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18節 『死に至る蜃気楼』

 楊逸(ヤンイー)が木簡の書き取りを終えたのは、翌朝のことだった。

 千代子に英語へ訳してもらうため、彼はノートを抱えてやってくると、八重歯を覗かせ笑って言った。


「古くて難しヨ~。でも、がんばたヨ」


 彼は幼い頃、役人になりたいと思って勉強をしていたが、試験を受ける前に制度が変わってしまったそうだ。

 ようやく努力が役に立って、ほっとしたと言うと、楊はノートに書き起こした文を示しながら語り始めた。


「この人、薬は誰かのお墓の中にあると書いてるヨ」


 読み取れた内容はこうだった。

 木簡の持ち主は『不死の霊薬』を探してゴールデン・フリースを訪れ、島のどこかにある遺跡で実際にそれを見つけた。


 しかし、何らかのトラブルによって薬を回収することなく引き返し、そのまま亡くなったようである。

 遺体はキャリバンが見つけ、木簡の入った箱と一緒に件の穴に葬ったのだろう。


 千代子はノートを受け取ってから、ふと思いついたことを尋ねた。


「でも、おかしな話ね。それを書いた人は探していた薬を見つけたのにどうして使わなかったのかしら」

「そこまでは読めなかったヨ。でも少し想像できるヨ。きっと、お墓を見て気が変わったヨ」


 そう言うと、楊は胸に手を当て、穏やかに答えた。


「一人だけずっと生きてても楽しくないヨ。おれも今の家族、友だちが好きヨ」


 それを聞いて、千代子は僅かに目を見開いた。


 己の死を悟り、遥か彼方の時代へ手紙を託した人。

 彼は『不死の霊薬』と共に眠る死者に何を見たのだろう。

 彼は海を越えて旅するほど望んでいた霊薬を目の前にして、何を思ったのだろう。


 彼と同じものを見れば、自分もその答えに────この島の真実に辿り着けるのだろうか。


***


 ノートを翻訳するため調査本部の医療テントに戻った千代子だったが、席に着く前にスタンレイに呼び止められた。

 彼は険しい顔で歩み寄ると、低く声を潜めて述べた。


「チョコ、やはり船員の間で妙な症状が流行っているようだ」


 始まりは、上陸の数日後から何人もの船員が胃腸の不調を訴えたことだった。

 特に拠点を離れて活動していた班の人間に多かったため、スタンレイは彼らに調査中は動物の糞尿に触れないよう気をつけさせ、池の水なども口にしないよう指導していた。


 しかし、船員たちの症状はなかなか改善せず、そのうち、不眠症や精神的な落ち込みを起こすようになった。千代子も何度か相談を受け、カフェインの摂取を控えさせたり、症状の酷い患者には薬を出したりもしていた。


「慣れない環境で神経質になるのは当然だ。だが、どうもそれだけでは彼らの気の立ちようを説明できない気がするのだ」


 決定打は昨晩の出来事だった。

 幾ら当初の目的が達成できないことが分かってしまったからといって、スタンレイから見ると彼らの苛立ちようは異常であった。


 対照的に、初めこそ宥める側だったシャルルや穏便に済ませようとしたアダムスは、今のところ体の不調は感じていないらしい。


 攻撃性と消化器官の変調。

 もしかすれば、二つの症状には関連があるかもしれない。

 この時点でスタンレイはほかに何か原因があると気づき、患者の行動の聞き取りや船員たちの症状の調査を始めた。


「それではっきりと分かったことが一つある。特に症状の悪化が見られる患者は第三班、第四班に多かった。彼らは地下資源の調査担当だ」


 千代子は口元を抑えて考え込んだ。


「……怪しいのは山の坑道や洞窟ね」

「未知の感染症だとすると対策は急を要する。坑道内で何か有毒なガスが発生している可能性も捨て切れん。だが……」


 スタンレイが言葉を続けようとしたその時、血相を変えたアンドレアスが転がるようにテントへ飛び込んできた。


「チョコ! 爺ちゃんが……ッ」


 怯え切った少年の後ろから、担架に乗せられた老人が運ばれてきた。

 息は荒く、僅かに吐血もしている。驚いた千代子とスタンレイは彼らのほうへ駆け寄った。


「ガラニス翁、一体何が!」

「山に写真を撮りに行ったら、息が苦しいって言って倒れちゃって……」


 舌をもつれさせて答えるアンドレアスを制して落ち着かせ、ガラニス老人は掠れた声で途切れ途切れに訴えた。


「吐き気がする。目眩もだ。それに……涎が止まらん(・・・・・・)


 表では、老人と同じく異変に襲われた船員たちが続々と砂浜に寝かされていた。

 千代子は必死で自分の覚えている限りの医学書をめくり、異変の正体を突き止めようと思考を巡らせる。


 狂犬病。否、動物に噛まれた報告もなく、これほど一斉に急変するのは不自然だ。

 一酸化炭素中毒。しかし、それではこの涎の過多は何だ?


 分からない。

 凍りつくように、爪先から感覚がなくなっていく。


 千代子が叫び出しそうになったとき、ガラニス老人は残された力を振り絞り、自分の経験談を零した。


「症状に覚えがある。何十年か前、銀板写真を扱っていた仲間が、似たようなことを言っていた」


 それは逆転の一矢だった。

 かちり、と頭の中で何かが嵌る音がした。

 狭窄していた視界が、瞬くように広がっていく。

 千代子は頬をぽうと赤くして呟いた。


「────水銀中毒だ」


 千代子の言葉に、スタンレイは呆然とした。


「そんな、まさか」


 そう言うと、彼はそのままテントを飛び出してしまった。

 数分後、息を切らして戻ってきた彼は、恐らく千代子の診断が合っているだろうということを告げた。


「リドフに鉱脈の様子を詳しく聞いてきた。質が悪いというのは、単なる不純物の割合もあるが、それ以上に自然水銀と水銀化合物の層が混在していて手が付けられんからだそうだ」


 水銀はその名の通り、液状を取る重金属である。

 その姿から古くより特別視され、様々に利用されてきたが、今でもあまり知られていないことが一つあった。


 水銀は体温程度の熱で簡単に気化し、人体に作用する。

 また、不眠、唾液の増加、消化器官の不調、精神状態の悪化、すべて水銀を経口摂取した際の典型的な症状だ。


 水銀中毒は時間をかけて毒を排出する以外に治療法がない。

 この島で、息をするだけ、物を食うだけで人はゆっくりと死に至る。


 何故、この島には複数の文明が関わり、滅んだ痕跡があるのか。

 答えは単純、ゴールデン・フリースに何度も人が訪れ、その全員が必ず死に絶えたからだ。


 水銀でできた羊毛は、その美しさを以て獲物を呼び寄せ、これほどまでに致命的な被害をもたらした。


「この島は、人が居ていい場所じゃない……!」


 ここはまさに怪物の胎中なのかもしれなかった。

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