21節 『斜陽』
「そろそろ新しい靴を手配しないとだな」
煙草を吸うロットナーの足先を覗き込み、クラウゼヴィッツが話しかけた。
すぐに終わると言われていたはずの戦争は、翌年が終わろうとしてもその兆しを見せなかった。
攻めたり、攻められたり、オセロのように盤面が入れ替わる。
鉄と火薬の匂いがする新兵器が次々と投入され、兵隊たちは兎となって穴を掘り続けていた。
ロットナーはいつの間にか二等軍曹になっていた。
破格の昇進だ。クラウゼヴィッツが何かしたのかと思って尋ねたが、彼は満足そうにするばかりで何も言わなかった。
不思議そうに爪先を持ち上げているロットナーの頭を小突き、クラウゼヴィッツは口を尖らせた。
「君は身なりに気を使わなさすぎる。若造だろうと調えればそれなりに見えるものだぞ」
「そうですか」
ロットナーはそれきり、特段好きでもない煙草を吸うばかりだった。
糠に釘めいたつまらない返事に、クラウゼヴィッツは腕を組んで喉を鳴らす。
「何というか、君は欲のないやつだな。開戦の報せで志願兵になったというから、もっと熱のある男だとばかり思っていた」
ロットナーはくすんだ瞳を横目に向けて、クラウゼヴィッツのきらきらした金の髪を眺めた。
「別に、やりたくてやってる訳じゃないですから。飯が食えればそれでいいです」
「戦争が終われば兵隊は食いっぱぐれる。当てはあるのかね」
「無いですけど……まあ、そのときになったら考えます」
「確か、獣医学を学んでいたんだったか。大学はどうした?」
すると、ロットナーはしばらく考え込んだあと、短く答えた。
「退学になりました。学費が払えなくて」
去年の春、腹違いの兄から手紙が来た。父親が死んだとだけ書かれていた。それきり、何度連絡しても返事はなかった。
ロットナーは己の不幸を嘆くでもなく、軍靴のほつれた糸を指先でくすぐっていた。
クラウゼヴィッツは溜め息を吐き、手帳の頁を千切ると、何かを手早く書きつけた。
「戦争が終わったら、この場所を尋ねたまえ。一度拾ったんだ、面倒くらい見てやらんでもない」
それは何かの住所だった。
今となってはロットナーは、それがどこだったかも覚えていない。
***
「ああ〜……」
「や〜っと思い出したかクソボケアホナス」
時は流れ、あの戦場からも遠く離れ、世界の反対側までやってきた。
行き交う白波が、規則正しく刻を数えている。
ロットナーはようやく腑に落ちた、という顔をした。彼は確かに知り合いだった。それから間もなく、クラウゼヴィッツが異動になって別れたはずだ。
「まあ……五年も昔の話だしなあ……」
「カス」
クラウゼヴィッツは物言いたげな目で睨みつつ、ともかく、こんなところで出会ったのはまったくの偶然だったと言った。
「金に困ってたのか? 渡した連絡先はどうした」
「確か、財布に入れてたらミュンヘンで盗まれた……」
流石に申し訳なさを覗かせながら、ロットナーが答えた。
道理で何の音沙汰もないと思ったんだ、とクラウゼヴィッツは額を抑えた。
「どうせどっかで図太く元気にやってるだろうと心配はしてなかったが、本気で忘れられていたとはな!」
「忘れてた訳じゃ……顔と名前は忘れてたけど……」
ロットナーは小さくあれこれ言いながら、改めてクラウゼヴィッツの顔を見た。
髪が伸びたな、と思った。夜の中でもぺかぺか光る、太陽みたいな色だ。野原のような緑の眼によく合っていた。
言い訳ではないが、そう思えばあの頃は色眼鏡など掛けていなかった。戦場で目でも悪くしたのだろうか。
「なんか……あんた変わったな」
ふと、そんな感想が口を突いて出た。
ロットナーはクラウゼヴィッツをじっと見据え、彼が黄昏色の硝子の向こうに隠した何かを覗こうとした。
しばらくして、ロットナーはゆっくりと立ち上がった。
「何か良くないことを考えてる」
クラウゼヴィッツは紫煙を吐き出すと、落ち着き払って言った。
「そうか。君はこれが良くないことだと思うんだな」
ちらり、とロットナーは拠点のほうを見る。
離れた場所で、千代子がアンドレアスの涙を拭いていた。
意を決し、はっきりと口にする。
「それはみんなを裏切ってまで手に入れる価値のあるものか?」
「ある」
クラウゼヴィッツは間断入れることなく答えた。
迷いのない返事にロットナーは少したじろぐ。恐る恐る、確かめるように重ねて尋ねた。
「俺がほかのやつらに知らせるとは思わないのか」
「私は君を信用しているからな」
そう返すなり、クラウゼヴィッツは煙草の火を消す。二人の会話に、まだ誰も気がついていない。
ロットナーは逃げ出そうとして、しかし足が動かなかった。
それから、クラウゼヴィッツはかつてのようにしなやかな手のひらをロットナーに差し伸べた。
「戻ってこい、ロットナー。私のもとへ。我々にはやるべきことがある」
どきり、と心臓が跳ねた。
立ち尽くすロットナーに、クラウゼヴィッツは決定的な言葉を告げる。
「どれだけ夢を見たところで、あの子は君を導いてくれはしない」
そうして、ロットナーは息を吸った。




