19節 『分岐点』
スタンレイから忠告を受けたアダムスは、迷うまでもなく島からの脱出を決めた。
副団長カーレッド、船長ウィリアムズらの了承を受けると、昨晩と同じように人々を調査本部のテントに集め、その判断を伝えることにした。
「もうかなりの人数がやられた。探索は中断だ。明日にも島を出る」
船員たちの反応は大まかに言って同意を示すものだった。
昨日までは功を焦っていた軍人たちも、こんな事態になってしまっては帰還も仕方ないと頷いた。
しかし、やはり一部の船員は納得が行かないようで、あと三日ほど、物資が足りる限りは島に滞在したいと答えた。
問題は調査団の報酬制度だった。
船員たちには成否に関わらず給料が与えられ、役職級の人間にはさらに手当てがつく。
つまり、一般の船員が多く金を貰うには、何らかの活躍や探索の利益で追加報酬を得るしかない。
そんなとき、海岸線の測量さえ終わっていれば、多少は面目も立つという訳だ。
「それに、『薬』はどこかに必ずあると分かったんだ。せめてサンプルの回収をしたい」
「木屑の落書きを当てにして島中の遺跡を片っ端から探す気か?」
新発見を諦められないリドフの嘆願を聞き、アダムスは困ったように彼を窘めた。
船は一隻しかなく、往復の日数的に希望者を置いていくというのも難しい。
そこへ、クラウゼヴィッツが指で机を叩きながら、彼らの言うことも最もだと答えた。
「我々が金になる話を手に入れなければならないのは変わらんだろう。それとも、キャリバンを言いくるめて連れて行くかね」
それは、敢えて誰も解決策として提示してこなかった事実だった。
人語を解し、独特の文化を持つ新たな種。
キャリバンを連れて帰れば、その驚異に世界は夢中になるだろう。貴重な生物に大枚を叩く好事家もいるはずだ。
それでも、それがこの島で穏やかに暮らしているだけのキャリバンにとって望ましくない事態であることくらい、アダムスにも分かる。
素直で温厚な友人たちの心を裏切る訳にはいかない。今まで誰もそうしようと言わなかったのも、皆が内心では同じように思っていることの証左ではないか。
しかし、アダムスは新たなるアルゴノーツの団長である。
判断は常に船員のためを優先するべきことも、頭では理解していた。
「いや、それは……少し、考える時間をくれ」
アダムスはいつでも善良だったが、それが今になって煮え切らない態度と変わり、船員の不満を抑えられずにいた。
アダムスが背を丸めるのを見て、クラウゼヴィッツは小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
そのやり取りから少し離れたところで、すっかり憔悴してしまったアンドレアスが木箱に腰掛け、指を擦りながら呟いた。
「チョコ。おれ、早く帰りたいよ」
千代子はその隣に片膝をつくと、彼の紫がかった瞳を見上げた。
アンドレアスは言い争う軍人たちをじっと見つめたあと、小さく俯いた。
「戦争の所為で何年も落ち着いた生活なんかできてない。この仕事が終われば、ようやく家に帰れると思ったのに、でも」
段々とアンドレアスの声は震えを増していき、細い指が顔を覆う。
「でも、その前に爺ちゃん、死んじゃうかも……ッ」
押し殺した嗚咽は、大人たちには聞こえていないようだった。
千代子は咄嗟に彼を抱き締め、落ち着かせるように背を撫でた。
「大丈夫、大丈夫よ、アンドレアス。きっと私たちが何とかする。何とか、するから……」
***
月も明るくなってきた時分、ロットナーは船員たちの話し合いに混ざる訳でもなく、一人で隅のほうに座っていた。
海砂を踏む音がして、そのほうを横目に窺うと、そこには煙草を咥えたクラウゼヴィッツが立っていた。
「ロットナー」
「……またお前か」
つまらなさそうに顔を背けたロットナーに、クラウゼヴィッツはくつくつと笑って歩み寄る。
「今や誰がどこまで毒に侵されているかも分からんというのに、随分と落ち着いた様子だな。肝の座った傑物か、それとも事を理解する頭もないか」
相変わらずの嘲笑じみた言葉だったが、ロットナーは不思議と何も思わなかった。
無視するかどうか少し迷って、しかし、何となく、自分の考えを言う気になった。
「……帰る帰らないは俺が決めることじゃない。生き死になんか尚更だ。なるようにしかならないものに何を考える必要がある」
するとクラウゼヴィッツは、橙色の色眼鏡の向こうの目を細め、少し躊躇ったあとにそっと呟いた。
「変わらんな、君は」
それきり、波打ち際に泡の弾ける音だけが夜闇にしきりに響いていた。
ロットナーは少し口を尖らせて考え込むと、胴を曲げ、初めてクラウゼヴィッツと向き合った。
「なあ、前にも思ったんだが、俺たちはどこかで会ったことがあるのか?」
その問いに、クラウゼヴィッツは片眉を上げて黙り込む。
「…………」
それから、ずれた色眼鏡を直して、言った。
「マジで覚えてない?」
「うん……」
ロットナーが小さく返すと、クラウゼヴィッツは仰け反って天を仰ぐ。
「フン、流石に傷ついた……」
細くたなびく白煙が月に向かって昇っていった。
***
西部戦線エーヌ川沿いのドイツ軍の塹壕陣地は、シャベルを担いだ兵士たちがひっきりなしに行き交っている。
そんな中、鉄帽を被った下士官が、早足で歩いて上官に追いつこうとしていた。
「しかし、やつは処分の待機中で……」
「もう必要ない。出してやれ」
そう言って指を回してみせるのは、三十路に差し掛かったくらいのまだ若い将校だ。どこかで戦ってきた後なのか、金髪は汚れ、所々に包帯を巻き付け、痛々しい姿だった。
下士官は何か言いにくいことでもあるように顔を引きつらせたあと、ある一つのテントの前を守る兵士の肩を叩いて何かを囁いた。
兵士は待ちくたびれた、という様子でテントの中に入っていった。
すると、そこから蹴り出されたように一人の兵士が転がり出ると、よろめいて這いつくばった。
まだ二十かそこらの新兵だ。烏のような黒髪で、ぱっとしない印象の男だった。
中で余程の折檻を受けたと見えるが、見上げたことに、痣の残った顔には未だ不満げな表情が滲んでいた。
「スヴェン・ロットナーだな。一兵卒のくせして中隊長直々にぶん殴られ、そのうえ態度が悪いと懲罰部隊に回されそうになっている面白いやつだそうだが」
「……なんだお前」
気の毒にも、彼はすっかり人への信頼というものを失っているようだった。
新兵は痩せた狼のように背を丸めたまま、蒼い月にも似た瞳で将校を睨めつけた。
その様子があまりに可笑しかったのか、将校はにやりと笑うと、手を差し出し、立ち上がるように勧めた。
「ヴァルター・クラウゼヴィッツ。地位は中尉だ。言葉遣いには気をつけたまえ、ロットナー二等兵」
────一九一四年、九月のことである。
折り返しです
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