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1節 『杉山千代子』

────一九二〇年春、東京。


 (ページ)を繰る指だけが、軽やかに書斎の空気を扇ぐ。

 窓が一つの簡素な部屋は微かにアール・デコの気配をまとい、一見するより何倍も金を惜しまず造られていることが伺える。


 窓辺の文机に若い女が向かっていた。

 伸びやかな春の日差しが、散る花、舶来の硝子を通って額をくすぐる。白磁の頬は桜色、上品な唇は珊瑚色、華やかな面立ちを黒壇の髪が涼やかに引き締める。


 彼女の後ろで真鍮の取っ手が回り、男が一人入ってきた。


「千代子、先生がおいでになったよ」

「あら、すぐに行きます」


 千代子、と呼ばれた女は、父の呼び声に振り返った。


 杉山(すぎやま)千代子(ちよこ)は帝都に名高き『廣鳳堂(こうほうどう)』の御令嬢である。


 薬問屋『廣鳳堂』は、吉宗が治世、享保年間より続く老舗の大店であり、かつては長崎出島の舶来品をよく取り揃え、今は当主が手ずから見極めた古今東西の医薬を仕入れている。

 その繁盛には百代に陰るところなく、杉山家の羽振りと来たら華族もかくやというほどだった。


 そのような訳で杉山邸の所蔵には、医学薬学を修めんと志す者なら涎どころか胃液まで垂らすような名著が、砂金のように眠っている。


 とはいえ、この価値を充分に引き出せる者は世にも稀に限られていた。


 年月をかけて集められた書物の数々であるが、それだけ積み重ねただけあって、漢文英文に留まらず、オランダ語にドイツ語、果てはラテン語まで使われている。

 代々の当主にも意図のさっぱり分からぬ本が山のようにあった。


 千代子が齢二十三にもなって、しかし輿入れもせず許されているのは、彼女がこれらを独りでに読み解いた天才であるからに他ならない。


 しかし、息子三人の後にようやく生まれた一人娘が、服にも菓子にも興味を示さず、ひたすら本に齧りついているのは、父にとってはひどい心配の種だった。


「もう何刻読んでいるんだい。もし目を悪くでもしたら、折角の器量良しが台無しだ」

「大丈夫よ。私、ずうっと向こうの看板だってはっきり文字が分かるんだから」


 ついと背伸びをして窓の先を指差してから、千代子は袖を押さえてぱたぱたと走り去って行った。

 その背を見送った千代子の父は、軽く唸って頭を掻いた。


 千代子が向かったのは客間ではなく、離れの茶室だった。膝をついて障子を開くと、そこには白髭をたっぷり蓄えた老人が座っていた。


「佐伯先生」

「やあ、お邪魔しているよ」


 佐伯はそう言って茶碗を掲げ、好々爺らしく目を細めた。


 この老人は佐伯(さえき)晋之助(しんのすけ)という名の医学博士で、今でこそ仙人めいた風貌だが、かつてはドイツに渡って医学を学び、帰国の後には帝国海軍の軍医として腕を振るったという話だった。


 佐伯は老いて官を退くと、一介の隠居爺として物を書き、茶を点てて過ごすようになった。その流れで『廣鳳堂』が蔵本の話を聞き、それは是非見てみたいものだと杉山邸を訪れた訳である。


 名の知れた学者の来訪に千代子の父は喜んで彼を書庫に通した。

 すると、そこにはまだ十を越したばかりの千代子が入り込んでいて、玩具代わりに論文を読んでいたのである。父が慌てて取り上げると、それはベルリンの医師が数年前に書いたものだった。


 驚いた佐伯がどこで言葉を覚えたのか尋ねたところ、千代子はきょとんとしてから、古びた辞書を指した。


 以来、佐伯はこの少女の才覚にすっかり惚れ込み、度々屋敷を訪れては医学の手ほどきをするようになったのである。


 初めこそ困惑していた千代子だが、男の書生にするのと同じように教え、拙い疑問にも真摯に応える佐伯に、いつしか強い信頼を向けるようになっていた。


「お久しゅうございますね、お身体の具合はいかがでしょう」

「なあに、すこぶる元気だよ。少しお上に呼びつけられていたもので、なかなか来れなかったんだ」


 佐伯は喉を鳴らすと、茶を飲み干した。

 それから二人はしばらく近況を語り合い、それから世間話に移った。

 数ヶ月前に出来たという国際連盟の是非だとか、学生駅伝が山越えをやったらしいが、選手は大したものであるとかである。


 そのうち千代子はふっと溜息をついて呟いた。


「欧州の大戦が終わって一年以上経ちます。そろそろ私も留学できるといいのですが」


 千代子の夢は欧州留学である。


 佐伯の献身もあって千代子は医学校を卒業し免状も得たが、その気持ちは、女医として開業するより、見識を深め研究をしたいというところにあった。


 しかし、未だ女子の高等教育に懐疑的な意見が大半を占める世の中である。


 十五年ほど前、欧州に行って学士号を引っ提げて帰ってきた女医がいた。帰国後、日本で論文と共に学位の申請をしたが、国は「女に授与した前例がない」と言って認めなかった。


 七年前には東北帝国大学が門戸を広げようと女子の受験を認めたが、名簿を見た文部省は「聴講生の間違いではないか」と確認をする始末である。


 千代子がその知識欲を満たすには、外国へ出たほうがよい、というのが佐伯の考えだった。


 金も才も莫大なものが必要だが、豪商の愛娘でありドイツ語とラテン語を充分に解する彼女には不可能なことではない。


 ところが、いざという段になって欧州で大戦争が始まってしまい、千代子の留学はお預けになっていたのである。


 戦争はとうに終わったが、混乱は深く残っている。

 そんな中での留学など、きっと両親が許してはくれないと千代子は嘆いているのだった。


 佐伯はしばらく髭を動かして、意を決したように切り出した。


「そのことなのだが、面白い話があってね」

「何でしょう」

「杉山くん、ハワイに行ってみないか」

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