9節 『祝砲』
「蛸だ!」
怪物の八本の触腕が、うねり、鞭のように襲いかかった。
その広げた幅は、サンダル号の全長よりも遥かに大きい。幼児が玩具を握るように、たちまち蛸は船を巻き取ってしまう。
「掴まれてる! 船を折られるぞ」
帆を畳みながら甲板員が叫ぶ。
そこへ、千代子がやかんを持って飛び出した。
「お湯を持ってきた!」
千代子は器用に走り寄ると、手近な蛸の足に湯を浴びせかかる。
想像通り、常なら冷たい海の底で暮らしているはずの彼にとっては、紅茶の残り湯でさえ、地獄の釜湯と同じだったようである。
「効いてる!」
「よし、もっと船体から剥がして!」
触腕がするすると引き下がるのを見て、デ・ルカが舵を抑えながら叫ぶ。
それでは、と千代子はまた別の足に向かうが、小さなやかんからは数滴が溢れたきりであった。
「全然足りないじゃん!」
「そりゃそうだ」
今はたまたま紅茶用の湯が残っていたが、再び沸かすにはとんでもない時間がかかる。
厨房係の船員が拳を振って怒鳴った。
「酢でも酒でも何でもいいから持ってこい!」
「うう、戦闘っていうより料理してるみたいだ」
あちこちで船員たちが蛸を追い返そうとナイフや斧を振りかぶる。ついた傷口は浅いが、そこに刺激物を塗り込んでやれば、相当に痛むはずだ。
ロットナーたちも甲板を走り回って酒瓶を運ぶ。
そんな地道な抵抗が功を奏し、蛸は苛立ったように腕を払い上げ、とうとうサンダル号を捕らえるのは船尾を掴む一本の腕ばかりとなった。
「エンジン全開! 一気に引き離す!」
すかさずウィリアムズが号令をかける。
ディーゼル機関が唸りを上げ、サンダル号はかつての狂速の片鱗を覗かせる。
全速力で逃げ出そうとするサンダル号に再び悪魔の手が伸びるが、それも織り込み済みだ。
「野郎ども、艦砲用意!」
「アイ、アイ、キャプテン!」
勇敢な女船長の十二人の部下は、勤勉な小人のように砲台と火薬、砲弾を運んでくる。
しかし、カーレッドは青ざめて叫んだ。
「一門しか無いんですか!?」
「サメを追い払えれば充分の予定だったんだよ!」
どれほど嘆いても、無いものは無い。
この五ポンドクラスの骨董品は前装式で、連射は不可能だ。
それでもここで七十メートル先の大蛸に命中させなければ、アルゴノーツの冒険は終わってしまう。
「スコット少尉、撃てるか」
「や、やってみます!」
アダムスの指示で、若いアメリカ軍人が砲身に駆け寄る。震える手で方角を合わせ、導線に火を点けるよう合図を出す。
「待て、方角そのまま左に二度!」
「えっ、こうですか!?」
艦橋の上からシャルルが叫び、スコットは反射的に腕を伸ばす。
艦砲は轟音と共に白煙を吹いた。
直後、蛸は再び身を翻して大きく震えた。
咄嗟にずらした砲身から撃ち出された弾が、蛸の額、その中央に当たったのだ。
「フゥ! オレってば天才!」
試射を伴わない、目測と計算による神業。
シャルルが大袈裟に仰け反るのを、スコットが唖然として見つめる。
「もう一発!」
逃げ切る距離を稼ぐには、まだ時間が必要だ。
双眼鏡を片手にアダムスが言うが、シャルルが身を乗り出して遮る。
「船の向きが変わった! 計算する、三十秒くれ!」
「それじゃ間に合わん!」
「じゃあ貸せ!」
そう言うと、シャルルは躊躇なく艦橋の上から飛び降りた。階段を回ってくるより遥かに速いからだ。
しかし、その浮いた駒を掬わんと、一条の触腕が空を穿つ。
「まずい、シャルル!」
ロットナーは咄嗟に駆け出した。
シャツ一枚の背中を目掛け、踵を振り上げる。
「この……っ! 歯ァ食いしばれ!」
「どわーっ!!」
着地寸前、シャルルはロットナーの踵に押し出され、二転三転しながらも艦砲に辿り着く。
照準を付けるまでの三秒は、仲間が掴む。
「イスハーク!」
カーレッドの一声に間髪入れず、イスハークが強弓を絞り切る。
天を裂くほどの金切り声を上げ、矢は曲線を描いて蛸の右眼を正確に射貫いた。
「今だ、撃て!」
硬直の隙、二・三キロの砲弾が直撃する。
蛸は目をぐるりと剥いて、十数分前とは裏腹にずるずる力なく沈んでいった。
「何だったんだ、今のは……」
帽子を抑えながら、アダムスが呆然として呟いた。
これではまるで、酔った船乗りの空ごとか、巷で流行りの冒険小説だ。
そんな中、早々に落ち着きを取り戻したカーレッドは、船員たちに被害の報告を求める。
「怪我人は?」
「打撲が何人かと……あと顔面を吸い付かれた奴が一人」
スコットが横目にちらりと向いた先には、腹を抱えて笑うシャルルと不満げなロットナーの姿があった。
「ダハハハハ! バカみてーな面!」
「俺のおかげで蛸壺に持ち帰られなかったんだから有り難く思えよ」
ロットナーはむすりと顔をしかめて答える。その肌は薔薇のように赤く、また、判子のような吸盤の跡がくっきりと刻まれていた。
それは磯臭い勲章だった。
シャルルを蹴り飛ばしたロットナーは、身代わりとなって蛸足に締め上げられてしまったのだ。戦いの徴は服の下にも残っていることだろう。
一方、ロットナーの顔の赤味の八割は、千代子が必死で振りかけた唐辛子の粉末の所為だ。
「腫れて赤いのか唐辛子で赤いのか分かんねえな」
「ご、ごめんね、お湯だと危ないと思って」
「顔がからい……」
さっさと粉を落としてしまおうと、ロットナーは瓶の水を引っ被る。それを見て、千代子ははっと口を押さえた。
「あっ、水は駄目よ! 油じゃないと……」
「んな゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
ひりひりとした痛みが身体中に広がり、ロットナーは甲板に横転した。
***
予期せぬ事件はあったが、その夕方には、サンダル号はゴールデン・フリースの入り江に辿り着くことができた。
錨を下ろして船を留める。
小さな古びた木船に、九班に分かれた船員がそれぞれ乗り込んだ。
千代子たちの乗る小舟はデ・ルカが操る。
「小舟まで漕げるのか」
「ヴェネツィアの叔父に教わったんだ」
スタンレイが感心すると、デ・ルカは見せびらかすように器用に櫂を回して見せた。
気分も良さげに船べりへと腕を預けながら、ウィリアムズが人差し指を回してねだる。
「舟歌は習わなかったのか?」
「三シリング」
「ジェノヴァ人、すなわち商人!」
ウィリアムズは古い言い回しと共に銀貨を投げ渡す。
デ・ルカはその気前を讃えるように口笛を吹くと、伸びやかな声で小夜曲を歌い出した。
太平洋の真ん中に、ヴェネツィアの夜景を見た。
ぎい、ぎいと舟を漕ぐ規則的な音は、秒針となって大舞台の幕を開けるまでを数える。千代子はふっと息を吐き、祈るように手を合わせた。
「先生……約束を、果たします」
新たなるアルゴノーツ、その船員たちは、一九二〇年の四月二十一日、ゴールデン・フリースに上陸した。