8節 『悪魔』
「島だ! 島が見えるぞ!」
五日目の朝、千代子たちを叩き起こしたのは、そんな見張りの声だった。
船員たちはもつれあいながら甲板に上がり、水平線上に薄っすらと浮かぶ新緑の影を見た。
明らかに既知の島々とは違う、神秘的な佇まい。
ゴールデン・フリース島だ。
「どこにある?」
「おお、あった!」
船員たちが口々に感嘆の声を零す中、千代子は一人、飛び跳ねたり船から身を乗り出したりと忙しない。
ロットナーはゆっくり近寄り横に並ぶと、腰を屈めて尋ねた。
「何してるんだ」
「何でか分からないけど、私だけ見えないの!」
すると、ロットナーは少し考え込んでから答えた。
「あと四十秒経つまでには見えるようになる」
千代子は首を傾げながらも、その通りに心の中で数えて待つ。
すると、ロットナーの言う通りに、海原に霞む島影が水平線に現れたではないか。
「見えた! 何で分かったの?」
千代子がぱっと振り返ると、ロットナーはニヤニヤとして答えなかった。
三平方の定理の応用である。
観測地点が一センチ高くなる毎に、水平線の位置にはおよそ十三・七メートルのズレが発生する。千代子は常に、ロットナーが約二二〇メートル後ろにいたときの水平線を見ていることになるのだ。
シンプルな数学だが、千代子はまるで魔法でも使われたかのように目を輝かせている。
それがどうしても面白く、ロットナーはわざと黙って千代子を見ていた。
「何で教えてくれないの!? ねえ!」
痺れを切らした千代子がカーレッドに聞きに行くまで、ロットナーはうずくまって笑っていた。
***
「ゴールデン・フリース……実在するか」
騒ぎから外れた陰で、船長アダムスは腕を組み、呟くように言った。
カーレッドはその隣に添って立つと、くすりと笑う。
「信じておられなかったので?」
「軍を疑っていた訳ではないが……いざ、この目で確かめさせられると面食らうものだ」
いよいよ大舞台が近くあるとなっては、船員たちの興奮も大きい。アダムスは歓声を避けるように艦橋に戻り、黙々と書類を睨むウィリアムズに声をかけた。
「船の座標はどうだ」
「予定より少し西だな。この島、かなり大きいぞ」
この五日間というもの、デ・ルカたち航海士と調査隊の学者はひっきりなしに観測を行い、海図を作り続けていた。
特にデ・ルカの読みは優秀で、風や波を有効に使い切った。このため、サンダル号はほぼ理想のペースでゴールデン・フリースへと到着する。
だが、問題はこの先である。
「先遣隊が沈没したのはこの付近か」
「流れは穏やかだ。ソナーの結果は?」
機械と睨み合う将校に、ウィリアムズがソファから仰け反って尋ねる。
アメリカ人の若い観測手は、ヘッドセットを外して小さく首を振った。
「岩礁も浅瀬もないようです。むしろ、島が近いにしては深いですね」
「急に浅くなるかもしれん。気を抜くな」
アダムスは全員に向けて繰り返した。
人間は海の中を覗けるようになったが、完全なる神の眼を得たのではない。些細な予兆を見過ごせば、気がついたときには手遅れということもある。
黄金の羊毛を目前にして、座礁で全滅という結果だけはあってはならない。
観測手は唾を飲んで慎重に耳を澄ます。
海は静寂だった。
呼び声を投げかけても、微かな返事しか返ってこない。
塩の濃度、海水の温度、それらが人魚の警告を絡め取り、穏やかな深海の虚像を見せているのかもしれない。
果たして、己の足下には二万マイルの空間が広がっているのだろうか。
そんな思考が、深海の応える音が、彼に儚くも心地よい集中をもたらす。
故に、観測手は異変に気がついた。
「…………?」
初めは違和感だった。しかし、すぐに警戒心が湧き上がる。
調和の取れた反響の中に、気持ち悪い雑音が混じり出す。
「大佐! 下です!」
観測手が叫ぶより早く、大波ともまた違う揺れがサンダル号を襲う。
「何だ!?」
「伏せて! 何か上がってくる!」
甲板の船員たちは船から放り出されないように必死で掴まった。互いの手を掴み、船べりや柱にしがみつく。
ロットナーは、吹き飛びそうになる千代子を抱え上げ転がり伏せた。
何かが海の底から上がってくる。
揺れの中でも立ち上がったウィリアムズは、喉が裂けんばかりに吠え、指示を出す。
「デ・ルカ! どっちでもいいから舵切れるだけ切れ!」
「分かった、面舵いっぱい! ああ、でも、ぶつかるかも!」
「総員、配置につけ!」
アダムスの一声で軍人たちが表情を変える。
非戦闘員を室内に戻し、それぞれが担当の位置に走る。
黒ぐろとした柱が、噴火めいて海面を突き破る。何本も、何本も。
柱はぬらぬらと太陽の光を反射し、そこには沢山の吸盤が脈動のように蠢いていた。
その向こう、薄気味悪い風船のような膨らみに潜んだ、巨大な山羊のような目が、ぎょろりと人間たちを見た。
誰かが叫ぶ。
「蛸だ!」
致命的な結末の気配がする。
かくしてサンダル号は、悪魔に出会った。
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