20節 『馬鹿な猟師と賢い猟師』
陣地の中は騒がしかった。
ロットナーとクラウゼヴィッツは何か話すこともなく、二人で並んで歩いていた。
埃っぽい臭いが鼻について、ロットナーは一つ、くしゃみをした。
先の作戦は失敗だった。
疲れた顔でこちらを見ているのは、どれも命からがら退却してきた兵隊たちだ。
片隅に、川から汲んだだけの水が入った桶が洗い場として置かれている。ロットナーはふらりと立ち寄ると、汚れた顔を冷やすように洗った。
クラウゼヴィッツはそれを黙って見ていた。
それから、ロットナーが濡れた顔を袖で拭くのを待って、パンとチーズを欠片ずつ渡した。
「新兵の割には随分気に入られていたそうだが。大人しくしていれば出世もできたんじゃないか?」
その言葉にロットナーは僅かに迷ったあと、目を逸らしてぶっきらぼうに答えた。
「……何でも言うことを聞くからってだけだ」
「そうかもな。でも、今回はそうしなかった」
そんなやり取りをしながら、クラウゼヴィッツは適当な段差に腰掛け、ロットナーも恐る恐る続いた。
クラウゼヴィッツが知っていたのは、ロットナーが数日前に出撃の仕度をしろという命令を何故か拒否し、上官に歯向かったということだけである。
なまじ腕に覚えがある所為で軍隊の序列に馴染めないという兵士は時々見かけるが、それは彼の気性とは合わないように思われた。
確かに少し気の立ちやすい傾向はあるだろうが、もっと自分で我慢が利かせられる部類のはずだ。
実際、それまでは雑用にも文句一つ言うことなく過ごしていたのだから。
「何故そんなことを?」
重ねて尋ねると、ロットナーは少し躊躇って、ぽつりぽつりと語り始めた。
ロットナーは学生時代の経験を買われ、騎兵隊が使う馬の世話をしていた。
特に手を掛けていたのは美しい青鹿毛の一頭で、彼は穏やかで賢く、ロットナーにもよく懐いていた。
彼らの隊長である大尉は、ロットナーが蹄の面倒を見ていたところを通りがかり、その馬の体格がよいことを気に入り、次の出撃に使うと決めた。
「でも、あの馬は見栄えがする分、足元が弱かった。だから、突撃に使うならほかの馬を探したほうがいいと思ったんだ。でも大尉は、俺が馬に入れ込んで、言い訳をしているんだと考えた」
クラウゼヴィッツは段々と事の次第が分かってきた。
ここまで話してみて、彼が自分の考えについて話すのはあまり得意ではないだろうことはよく感じられた。
ロットナーは上官に、無理に乗れば故障するかもしれないという自分の直感を上手く伝えることができなかったのだ。
結果、命令不服従に怒った大尉は彼をひどく罵ったようだった。
「それで、その、許せないこと……を言われて、カッとなって……」
「掴みかかったら、ぶん殴られたか」
ロットナーはパンを頬張りながら、顔を赤くして小さく頷く。
軍隊で最も許されない行為は立場の上下を無視することだ。それはロットナーも分かっていて、軽挙を恥じているようだった。
クラウゼヴィッツは目を伏せて笑うと、本題に入ろうと言った。
「その大尉が戦死した」
目を丸くするロットナーに、クラウゼヴィッツは何ということもないかのようにあっさりと続けた。
「落馬だよ。突撃の途中で、馬が骨を折って転んだんだ。放り出された大尉はそのまま後続に踏まれて死んだ」
彼が乗っていたのは、ロットナーから取り上げた件の馬だった。それを聞くと、ロットナーはしばらく視線を泳がせだが、結局何も言わなかった。
クラウゼヴィッツは喉を鳴らして手を組んだ。
「何、気に病む必要はないぞ。徹頭徹尾、責任は彼の選択にある」
選択の責任。
ロットナーは意図を窺うようにクラウゼヴィッツの顔を見上げた。
クラウゼヴィッツは、指先で彼の額を差して言う。
「指示もなしに猟犬が吠えたとき、馬鹿な猟師は犬を叱るが、賢い猟師は銃を構える。君を見くびって取り合わなかった時点で、彼の結末は決まっていたのさ」
そう言うと、クラウゼヴィッツは気分も良さげに高く笑った。
「ワハハ、いい気味だったぞ! 下品なやつでな、私も散々迷惑を被った。消えてくれて清々するな」
ロットナーはその横顔をじっと見つめた。
それは興味と警戒だった。何故わざわざ自分を迎えに来たのかということも含めて、ロットナーは目の前の男のことを掴みかねていた。
大尉と同じように、彼もまた何かつまらないことを自分にさせようとしているのなら、いよいよ軍には居られないかもしれない。
そんな考えを知ってか知らずか、クラウゼヴィッツはロットナーの背を叩き、最も重要な連絡があると言った。
「という訳で、私が大尉の後任だ。随分人手が減ったのでな、色々うやむやになって君は無罪放免、ついでに昇進。引き続き奮闘するように。何か質問は?」
クラウゼヴィッツの形ばかりの締め括りに、ロットナーは沈黙で答えようとして、それから、ふと思いついたことを聞いた。
「────あの子は死にましたか」
それはロットナーが初めて見せた、クラウゼヴィッツに対する敬意だった。それとも、新たな自分の上官として納得したという心の表れなのかもしれなかった。
クラウゼヴィッツは僅かながら彼の信用を得たことを嬉しく思い、穏やかな表情で頷き、言った。
「私が殺したよ。助からない怪我だった」
二人の鼻先を斜陽が照らす。
ロットナーは横目にちらりと見たきり、短く呟いた。
「そうですか」
その言葉は、わざわざ気にかけたというにはあまりに淡白で、どうでもよかったというには些かの重みがあった。
クラウゼヴィッツは別れ際の戯れに、自分を恨むかと尋ねた。
「別に。俺にはどうしようもないことなので」
ロットナーはそう言うと、一礼をして歩き去っていった。




