れてきた。

 誰もいなくなったテントの中、千代子は一人で机に伏していた。

 調査団は明日にはこの島を離れる。夢も、期待も、置き去りにして。


 じわり、と瞳の奥に熱が湧く。

 つんとした痛みが鼻筋を抜けた。


 小さな物音がして、机の上にキャリバンが乗ってきた。ユキだ。


『チョコ、ナイテルノカ』


 器用に足元へ尻尾を巻き付けて、ユキは千代子の前に座り込んだ。

 頭の上からフスフスと可愛らしい鼻息が聞こえる。千代子は顔を上げ、困ったように笑った。


「ごめんなさい、気にしないで」

『ドコカ、イタイ? クルシイ?』


 千代子に顔を寄せ、ユキは心配そうに尋ねる。


「少しね」


 千代子はユキの身体についた砂をそっと払い、呟くように言った。


「私って、凄くないんだって、思ったの」


 この調査団で、千代子が自分一人でできることはあまりにも少なかった。


 千代子は船を動かすことができない。

 千代子は大砲を撃つことができない。

 千代子はテントを張ることができない。

 千代子は科学の実験も、遺跡の調査もできない。

 千代子は水銀中毒を治せない。

 千代子は皆の諍いを止められない。


 千代子は佐伯の願いを叶えることができない。


 それはまるで、虹の根元を探して、行き止まりに辿り着いたような気持ちだった。


「日本にいたときはみんなに褒められて、ちやほやされて、自分は何でもできると勘違いしてた」


 どんなことでも、自分なら乗り越えられると思っていた。

 失敗など、したことがなかった。


 でもそれは、千代子が何一つ憂うことない裕福な家で育ち、周囲の人々に恵まれてきたからだ。

 何か一つでも掛け違えていたら、自分はここにいやしない。

 そう思えば、本当の意味で自分で掴んだものなど、有りはしなかったのかもしれなかった。


「佐伯先生に頼られたときは本当に嬉しくて、絶対に私がこの島の正体を明かすんだって信じてた。でも、こんなことになってしまって」


 そう言いながら千代子は背を丸め、段々とまた机に崩れ伏した。


 星の遠さを知ってしまった。

 自分というものの小ささに気がついてしまった。

 それは一つの夢の終わり。


 それでも、朝が来たと分かっていても、起き上がることができない。

 目を、開けられない。


「恩返しの一つもできないばかりか、医者として、目の前で苦しむ人たちを助けることもできない」


 腕は宛もなく投げ出され、指はその隙間から何かを零すように力なく開かれている。

 千代子は弱々しく呟いた。


「今、ここで私ができることは何もない。それがとても痛くて苦しいのよ」


 ユキは千代子の言葉を静かに聞いていた。

 抽象的な絶望を完全に理解することは難しい。

 互いに未熟な言葉を使っていれば、尚更だ。


 けれど、彼女が深く悲しんでいることだけは、洞窟の怪物にも分かる。


『チョコ』


 ユキは小さな前足で千代子の手に触れ、そっと舐める。ビスケットよりも優しい味がする。


『チョコ、トクベツ、クレタカラ。ユキモ、アゲル』


 そう言うと、ユキは机から飛び降りて、尻尾をぴんと立てた。


『トクベツ。ナイショダヨ』


***


 言われるままにキャリバンの白い身体を追っていくと、ユキは浜辺を越えて森の中へ入っていこうとした。


 柔らかな枝葉は夜が呑み、ただ黒ぐろとした闇だけがこちらを覗き込んでいる。

 千代子はランタンを持ったまま立ち竦み、ユキを引き止めた。


「ユキ、待って。私、外には……」


 単独行動は規律違反だ。

 これだけ皆が神経質になっている中、疑われるような行為は避けたい。


 しかし、ユキは木兎(みみずく)のような耳の羽毛を少し動かすばかりで、暗がりから戻ってこようとはしなかった。


『ミンナ、ネテル。ヘイキ』

「…………」


 千代子はちらりとテントのほうを見た。

 静寂。

 人の気配はなく、誰かに見られているという気もしない。皆、ここしばらくの騒ぎで疲れきって眠っているようだ。


