12節 『バッカニア』
食事の間、ロットナーは先ほどのやり取りのことをいつまでも考えていた。
千代子たちの手前、大人しく我慢していたが、本当ならばクラウゼヴィッツの前歯を四本くらいは折っておきたかった。できれば鼻筋も。
それも結局は、聞き流しきることもできず、千代子に庇われ、ウィリアムズに助けてもらった。
クラウゼヴィッツの言うことは図星だったのかもしれない。
自分は情けないやつだ。
確かに、スタンレイの誘いに頷いてからというもの、散々な目に遭ってきた。船酔い、落水、食中毒、罵り合いに、蛸と蟹。傍目にはこれ以上ない間抜けに見えただろう。
それでも、楽しかったのだ。そんなことを思うのは初めてだった。
知ってしまったからこそ、自分の大切なものを自分で守れない自分が嫌になる。こんな気持ちになるくらいなら──
「──こんなところ、来たくなかった」
口に出してしまった瞬間、脳が冷える思いがした。
ロットナーはなんてことを言ってしまったのだろうと我に返ると、咄嗟に謝った。
「……悪い、そういうつもりじゃなかった」
千代子は何か声をかけようとして、しかし、何も言えなかった。
俯くロットナーへ、ウィリアムズは静かに尋ねた。
「帰りたいか」
「頷いても帰れないだろ」
気まずさを誤魔化すように言い返すと、ウィリアムズは上機嫌になって言った。
「よく分かってるな。いいことを教えてやる。大切なのは、ヤケになることだ」
ロットナーは僅かに眉を上げ、頭をもたげた。
それを興味の合図に取ると、ウィリアムズはゆったりとした口調で語り始める。
「小さい頃、爺さんに聞いた話だ。今から二百年以上前、あるバッカニアの一味が銀を求めてパナマの密林にやってきた」
「バッカニア?」
「海賊だよ」
千代子の呟きに、デ・ルカが耳打ちを返す。
バッカニアと呼ばれるのは、十七世紀頃にカリブ海域で海賊行為をしていた者たちである。
彼らは祖国からさえ追われる無法者のときもあったし、当時、広大な植民地を押さえていたスペインを弱らせるための特権的な掠奪者だったこともあった。
パナマから本国へ向かうスペイン船は、植民地で採掘された上質な銀をたっぷりと積み込んでいる。それを襲って奪ってしまおうという魂胆なのである。
ウィリアムズの言うところの彼らもまた、英国からスペインの財宝を目指してやってきたのだ。
「その中には船長の勧誘を断り切れず船に乗った医者がいた」
どんな海賊船長も、町で医者を見かけたらまず仲間に勧誘する。船という動く孤島の上では病や怪我が死活問題だからだ。
誘いに乗ってくれれば(断ればどうなるかというのはさておき)、船長は彼を大切に扱い、特別な給料を与え、一味が解散しても船医だけは手放さないとさえ言われている。
「要するにお前と同じだ。行く以外の選択肢がなかったとはいえ、初めは乗り気だったし、途中でやっぱり嫌になった」
環境は劣悪、宝は思うように得られず、いつスペイン兵に見つかるか気が気でない。
当然、不満を覚えていたのは彼だけでなく、とうとうバッカニアたちはイングランドに帰還することを決めた。
「そんなとき、その医者はうっかり怪我をした。今すぐ死ぬって訳じゃないが、骨まで見えるような大怪我だ」
応急処置は済ませられたが、早くきちんとした治療を受けなければ命にも関わる。
だが、ここは密林の最中。先住民のいる集落までは何日も、道なき道と増水した川を越えて歩かなければならない。
「バッカニアたちは事前に取り決めをしていた。もし、怪我や疲労で動けなくなった仲間がいたら、そいつを殺す、と。置いていったやつが捕まって秘密を漏らしたら全員が地獄行きだからな」
スペインは既に彼らの襲撃を把握し、警戒を強めていた。
故に彼らは何よりも仲間が捕まることを恐れた。刑を軽くしてもらう代わりに、何もかも証言されてしまうかもしれないからだ。
「勿論、そのときは医者も賛成した。まさか自分がそうなるとは思ってなかったんだ」
「じゃあ、そのお医者さまは約束通りに殺されてしまったの?」
千代子は恐る恐る尋ねた。
どんなに命乞いをしたところで約束は約束。海賊たちは彼を見逃してくれないだろう、と思ったのだ。
しかし、ウィリアムズは少し間を置いてから、はっきりと否定した。
「いいや。だから、そいつは歩いた。誰もが無理だと思ったが、立ち上がって、歩いたんだよ」
ぬかるんで足場の悪い中、息は荒く、顔色は土気を帯びたまま。ひたすらに隊列へ食らいつき、必ず一歩を踏み出した。
川の濁流に足を取られ、岩場に直撃した。
想像を絶する痛みだが、意識だけは手放さなかった。
甘言に釣られ、未開の地へのこのことやってきた。
自分は大丈夫だと慢心し、軽率に約束してしまった。
だから今、自分は最悪な目に遭わされている。
それでも医者は、諦めて楽になってしまおうとは思わなかった。
「そのうちバッカニアたちは先住民の村に着いて、そいつは手当てを受けられた。まあ、そこでも何やかんやで殺されかけたんだが……最後には先住民の王子と友だちにまでなったのさ」
傷を治すまで村人たちと暮らしたあと、彼は幸運にもかつての海賊仲間と再会し、無事イングランドに帰ることができたという。村人たちには、あとで必ず村に戻ってくると嘘を吐かなければならなかったが。
話を聞き終わり、千代子はきょとんとして言った。
「それが、ヤケになるってこと?」
「そうだ。医者は村に馴染むため、ありとあらゆることをした。鼻輪を付け、化粧をして、妻も貰った」
そうするしかないのであれば、降りかかるすべてを踏み越え、初めに選んだ一点、ただ一点を掴み切る。
思考に囚われ、何かをすることをやめた瞬間、医者は死んでいた。
馬鹿正直に立ち向かえ。
足を止めること、引き返すことは、日常を生きる人間の特権だ。
ウィリアムズは力強く言った。
「歩き続けろ、ロットナー。お前にはそれが一番向いてる」