10節 『ゴールデン・フリース』
日没、サンダル号の船員たちが上陸したのは、ゴールデン・フリースの南面に構える穏やかな入り江だった。
まだ少しだけ夕陽の残り香が漂う水面に、船から荷を下ろす船員たちの影が泳いでいた。
「慎重に運べー。調査道具が壊れたら給料から天引きするからな」
荷下ろしを監督しつつ、ウィリアムズは久しぶりの紫煙に喉を鳴らす。
自分は船長。これさえ済ませればしばらくはお役御免になる。ポーツマス港からの長い長い航海は気の休まるところがなかったが、ようやく息を吐けそうだ。
代わりに忙しくなるのはアダムスたち第一班の人間だ。千代子たち医療班も、さらにもう少し経てば忙しなく動き回って今までのようには話せなくなるだろう。
ウィリアムズが横目に窺うと、千代子はじっと遠くのほうを見つめていた。
千代子は糸のような月を仰ぎ、遠い故郷を思った。
夜風は冷たい。
朔を僅かに過ぎたばかりの月は、西の空に低く浮かぶ。空は虹を帯びた紫黒に染まっている。
波打ち際の白砂はこの暗がりにあっても星明かりを浴びて薄ぼんやりと光っていた。
小さな蟹が逃げていった。
その晩は砂浜に簡素なテントを張って過ごした。
千代子は仰向けになって、白浪が砂をくすぐる音を聞いていた。こんなにも頭がくらくらするのは、陸酔いの所為なのだろうかと考えていた。
どこか遠くで海鳥が鳴いていた。
人間が来るよりずっと前から、彼らはこの島を当然のように知っていたのだろう。
朝が来るのは早かった。
虫のようにのそのそと這い出てきた船員たちは、瞼を擦り、初めて陽光の下でゴールデン・フリースの姿をはっきりと見た。
まず目についたのは、入り江の奥にある小さな森だった。
木々はまだ若く、ほっそりとした枝先に鮮やかな新緑を芽吹かせていた。木立の合間には霧が立ち込めているが、木漏れ日がよく入り、シダや花木が旺盛に生えている。
千代子はその景色に、懐かしさに似た不安を覚えた。
(なんだか、お社の杜みたいなんだ……)
森は海岸線に沿ってどこまでも続き、東西に五、六キロメートルはあるように思われた。下手をすればもっと長いかもしれない。
それから、中央に山が一つあった。
摩天の山嶺は遠くからでも岩肌が目立ち、切り立った崖も見える。この山を見る限り、シャルルの目算では、北にも十数キロメートルはあるはずだということである。
島は相当に広いようだった。
まずは調査拠点を作らなければならない。
食事の用意も要るだろう。
船員たちは入り江から十メートル以上離れないことを決めてから、たちまち辺りに散らばった。
***
ロシアの地学者イワン・リドフは森の入り口に立って頻りに髭を揉んでいた。反対の手は三つ揃えのポケットに入れ、指揮者のように腿を叩く。
それからおもむろに呟いた。
「奇妙だな」
「そうですか? 僕は拍子抜けしましたよ」
リドフの近くで、色黒の青年が木を伐りながらそっけなく答えた。スペインから来た、ブエナベントゥラという名前の若い甲板員見習いだった。
二人は共に第七班の所属であった。
リドフは咳払いをしてから伺うように青年を見た。
「どうしてそう思う?」
「この島、まるで普通じゃありませんか。もっとおかしな……見たことないような草木や、訳の分からない動物がいるものだと」
ブエナベントゥラは斧を置いて正直に答えた。若者にとっては、昨日の大蛸によって抱いた未知への憧れが、こんなにもすぐ否定されたのは最悪な期待外れだった。
そんな彼の返事に、リドフは目を細めて頷いた。
「まあ、そうだな。この島は、一つ一つは平凡な、よくある気候、植生でしかないよ」
ブエナベントゥラは片眉を上げた。浅慮を叱られるか、少なくとも同意されるとは思っていなかったからだ。
壮年の地学者はようやく左手をポケットから出すと、そびえ立つ山の頂上を指差した。
「あの山が見えるかね。あれは火山じゃない。地層の隆起で生まれたんだ。つまり、この島は数百年ではきかないほど昔から、ずっとここにあったはずなんだ」
あの山を掘ってみれば、貝の化石や岩塩層が出てくるだろう、とリドフは言った。
「だが、見てみなさい。この森は……陽樹林だ」
聞き慣れない言葉にブエナベントゥラは顔をしかめた。
「何ですって?」
「陽樹林。日差しを好み、日陰を嫌う草木が多い。ここに森ができて、それほど時間が経っていないということだ」
原初、陸には何もない。
何もなかった場所に苔が生え、菌や虫を呼ぶ。苔むした岩場は段々と草地に変わり、土壌は豊かになっていく。
枯れた草から土が生まれ、草木はより深く根を張れるようになり、樹木の中でも成長の速いものが陽樹林を作り出す。
それがいつかは日陰を作り、環境を変え、次の植物相へと遷移していく。
遷移が進むにつれ、変化は穏やかになっていく。
最後には老いた大木が倒れ、再び光の差した空間に、新たな命が芽吹くのである。
「島は古いが、森は新しい。これは興味深い矛盾だ」
仮説は幾らでも立てられる。
人が来なかったせいで、遷移が遅れているのかもしれない。
はたまた、過去に大火事や津波によって、森が破壊されているのかもしれない。
真実を明かすのが楽しみだ。
リドフはそう言ってブエナベントゥラの顔を見た。彼は期待通りの表情を浮かべていた。
ブエナベントゥラが何か答える前に、彼の上司であるウィリアムズが入り江のほうから呼びかけた。
「ベンティ! 暇なら薪を割っておいてくれるか」
「はい、キャプテン」
ブエナベントゥラは振り返って頷くと、斧を拾って踵を返した。ウィリアムズには、見習いなど連れていけないところを、無理を聞いて乗せてもらっている。人一倍働かなくてはこの恩は返せない。
リドフは少し背伸びをして、その後について行った。
「丁度いい、私も手伝おう。君は学生に向いている気がするからね」