「夜明け前には、帰れるよね……」


 気晴らしの散歩も、悪くないかもしれない。


 何も、抜け駆けしようというつもりではない。

 もし何か事態を良くするものを見つけたら、そのときは正直に言えばいい。


 そんなことを自分に言い聞かせ、千代子はほんの少しの罪悪感を胸に、夜闇の中へ踏み出した。

 キャリバンがぐるぐると喉を鳴らした。


 昨日と同じように、湿った空気を抜け、獣道を辿っていく。

 ユキは千代子でも通れるような場所を選び、それでも迷うことなく進んでいった。


 行く手が霧がかってきた。

 天球は木々に遮られて久しく、時々、ぽっかりと満天の星空が垣間見えるばかりである。


 この美しい景色すべてが、水銀に毒されている。


 どれほど歩いただろうか。

 辺りには不思議な匂いが漂ってきた。

 奥へ向かうにつれ、甘い匂いが濃くなっていく。

 こちらへ来い、と誘うように。


 水の音が聞こえてきて、突然、明るい場所に躍り出た。

 深渓だ。

 月の光が濡れた岩場、川の綾模様に照り返り、ぼんやりと一面を浮かび上がらせている。


「藤の花……」


 それが、ずっと感じていた匂いの正体だった。

 老いた蔓枝は脈のように四方へ拡がり、でっぷりとした花の簾がどこまでも咲き垂れる。

 無数の花弁が灯籠のように月光を孕む。


 藤棚は千代子の姿を覆い隠すほど深く、自分がどこから来たのかさえ分からなくなりそうだった。


 千代子は早足になって、先を往くユキの後を追いかける。

 その先にあったのは、何かの入り口だった。


 自然に出来た洞窟ではない。

 明らかに人の手で、石を積んで作られている。


 そして、門の形に構えたその岩は、全面を丹で真っ赤に塗られていた。何かを叫び、伝えようとするかのように。


「これって」


 千代子が独り言のように呟くと、ユキがその足元に擦り寄った。


『サイショノアナタ』

「…………!」


 最初の貴方。

 ゴールデン・フリースに、一番最初に訪れた人。

 彼もまた、ここに眠っているのか。


 千代子の背筋に恐怖が這い上がる。

 阿頼耶にも似た直感が、すべての答えがここにあると叫んでいる。


 千代子はようやく、これが墓所だと気がついた。


『ハイル?』


 ユキは小さな鼻先を上げて、千代子の顔を見た。


 動悸がする。

 きっとこれが最後のチャンスだ。

 いま選ばなければ、二度とこの島に訪れることはなく、この先を見ることもない。


 藤の花の甘ったるい匂いが、どんどん思考を鈍らせる。

 吸い込まれるように、その赤色へ手を伸ばす。


 赤。血液よりも深い赤。

 暗く、そして鮮やかだ。こんな美しい色はほかに────


 そう言えば、ロットナーの目は同じくらい深い……青だった。


 ばち、と脳裏で何かが弾けた。

 青だ。露草のような青。

 岩戸に触れる直前に、千代子は腕を下ろした。


「私、やっぱり、帰るよ……」


 気の抜けた声が出た。

 ごめんね、と呟くと、ユキは特段残念がる様子もなく、尻尾を振って頷く。


『ワカッタ』


 また、藤を掻き分け来た道を戻る。

 花房を一本、土産に手折った。


 目が覚めた。

 憑き物が落ちたような心地だった。


 真夜中の森、虫の声に波の音が混じり始め、拠点に近づいてきたことが分かる。

 早く戻って、寝てしまおう。

 明日には島を発つのだから。


 千代子がほっと息をついた瞬間のことだった。

 誰かが藪を分け、低い声が響く。


「チョコさん」


 千代子は驚き、咄嗟にランタンを突き出した。

 眩い光に照らされ、暗い肌、黒い癖毛が浮かび上がる。


「そこで何をしているんですか」


 ブエナベントゥラの険しい声が、千代子にはっきりと投げかけられた。

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